水葬

 

半年前にお隣の老夫婦は、長男が家を建てたから、と長年住み慣れたこの家を出てこの土地を離れていった。それまで老婦人は「住み慣れた場所から動く年でもないから」とうちのお母さんに言っていたはずだったけれど。
残りの人生を自分が産んだ実の息子と過ごしたいと思うのもありだもんね、とお饅頭を食べながらお母さんに言うと、「残りの人生、なんて言い方するもんじゃないわよ」とたしなめられた。
学校に行くのは最近退屈。
3年生になってから友達はみんな大学受験のお勉強やらで忙しい。
残念ながらわたしは進学をしないし、卒業と同時に今バイトをしている書店の準社員になるって決まっている。恰好悪いけど、その書店の経営者は小さい頃からよく知っている叔父さん、つまり親戚のコネってやつだ。この不景気に簡単に就職は出来ない、でも大学なんてところにいくにしてもわたしにはやりたいことがこれといって見当たらない、そして何の特技もない。だったら別に親のコネだろうがなんだろうが構わないと思える。
久しぶりにバイトがお休みでも友達を誘ってどこかに遊びにいくこともままならない。
わたしは暇を持て余しているけれど、彼女たちはそういうわけにもいかないのだ。
バイトも休みの日に学校から帰る道はとても退屈で、このまま家に帰って何をするの?と何度も思う。どこか、一人で遊びに行こうか。でも、一人でふらふらと歩き回るのにはここ数週間で飽きてしまった。
「あれ」
帰り道、自分の家の近くで細い煙があがっているのが見えた。
誰かがなにかを燃やしている。
秋ならばよく近所のおじいちゃんやおばさんが枯葉を集めて燃しているけれど、今は6月だ。どう考えても落葉焚きなんてもんじゃあない。
以前千代子に「ハナの家のあたりってさ、家はたくさんあるけど古臭い塀っていうの?あとなんだっけ、生け垣っての?そんなんが多くて人がどこにいるか全然みえないよね。古い家多くない?」と言われたことをふと思い出す。
確かにそうだ。正直、このあたりは今考えていた「落葉焚き」がなんだか「似合う」古い住宅街だ。だから細い煙が立ち昇っても誰も気にもしない。ああ、何か、誰かが燃している。そんなくらい。
そのまま歩いていくと、驚いたことにその煙はお隣の家の庭から昇っていた。
そういえばお隣に女の人が越して来たってお母さんが言っていたような気がする。
ああ、貸し家だったんだ、とか適当に相づちをうっていたに違いない。
少しずつ思い出して来た。そうだ、おむかいの藤野さんが親戚からもらってきた犬はしつけがされているはずだったのに勝手なことばかりしてほとほと手をやいているらしいとか、単身赴任から戻って来た3丁目の高田さんの旦那さんは都会から帰って来ただけあってあかぬけているとか、教頭先生の家の近くでこの前ベンツと軽自動車の衝突事故があったとか、そういう余計な話のついでに言われたからうっかりしていたのだろう。
何を燃やしているんだろう。好奇心にかられて背伸びをして生け垣を覗いてみる。
「あ」
わたしは生け垣の中に人影をみつけた。
あまり大きくないお隣の家の庭は、老夫婦が以前は綺麗に手入れをしていたけれどここ半年でぼうぼうに生い茂っていた、はずなのに。
既に綺麗に草もむしってあって、普通の庭に戻っていたそこには一人の女性が立っていた。
多分年齢は20代真ん中くらい、だと思う。
少し茶系の色が入っている真っ直ぐな髪は肩甲骨の下くらいでぱっつりと切り揃えている。
ベージュ色の綿のワンピースを着て少しうつむきがちにその人は立っていた。
ふと彼女はわたしに気付いてこちらへ顔をむける。
「こんにちは」
「こ、こんにちは」
びっくりした。予想以上にあまりにその人が、「美人」っていうものだったから。
バイト先には色々な人がやってくるけれど、会社勤めの女の人でばっちり化粧して高いブランド品のバッグを持っていたってこれほど整った顔立ちの人はこの辺りにはそうそういない。
こんな綺麗な人は、こんな綺麗な発音で、涼しげな声で、話をするんだ。
「煙が出ていてごめんなさいね」
「何を燃やしているんですか」
「鳥」
「鳥!?」
予想外の言葉にわたしはびっくりして瞬きをした。
「鳥って、鳥って」
「飼っていたんだけど、今朝死んでしまったの」
