しあわせの音


家を建て替える間、僕達は古ぼけたアパートで過ごすことになった。
僕達の家はかなり老朽化していて、もう4、5年前から建て替えようと妻の康子と相談をしていた。建て替えといっても丸ごと崩して丸ごと建てるわけではない。風呂を取り替えたり一部を建て増しするという形だ。
けれど、同居していたお袋はがんとしてそれに同意をしなかった。
お袋は家の建て替えが嫌なのではなく、建て替える間に別の場所に住むことが苦痛に思えていたのだ。もちろん、意地っぱりな彼女はそうだとは言わなかったけれど、長年一緒に暮らしていればそれくらいはわかる。
そのお袋が他界して二年。娘の晴美も小学校5年生でかなり物分りもよくなってきた。
受験だとかそういったわずらわしい時期になる前に、環境を整えた方がいいと康子は提案してきた。
近所で晴美と同じ年の女の子達がいるが、その子達の中では既に私立中学受験のために塾に通っている子もいる。
僕達は自分の娘をこんな時期から塾にいれたいとは考えていない。
晴美の中学はそのまま公立でいいと僕達は思っていた。だから、この時期にちゃっちゃと建て替えてしまうことを決めた。
第一わざわざ高い金を払って私立に行かせるのも馬鹿馬鹿しい。我が家はそんなに金が溢れかえっているわけではない。
家の建て替えで金もいる。それは「いつかは」とこつこつ貯めていた貯蓄全部を使い果たすような金額だった。それでもローンを組んで、なんてことをしなくて済んだのは、結婚後に康子が家庭と職場を必死に両立させてくれていたからだ。
彼女はよくやってくれている。僕が家を出た直後に仕事に行き、僕が帰る直前で家に戻ってきて、それから夕食・風呂、と全て彼女がやってくれる。更に言えば給料だって僕と大差がないし、この世知辛い世の中ボーナスまで貰えている。その恩恵で建て直しをするのだから、と彼女のわがままをかなり取り入れた建て直しになった。まあ、そのせいで余計に金が飛んでいったのは確かだし、当初思っていたよりも長い期間、このアパートで過ごすことになってしまったけれど。
お袋の葬式だって金がかかった。晴美もこの頃は金のかかる品物を誕生日やらクリスマスにやら要求してくるようになった。
そんな中、年々減らされる僕の小遣いを来年はどうにか死守しなければいけない。
これ以上減らされては、僕は。
亮子に会うための、ホテル代すら出せなくなってしまうから。

「あーあ、今朝も目が覚めちゃったわ」
康子はそういって僕に朝ご飯を出してくれる。食卓の上に乗っているのは鮭のみそ焼きとたまご焼きと漬物。それからほうれん草と油揚げの味噌汁と白米。僕はあまり魚のみそ焼きは好きではない。この前安売りで山ほど鮭を買ってきたといっていたから、きっとみそを塗って冷凍保存しておいたのだろう。
「目が覚めたって?」
「新聞屋さんの音。ここにきてから、ずっとなの。新聞屋さんが階段あがってくる音で、目が覚めるのよねえ」
「ああ、階段の音、うるさいからなあ。三階まであがってくるのも大変だし、下にポストを作るといいのになあ」
安いアパートはとても古臭い造りになっていて、ポストは各部屋のドアについている。そして、階段の材質は、工事現場によくある、例のカンカン、と音をうるさくたてる鉄の、鈍い銀色のものだった。
そのおかげで、トントン、というよりカンカン、と耳障りな音を立てて人々は階段を昇り降りする。
「僕もうるさいかなあ」
味噌汁をすすっていると丁度晴美も仕度を終えて食卓についた。
パパ、おはよう、という声に挨拶を返し、僕は康子の返事を待った。彼女は晴美の分の味噌汁をお椀にいれながら言う。
「うるさいっていうよりあなたの場合、わかりやすい音ね」
不思議な言葉を返されて、僕は意味を理解できなかった。
「わかりやすい?」
「そうよ。機嫌がいい日の音と機嫌が悪い日の音がね、違うの」
「そういうもんかなあ・・・機嫌が悪いと足取りが重いのかな」
「ちょっと違うわ。昔もそうだったじゃない?・・・晴ちゃん、ふりかけ買っておいたわよ」
「やったー!たらこのやつ?」
「うん。缶にいれといたから自分でとりなさい。最近はたらこ味のふりかけって少ないのねえ」
晴美は席から降りて、ダイニングの隅にある缶をあけた。もともとは中元でもらった海苔の缶だったが今はすっかり海苔のみならずふりかけやらお茶漬け、それからちりめんじゃこなんかまでがごそごそ入っている晴美お気に入りの缶だ。晴美はあまり白飯が好きではなく、朝は特にふりかけ類がなければ喉を通らない娘になってしまった。
「大学のとき、わたしのアパートがこんなで・・・あの頃もあなた、その日の気分が足音に出ていたもの」
「ああ、そうだそうだ。君のアパートはこんな階段だったね」
そう康子に言われて思い出す。
大学時代にはよく彼女のアパートにいって、料理を作ってもらったものだ。あれは同棲というには浅く、しかし会いに行く、というよりは生活を共にしに行く、といったほうが近い、その年頃特有の付き合いだった。
彼女のアパートはあまり建てつけがよくない上に、階段がいつもカンカンと鳴り響いていたものだ。
だが、当時のあのアパートは大学生ばかりで24時間誰かしら起きていて、近くにコンビニエンスストアがあったものだから、朝でも昼でも夜でもざわざわとしていた。だから自分の足音も気付かなかったし、他人の足音も気にならなかった。
「ママのアパート?」
晴美はふりかけを持ってきて席に座り直して康子に聞いた。
「そうよ。結婚前にママはアパートに住んでいて、時々パパが遊びに来ていたの」
「ここみたいなアパート?」
「一人暮らしだもの、ここよりずっと狭いところよ」
僕はずず、と味噌汁を飲み干して、ごちそうさまと言いながら立ち上がった。
とりあえず皿を流し台まで持っていくのはこの家でのルールだ。
康子も自分のご飯茶碗に白飯を盛って席につく。女2人が朝食を食べる横で僕は出かける準備をした。
「今日は遅いの?」
「ああ、今日は一日で回りきらなきゃいけない客先が多いんだ。それに遠い。でも10時には帰ってくるつもりだよ」
「わかった。いってらっしゃい。ほら晴美、いってらっしゃい、は?」
「いってらっしゃーい」
「ああ、いってくる」
よれよれの革靴は足に馴染んでするりと履ける。定期をもったか確認をして、それからよほどでなければ使うことがない家の鍵をもったかを確認して、僕は出かけの挨拶を幸せな家族達にした。
扉を開けると、まだあまり見慣れない風景が広がる。
アパートの前は細い通りになっていて、朝は同じような会社員達がちらほらと通るだけだし、夜は犬の散歩をしている人に時々会うだけだ。
僕は階段を降りようとして足を踏み出した。
「あなたの場合わかりやすい音ね」
康子のその言葉がどうしてもひっかかって、僕はその一歩を踏み出すのに躊躇をした。
なんとなく。
なんとなく、いつもは触らない手すりに体重をかけながら、まるで初めて階段を降りる子供のように、僕は恐る恐る音を立てないように降りていくのだった。

亮子は以前、僕の部下だった12歳年下の女性だ。彼女が入社して2年目で、僕達は「そういう」関係になった。
社会に出たばかりの彼女にとって、12も年上の働き盛りの上司はとても大人に見えていたに違いない。そして、だからこの関係が始まったのだと思う。
実家の自営業を手伝うということで4年目にして退社してしまった彼女は、今でもこうやって僕との関係を続けている。僕はそこまで自分に魅力があるとは思っていないし、彼女だってまだ20代中盤の、結婚を考えても考えなくても普通に男とお付き合いをしているだろう時期だ。それでも彼女は何故か僕との関係を続けた。そして僕も。
時々会って、ホテルに行って。