その人はそれへ返事を返さないわたしをどう思ったか「ふふ」って笑って
「変わった女だと思う?」
「す、少し。埋めてあげればそれでいいのに」
「ううん、鳥だから」
彼女が言っていることは全然わからない。まだきょとんとしているわたしに
「空に返してあげようと思って。煙と一緒に昇っていければ喜んでくれるんじゃないかと思ったの」
そう言って彼女は小さく微笑んだ。
空に返してあげようと思って。
彼女がどれほど美人か、どれほど綺麗な発音で話すか、よりも、彼女のその言葉がなんだかわたしの頭をぐるぐると回る。
それが、わたしとおねえさんの出会いだった。

おねえさん−津田小枝子っていう名前だっていうけど、わたしはおねえさんって呼んでいる−とわたしが仲良くなるのにはそう時間がかからなかった。
彼女は童話作家で、自分で絵も描いている人だった。色鉛筆を使った繊細な絵柄は、どっちかというと大人向けに見えた。正直にわたしがそういうと彼女は別段気にした風もなく「わたしもそう思うわ」とあっさりと答える。しみじみとバイト先で探すと、彼女が手がけた本を一冊見つけることが出来たので報告すると「そっか、一応本屋にあるんだあ」なんて呑気な答えを返してくる。そんな彼女は可愛いと思えた。
築何年なのかよくわからないお隣の家にこの人が住んでいるのはとても不思議だった。
夜になると縁側で時々彼女は星を見ていた。わたしがそれを二階の部屋から発見して、家を抜け出してご一緒するほど親密になったのはほんの二週間後のことだった。
都会で活動していたけれどちょっと疲れてしまって引っ越して来たのだと教えてくれた。何のとりえもないわたしの町をどうして選んだのか聞くと「たまたまよ」とさらりと答える。
「どうして童話作家になったの」
「子供の頃から絵を描くのが好きだったの。わたし、童話のお姫様に憧れて、幼稚園くらいの頃から毎日毎日お姫様を描いていたんだ。ドレスとかティアラとか、ガラスの靴とか、リボンとかもう、大好きよ。でも絵本の中のお姫様って案外質素なのよね。それがつまらなくってよくお母さんが持っていたアクセサリーをみながら、本に書き込んでたわ・・・だからね、空想も大好きだったのよ」
彼女がわたしに話してくれる話はおもしろくて、バイトがない日は彼女の家にそのまま寄ることが増えた。
時には彼女は仕事をして、時にはお菓子を作って待っていてくれ、そして時には。
彼女はおねだりをしたわたしに、メイクを教えてくれた。
「色鉛筆であんな絵がかけたらメイクも上手に決まってるよね」
「まさか。全然違うわよ。でも、そうね、わたし化粧は上手いと思うわ。ハナちゃんくらいの頃って、流行りメイクの練習たくさんするでしょ。それは自分でやってね。わたしは流行りと関係ない場所を教えてあげるから」
そういっておねえさんは丁寧にわたしにお化粧を教えてくれた。
学校にはしていけないけれど、お休みの日に友達と久々に遊ぶときに、おねえさんに言われたとおりのメイクをしていったらみんなに誉められた。そして、誉められたけれど、受験がない人はいいわね、とちくりとも言われた。
受験、っていう自分が選んだ選択肢のための努力なのに、そういうことをどうして言うんだろう。がっかりした。確かにわたしは彼女達に比べて努力をしていない。でも、だからって努力してない人間が努力している人のために何かをするってのはおかしい話だし、わたしはわたしなりに彼女達に気をつかって平日は遊びにも誘っていない。
彼女達のことは決して嫌いじゃないけれど、おねえさんとの交流を持ち始めたわたしからすれば、ぎすぎすして、そしてわがままで、どことなく付き合うのは今は面倒に思えた。
お受験って大変。就職活動も大変。
わかってる。それを運よく逃れたのはわたしの努力でもなんでもないってことは。
でもおねえさんは決して「受験勉強しなくてもいいから楽ね」とか「就職活動しないで済むなんてラッキーね」なんてことは言わなかった。「ハナちゃんは真面目にバイトをしていたのね」って言ってくれる。
「ううん、そういうわけじゃないの。やりたいことが見つからないの。でも生きていくにはお金がいるでしょう」
「ハナちゃんは頭がいい女の子なのねえ」
少しだけずれているけれど、彼女にそう言われることは悪くなかった。