僕は彼女を買うわけではないし、彼女も金を要求することもない。
それでも、やはり12歳も年下の彼女とそういうことをすれば、あまり一緒に遊んだり出来ないから、と時々小遣いをやっているのも事実だ。彼女は受け取るときもあれば受け取らないときもある。
考えてみると、実家の仕事であれば給料は親が握っているわけだし、彼女にとって僕からたまに貰えるほんのちょっとのお小遣いは多分重要な収入源なのだろう。会社に勤めていた頃よりも彼女は僕からお小遣いを素直に受け取ることが増えたように思える。
金で繋がっている援助交際なんてものではないから、金がなくなればこの関係が終わるとは思ってはいなかった。
どちらかが相手に飽きたり嫌いになったとき。それがこの関係の終りになるとお互いが感じていたに違いなかった。
「ご飯食べに行くのが面倒です。正直、今日は疲れちゃったからゆっくりしたいの」
二週間ぶりに会った亮子は、いつもどおり敬語まじりにそう言うと、そっと僕の腕に手をかけてきた。
彼女は腕を組むのが好きだと言う。
彼女のその願いをかなえるため、といえば聞こえはいいが、要するに人々にみつからないようにするため、僕達はわざわざ遠い駅で待ち合わせをして、常に決まった居酒屋決まったホテルに行く。
亮子はあまり気取らない女だ。焼き鳥の煙にあふれている店も嫌わないし、酔っ払いに絡まれてもそれが店のせいだとは決め付けない。
「じゃあ、いつものとこに行って、長めに休憩とろうか」
「うん。その方が、嬉しいです。ご飯はどうします?食べてきてないでしょ?」
「いいよ、行く途中の弁当屋でなんか買っていこう」
こうして僕達は今までも、そしてこれからも逢瀬を重ねるのだ。

亮子と会っている間に、時々康子の顔や晴美の顔が頭の中でちらつくけれど、それを消し去ることも巧くなった。
決して康子のことが嫌いなわけでもなく、浮気したい、と心から願っていたわけではない。そのうえ、僕は、若さが何よりも良いと思うような人間ではない。
それでも、自分と同じか、いやそれ以上稼いで、しかも妻であり母であることをそつなくこなしている彼女の側にいつもいることは、時折息が苦しくなる。
家を建て直そう、という話になってからその気持ちは加速していった。
彼女はマイホームへの憧れというものがかなり現実的だった。
そして僕は男のわりには、いや、男だからなのか、ただ僕という人間がそうだ、というだけなのかはわからないが、彼女が描く現実的なプランをあれもこれも聞いているうちに嫌気がさしてきた。
日当たりがどうこう、台所の使い勝手が、というところまではまだ当たり前だと思えた。
そのうち、自分達が年をとったら、とか、防犯を考えてどうこう、とか、車庫のシャッターのつくりがどうとか。
階段の手すりをもうひとつすべりにくいような素材でつける、とか玄関の段差をなくしてバリアフリーがどうの、とか。
悪いことじゃない。
悪いことじゃあないけれど、金には限界があるし、彼女が全て稼いだわけでもないし、娘がまだ小学生の頃から自分達の老後のことをそう細かくあげるなんて、どうも僕にはよくわからない。
そう言うと彼女は「あなたが呑気すぎるのよ。いつまでも今のままでいられると思っているんでしょ」なんてひどいことを言う。誰もそうとは言っていないのに。
「だから家を建て直すっていってるんじゃないか」
「そうだけど・・・あなたは、今不便だから、ってことしか考えていないみたいなんだもの。でも、結構そういう人よね、昔っから。よく、すぐ後でばれる嘘ついてたし」
「うう。それは確かにそうだけど。でも、今は違うだろう?」
「それは、すぐばれるから、と思って嘘をつかなくなったからでしょ」
康子はそう言って笑う。それにあわせて僕も笑う。
彼女はよく笑顔を見せるけれど、時々僕はその笑顔をほんのちょっと憎いと思うこともある。