わたしはおねえさんが大好きだった。
美人だけどそれを鼻にかけずに、人の意見は素直に聞く耳があって、話もおもしろくて優しくて料理が上手で。そして仕事も出来て、ひとりでこんな町に引っ越しが出来る実行力もあって、申し分がない女性だと思った。生まれて初めて「憧れの女性」に出会った気がする。
あなたの憧れの女性は?なんていうちゃちな雑誌のアンケートで芸能人しかあげられないわたし達の年齢の女の子は、自分よりも年が上で自分より綺麗な人を時折ものすごく妬む。明らかに相手が綺麗でも、自分達のほうが若い、だから、自分達のほうが優れている。そういう変な優劣関係を作ろうとする。たった二歳や三歳年上の人まで「おばさん」扱いをするのはあまりにも愚行だ。でも、そういう友達はたくさんいる。
彼女たちにおねえさんを会わせたらみんなどう思うだろうか。
やっぱり「あんなおばさん」っていう言い方するだろうか。
ううん、まさか。だって本当におねえさんは綺麗で、何も申し分がなくて。
「どうしたの、ハナちゃん」
「ねえ、今描いてる絵ってなあに」
まさか今考えていたことをそのままおねえさんに言えるわけもなく、わたしは慌てて取り繕った。
「今はねえ、人魚姫。自分の童話じゃないんだ。絵だけ頼まれているの」
そう言ってみせてくれたラフスケッチにはたくさんの人魚が描かれていた。
黒い鉛筆線だけれど、わたしの頭の中では、以前写真で見たことがある外国らしい綺麗な青い海が広がり、そこで優雅に泳いでいる人魚のイメージが広がる。
人魚の鱗って本当は何色なんだろう。そんなことを思っていたけれど、本当もなにも人魚がいると思っているわけでもない。わたしはちょっと笑いたくなったのを堪えてずっとおねえさんのスケッチを見る。
「綺麗で、悲しいけど、馬鹿な話よねえ。一人で片思いして一人で舞い上がって、挙句に海の泡になっちゃうのよ」
おねえさんは台所からアイスティーを運んできてそう言った。
「そうだね」
「どうしようもないけど、でも、嫌いじゃないの。すごいよね、声を失ってもいいから、好きな人に会いたいなんて。話せない自分でも、王子様が好きになってくれると思っていたのかしらね。それとも、本当にただ会いたかったのかしら」
そう呟くおねえさんが描く人魚は、本当に本当に綺麗だと思った。

夏祭りの日、わたしはおねえさんと出かけた。夏休みにはいって一週目の土曜日に、歩いて30分くらいの大きな神社で行われるお祭りにおねえさんを連れて行く約束をしていたのだ。
友達は今まさに受験勉強の大詰めとやらで、なんとかとかいう大手の塾の合宿に出ていたり、親から外出禁止令を出されていたりと大変そうだ。
お母さんに浴衣を着付けてもらっておねえさんのところに行く。
着付けはお母さんにお願いしたけど、髪はお母さんには任せられない。ましてやメイクも。
「可愛い浴衣ね。それに似合うマニキュアがあったと思うわ」
「ありがとう。おねえさんはワンピースで行くの?」
「ううん、浴衣よ」
「自分で着られるの?」
「うん。でもハナちゃんのお母さんみたいに、こった帯の結び方は出来ないのよ」
「へえ、これ、こってるんだ?」
「それは片流しっていうの。わたしは文庫結びしか出来ないわ」
おねえさんはタオルを器用にわたしの首周りにまいてくれて、それからエプロンをつけてくれた。
本当はメイクをしてから浴衣を着られればよかったのにね、って。
薄い桜色地にそれよりも濃いピンクっぽいガーベラの模様が入った今風の浴衣をわたしは着ていた。帯はガーベラの花芯と色があった落ち着いた黄色。おねえさんはわたしの肩までの長さの髪を綺麗にねじって次々にピンで留めていった。
それから目元にピンクのクリームシャドウを薄くぼかして、あえて唇は「はずして」ベージュのグロスをのせる。
指には少しパールがかった上品なライラックピンクのマニキュアを乗せてくれた。ラメではなくパール。大人扱いされているように思えてちょっと嬉しい。
それを乾かしている間におねえさんはわたしの目の前で藍色の浴衣を自分で着た。
鏡の前できちんと裾の位置を確かめて、ちゃんと衿を抜くのも忘れない。
おねえさんは結構胸があるから、腰にタオルを何枚もあてなければいけないようだった。
それから長い髪を無造作にひねって大きなヘアクリップと簪を刺して固定をする。