でも、この僕によく尽くしてくれる、本当に出来た妻だと思う。
本当に、心からそう思う。

「昨日は何かいいことあったの?」
翌朝、康子は鮭茶漬けを作りながらやぶからぼうにそう言った。
「え、なんで?」
「なんか、嬉しそうに帰ってきたから」
今まで数え切れないほどのその会話が、僕の警戒心を今朝はあおる。
「そ、そう?足音・・・?」
「ううん、違うわ。夜遅いくせに、ただいま、の声が疲れてなかったから」
「君は本当に聡い人だなあ」
「あら、ありがとう。だって、あなたのちょっとした感情の動きを感じるのっておもしろいんだもの」
「そうかい」
恋人同士の頃だったら嬉しかっただろうその言葉が、今は皮肉にも思えてしまう。
どうせ僕はすぐに顔や声、それどころか足音にさえでちまう男だよ。
そう言いたくなって口を閉ざす。
昨日の朝はびくびくしながら階段を降りていったけれど、それはかなり不自然だった、と後から僕は考えた。
そんな大げさなことじゃないんだ。気にすることはない。人間なんだから多少足取りが軽くなったり重くなったりするのは当然で、それを言い当てられたときに慌てる必要なんてこれっぽっちもない。
何かいいことあったの、といわれれば、帰りに100円玉を道で拾ったんだ、といえばいいし、何か嫌なことがあったの、といわれれば、部下のミスのせいでまた自分が部長に怒られた、といえば済む。その程度のものだ。
「最近は遅く帰っても晴美は起きていないな。早く寝る習慣がついたようだね」
「・・・そうね」
一瞬康子の言葉は止まり、それからさらりと当たり前の返事が返ってきた。
家事に集中していたから、と思うことでその彼女の返答の間は、僕にとっては何の気にすることもない瞬間になった。
僕は康子から茶漬けを受け取って胃にかきこむ。
茶の温度は熱すぎない。
さらさらと口から胃に流し込むのに適したその温度にしてくれる心遣いに気付いたのはつい最近だった。
僕はやかんを使ってしゅうしゅうと蒸気がうるさくあがるお湯で茶を淹れる。茶漬けを作る。
けれど康子は違う。
多分それは付き合っていた当初からのことだったのだけれど、そんなことに気付くのに僕は10年以上も年月を費やしてしまっていたのだ。
やはり、僕は呑気者なのだろうか?

カンカン、と小さな音をたてて階段を昇って、二階に差し掛かったとき、一番階段に近い側の部屋のドアが開いた。そこは僕達の家の真下にあたる部屋だ。ときどき男の子の声が聞こえるけれど、比較的静かな家庭だと僕は思っていた。
「あっ・・・!」
案の定、小学生3年生くらいの男の子が飛び出てきて、僕を見て声をあげた。
「なんだ、パパじゃないんだ」
「お父さんが帰ってきたと思ったのかい?」
少年は人懐こい笑顔を見せて、少し恥ずかしそうに体をくねらせながら教えてくれる。
「うん。今日はパパが帰ってきたらおばあちゃんの家に連れて行ってくれるっていうから待ってたんだ」
僕達夫婦はあまりこのアパートの隣近所のことは知らない。
どうせすぐに出て行く場所だ、と思っているからなのだが、なによりも僕達は共稼ぎで、ご近所付き合いと言うものをする余裕がないのだ。
「そうかい。残念だったね。もうすぐ帰ってきてくれるに違いないね。お母さんは?」
「いないよ。僕とパパだけ」
「そうなのか」
しまった、余計なことを聞いてしまったな、と僕は心の中で舌打ちをした。が、次の少年の言葉で救われた気持ちになる。
「妹が生まれたの。それで、よくわかんないけど、その間。だからおばあちゃんの家でご飯食べるんだって」
「そうか。早くお母さんが帰ってくるといいね」
「うん!」
この辺の産婦人科はどこなんだろう?と思いつつ、僕は少年と別れてもう一階分の階段を上った。
カンカン、と規則正しい音。しみじみと自分の足音をこんな風に聞くことは今までそうそうなかった気がする。