わずかにうなじにはらはらと落ちる髪はそのままで、無理矢理あげようとはしない。
ほとんどのメイクは終わっていたようだけれど、最後におねえさんは口紅だけ丁寧に塗った。
わたしの唇にひいてくれたベージュのグロスなんかとは違う、大人の、それでも派手ではないくすんだボルドー。おねえさんの唇に乗っているその色は少し失敗すると水商売の女性にみえがちな、夏よりも秋に似合いそうなセクシー過ぎる色だった。
おねえさんはぷるぷるとグロスで光沢を出すわけでも、パールやラメのパウダーをまぶすわけでもなくマットな発色のその口紅を、そっと一度だけティッシュオフする。
たったそれだけの一手間で、控えめな藍色の浴衣によく似合うしっとりとした色になっておねえさんの女っぷりをあげた・・・と、わたしは思う。
その一連の作業をよどみなく行うおねえさんの器用な右手の薬指には、水色のクリスタルビーズの指輪がはめられていた。
「そろそろ乾いたかしら?」
「うん、大丈夫みたい」
「じゃ、いきましょう」
「おねえさん、今日めずらしい指輪しているね」
「ああ、これ?」
「その浴衣に似合うけど、普段指輪ってしてないじゃない」
「これ、好きな人に買ってもらったの」
わたしはどきりとした。
彼、ではなく、好きな人。お付き合いしている人、ではなく、ただ、彼女が「好き」と思っている人。
そういうニュアンスが伝わってくる。
「都会でも、お祭りはあるのよ」
それがどういう意味なのかはわからなかったけれど、わたしは「ふうん」と気のなさそうな返事を返すだけだった。

慣れない恰好で30分歩くのはとても大変だ。神社は車なんて通れない細い橋を渡ったところにある。淀んだ小さな川の手前まではお祭りの喧騒はまったく聞こえてこない。渡りきってからほんの数分歩くと突然世界が変わったように人が賑わっていた。
こつんこつんと聞きなれない音が橋の上で響く。
わたしは今っぽくサンダルだけど、おねえさんはきちんとした下駄を履いているのだ。
痛くないの?と聞けば、「言ったでしょ、都会にもお祭りはあるのよ」とまた曖昧な返事が返る。彼女のそういった会話の仕方もとても好きに思えた。
神社の周りにはたくさんの屋台が並んでいて、子供達が嬉しそうにはしゃいでいる。
数年ぶりに綿菓子を買った。わざわざおねえさんは可愛い今時の魔女っ子もののアニメの絵が書いてある袋を選んで、おっちゃんに「女の子だねえ」なんて言われてけらけらと笑っていた。やあね、女の子っていう年でもないのに、って。
それから綿菓子を食べながら盆踊りを見て、櫓の上から流れる太鼓や笛の音を二人で聞いていた。
人がたくさん。
大きな神社の境内にはどこから出てくるのかわからないほどの人で賑わっている。
神社前の大通りにも屋台がいっぱい出ていて人が溢れていた。
中にはちらほらと知った顔もあったけれど、こんな人ごみで友達に出会う確率なんてたかだか知れている。
何組のバレー部の子だ、とか2年生の美術部の子だ、とかその程度の認識しかない人々しかわたしの視界には入ってこなかった。
去年は夏祭りでナンパされるかも、なんて馬鹿なこと千代子が言っていて、でもどこかでそれを期待しながら5人くらいでやってきた。5人は多すぎたのか、わたし達に魅力がなかったのか、それはただの空想で終わったけれど。
「ハナちゃん、あっちの屋台、のぞこうよ」
「うん。まだ行ってなかったもんね」
おねえさんといると黙っていても困らないし、話をしてもわずらわしくない。
わたしが男なら絶対放っておかないのに、と思う。
でも、彼女の指に光る水色の指輪が、世の中そう簡単にいかないことを物語っている気がした。
わたしからそれを口に出すことはきっとないだろうし、おねえさんも「この指輪はね」とそれ以上深いことを教えてくれない、そんな気がするけれど、それらは別にわたし達の間柄をどうこうするものではないと思える。
それからほどなくしてわたし達は、いかにお互いに金魚すくいの才能がないのかを見せ付け合って屋台のおにいさんに失笑されることとなった。
「おねえちゃんたち可愛いからサービスだよ」
といいながらあまり元気がない金魚を一匹いれてビニールをもらった。もちろん誰でももらえるってことぐらいわたしでもわかる。でもおねえさんは笑顔で「ありがとう」って答えていた。そういうところも好きだと思う。