当たり前だけれど、晴美や康子が「おかえり」とドアを開けることはもちろんなかった。

もうすぐ家が完成する。
そう長い期間ではなかったけれど、大分このアパートにも慣れてしまった僕達は、なんとなくまたちょっとだけ違う生活に戻るのが面倒だと思えていた。
土曜日に何度か家に足を運んで進行状況なんかを確認するたびに僕は不思議な気持ちになっていた。
ここが、自分達の家なのだろうか。
そんなに外観が変わったはずもないのに、違和感を覚えた。
僕達は僕達が過ごしやすい家にしようとずっと建て替えを考えていたけれど、いざそれが実現されると奇妙な違和感を感じるものなのだろう。
僕は亮子に、また引越しが始まるから落ち着くまで会えないかもしれない、と伝えようと絡をとった。
そういった話を電話やメールなんかでするのは性に合わない。
亮子は僕の呼び出しに応じた。携帯メールの文面がなんとなく素っ気無い、いや、それとも違う、少し普段と様子が違う印象を受けたのは、僕の気のせいだろうか。
待ち合わせ場所にいた彼女は、ふくらはぎくらいまでのスカートにかかとが無いサンダル、ビーズがついている茶色の、アンサンブルというのだろうか?カーディガンとTシャツのセットになっているようなものを着て、髪を高い位置にまとめていた。僕はあまり女性の恰好についてはわからないが、とりあえず彼女はそこそこお洒落だと思う。
それから僕は彼女といつもの居酒屋に行った。簡単に四人席に案内され、スペースを広々と使えてとても気分が良い。
座るときにさっさと頼んだ瓶ビールをグラスに注いで軽く意味もなく乾杯をし、一口腹に流し込んでから、さて、と僕は家のことを説明しはじめた。
建て替えをしていることを彼女はもちろん知っていたし、そろそろ終わることも知っていた。
彼女はうんうん、と頷いて話を聞いて、改めて「家をどんな風に変えたの?」と聞いてきた。
「あれ、言わなかったっけ」
ちょうどそのとき通りがかった店員を呼んで、彼女は料理を注文した。それが終わると僕に向き直って、律儀に返事をする。
「はい。その、ね、あんまりあなたの家の話、聞きたくなくて、わたしも詳しく聞こうとしなかったんだけど・・・」
「そうか・・・」
僕は風呂を変えること、台所の向きが悪いので窓を調節したこと、晴美の部屋をひとつ建て増ししたこと。庭をひろげたこと、玄関の段差をなくしたこと、てすりをつけたこと、それから、トイレを広くしたこと・・・それから・・・。
うん、うん、と亮子は頷きながら聞いて、揚げだし豆腐を食べる。
「へえ、奥さんの親御さんと同居するんですか」
「え?しないよ」
「あれ?・・・だって、なんか、そういう感じがして」
「・・・ああ・・・そうかもね」
亮子に言われて僕は初めてそんなことに気付いた。
まさか。
そんな話は今まで一度も出てこなかったし。
僕は「自分達の老後のためだよ」と笑い飛ばそうとして、うまく笑えなくなった。
今まで一度も出なくて当たり前だ。だって、僕のお袋がいたんだから。
「・・・おかわり、頼むかい」
めずらしくビールを小さなコップで一杯だけ飲んだだけの亮子に気づかうふりをして僕はそう言った。そういうことで自分の動揺をなかったことにしようとしているのが自分でわかる。僕は彼女のペースも気にしないで瓶ビールで自分ばかりがぶがぶ飲んでしまっていた。
「もう一本頼むかい?それとも、酎ハイでも・・・」
「あ、今日はお酒はもう飲まないんです」
「そうなの?なんだい、具合でも悪いの?」
「そういうわけじゃあないけど。当分お酒は控えようと思って」
「へえ、めずらしいこと言うね」
僕はわざと明るく言った。
亮子も小さく笑う。
とてもとても鈍い僕の何かが、いやに心臓の鼓動を昂ぶらせるのがわかった。
瓶ビール一本弱で、僕はもう酔っ払ったのだろうか?
それから、亮子は自分で店員を呼び止めて、ウーロン茶のホットとビールジョッキを頼んでから、僕に向き直った。
「ここで言うのは嫌だとも思ったんですけど、他に場所ないし、ホテルにいくわけにもいかないと思って」
彼女がその一連の動作を行う間、僕はばくんばくん、と普段聞きなれない、体の内側から湧き出る音を聞きながら、嫌な汗をじっとりとかいていた。
「ホテルにいくわけにもって・・・今日、あの日?」
僕はとても失礼な、しかし、こういう関係であればそんな会話も当然だろうということを亮子にいいながら、グラスの底にうっすら残っていたビールで唇を湿らせた。
「ううん、そうじゃないんですけど・・・本当は、わたしから今日か明日くらいに呼び出そうと思っていたんですよ」
「なんで?」
「んー、いいづらいなあ」
「そういうのも、めずらしい」
「あ、サラダのその残り食べてもいいですか」
「うん、いいよ。全部食べて」
亮子はレタスやら黄色いピーマンやらがびちゃびちゃのドレッシングに浸っているサラダの皿を持った。そもそも僕はあまりそういったものを食べない。やっぱり肉や魚の方が好きだし、酸味のあるドレッシングってやつがあまり得意ではない。
早く亮子から話を聞いてしまいたい、と思う反面、彼女がゆっくりと箸で野菜をつかんで皿の内側に押し付け、余計なドレッシングをぬぐうように落としてから自分の小皿に移す姿を根気強くじいっと眺めていた。
ああ、彼女はそういえば箸の持ち方が間違っているんだった。
汗をかきながら僕はそんなどうでもいいことを思ってしまう。
亮子が皿を置いて顔をあげると、丁度いかにも電子レンジで温めてきました、という速さでウーロン茶が届いて、続いて僕の前にジョッキが置かれた。
「あの、ですね」
そう言ってからウーロン茶に口をつけて、亮子は一度「ふう」と小さく息をついた。
僕はそれをじっとみつめるだけだ。
「うん」
「実は」
「・・・うん」
「子供、出来たんです」

人は、自分だけは大丈夫だと思う生き物なのだ、と知らされながら、僕は家路についた。
亮子は多くは言わなかった。
ご家庭があることはわかっていますから。
急にこんな話をしても、今日はびっくりして混乱するだけだと思いますし。
また、連絡します。
ぐるぐると頭の中を回る亮子の言葉。
彼女は恐ろしく冷静に見えたけれど、多分それはあの場だけのことだろう。
今日会うまでは不安だっただろうし、今は今で「言ってしまった」という不安に苛まされているに違いない。
けれど、あの場所での彼女はその件については淡々としていて、どことなく康子を思い出させる声音で僕に真実をつきつけた。
彼女はどんな気持ちで僕の話を聞いていたんだろう。
僕が混乱するだけだろうから、と彼女は言っていたが、絶対亮子の方が驚き、怯えて、そして途方に暮れているだろう。
彼女は僕の子供を産むほど僕を愛してはいないだろうし、けれど、子供を殺すようなことが出来る人間ではない。
それに、一度だって今まで彼女は、僕に離婚を迫ったこともない。
僕は。
僕はどうすべきなのだろうか。
ぐるぐると悩んでいる間に僕はアパートに到着した。月が明るい夜で、途中の街灯がひとつ消えていても周囲の明るさにはまったく問題がなかった。
途中で買ってきた焼き菓子を形ばかりの土産としてもっているが、それを持っていることを時々忘れてしまう。
まだ、家に帰るには気持ちの整理がついていない。
この階段は一度登ってしまえば、引き返すことは出来ないだろう。
僕は階段の登り口に立ちすくみ、まばたきを忘れたように一段目の鉄板をみつめていた。
「今晩は。上の階の方ですよね」
突然後ろから声をかけられて、僕は大仰にびくりと体を振るわせた。
振り返るとそこには、眼鏡をかけた、人のよさそうな、僕より少しだけ若くみえる男性が大きな荷物を抱えて立っていた。
「何か探しものですか?」
「あ、いえいえ、どうぞ」
慌てて僕は階段の前からどいて、彼に道を譲った。
おやすみなさい、と穏やかに会釈をすると、彼はカンカン、とリズミカルだけれどあまりうるさくない音をたてて、男性は階段を上がっていく。
バタン、と扉を開ける音と、少年の声。
「おかえりなさい!」
「こら、遅い時間は迷惑になるから、ドアを勢いよく開けちゃ駄目だって言っているだろう?・・・ただいま、さ、中にはいろう」
微笑ましくなるような会話が切れ切れに僕の耳に届く。
それからまた、静けさが。
扉が閉まる音が聞こえなかったけれど、それは父親が閉めたのに間違いなかった。
うらやましい。
何故かそんな信じられない言葉が僕の脳裏に浮かんで来る。
何が?
何がうらやましいのだろうか?
僕は幸せな家庭にいる。よく出来た妻と、可愛い娘。家を建て替えられる程度には稼げているし、ちょっとの浮気も気付かれないだろうほどに我が家は穏やかで、変わり映えがしない普通の家庭だ。
そのとき、聞きなれた声が僕に警告ともなんとも表現出来ない、とても重々しい響きと共に僕の胸を刺す。

あなたが呑気すぎるのよ。いつまでも今のままでいられると思っているんでしょ

ああ、今日は月が明るいな。
僕はまだ階段を昇る一歩を踏み出すことが出来ずに、ただ自分の爪先と一段目の鉄板をみつめ続けた。