金魚屋さんから離れたところに、小さい女の子が喜びそうな、いまどきのスーパーでも並んでいそうな安っぽい子供騙しのアクセサリーが並んでいるお店が砂利道の途中であった。
案の定おねえさんはそこで足をとめて
「ねえねえ、ハナちゃん、わたし子供の頃こういうの、大好きだったんだあ」
子供くさい指輪をひょいと手にとっては戻し、手にとっては戻しておねえさんは言う。
まあ、中にはわたしの年齢でも買ってもいいかな、って思えるものもあったけれど、そんなものは一握りだ。
おうちでお友達とお姫様ごっこでもしていてください、っていいたくなるようなものばかり。
リリアンを編むような糸でプラスチックのビーズを繋いだだけの、どうにもならない「ネックレス」とは呼びたくもない代物まである。
「そうだと思った。今なら山ほど買えるでしょ」
「ジュエリーボックスから溢れるくらいにね」
くすくすと笑って、彼女はひょいと小さな指輪をいたずらっぽく小指にはめた。
お店のおじさんは何も言わずに見ている。ひやかしだと思っているに違いない。
そのとき、わたしの横で物珍しそうに覗いていた小さな女の子が急にきょろきょろと辺りを見回す様子に気付いた。
浴衣を来た小さい女の子って本当に可愛らしい。白地に可愛らしい向日葵柄の浴衣で、ふよふよとした帯を大きく結んでいる。さすがに足は下駄というわけにはいかないで子供サンダルだけど。わたしも同じようなものね。
子供って、興味がそそられて夢中になっているとそれだけしか見えてないけど、突然我に返るときがある。まさにそんな感じで、多分4、5歳くらいの幼稚園生、という感じのその子はふらふらとおぼつかない足取りで歩き出す。
迷子じゃないといいけど。
「おねえさん、あの子」
「え?」
「迷子かなあ」
「近くにお母さんいるんじゃない?」
「そうだといいんだけど」
「気になる?」
「うーん」
わたしが勤めている小さな書店ですら迷子がいることもある。特に困るのは自動ドアで外に出て行ってしまう子供だ。
それを思うと、外での迷子はたちが悪い。こんな人ごみなら尚更だ。
「一人でお祭りに来たのー?」
近寄っていって声をかけると、その子は今にも泣きそうな顔を向けて不安そうに言う。
「パパと来たの」
「パパどこにいるのかなあ」
「いないの。いないの・・・」
そりゃそうだ。いれば迷子にはなっているわけがない。
困ったわね、とおねえさんが女の子の手をそっと握るとその子も手を握り返してきた。泣かない強い子だしどうやら人懐こい子なのだ、と思う。
おねえさんはその場で屈みこんで女の子に話し掛ける。
「お名前はなんていうのかなー?」
「みさ」
「みさちゃん。上のお名前は?」
「たかぎ」
「たかぎ。たかぎ、みさ、ちゃんね」
おねえさんがそう言うと、女の子はこくりと頷いた。素直な子じゃないの。泣かないだけありがたいけど、泣いた方が探しやすいのかもしれない、なんて意地悪なことをちょっと考えてしまう。
「おねえさん、どうしよう、でも、櫓の方にしかマイクないもん、呼び出しなんて出来るのかな」
「近くにいるんじゃない?ねえ、みさちゃん、どっちからやってきたの?」
「わかんない」
仕方がない、とばかりにわたしは辺りを見回す。まるでわたしの方が迷子になったみたいにあちらこちらの方角へ首を動かすけれど、こう人が多くてはみつけようもない。
「きんぎょ」
人と話をしてちょっと落ち着いたのか、その子はおねえさんがもっていた金魚をみつけて羨ましそうに笑った。
「きんぎょいいなー、きんぎょ」
「あげよっか、みさちゃんに」
「ほしい」
「落とさないように持てる?」
「落とさない」
おねえさんは持っていた金魚を彼女に渡して、小さな指にひっかけた紐をぎゅっと握らせる。余程嬉しかったのか水と金魚がはいっているビニールを嬉しそうに見ながら、時々指先でつっついている。
「あ」
そうだ。お祭りの事務局に行けばいいのかしら。
そう思いついておねえさんに言おうとしたとき
「ねえ、お・・・」
わたしは胸をつかれたようにその場で固まった。
おねえさんは唇を引き結んで、静かで綺麗な動作で立ち上がり、そしてまっすぐと前を向く。
行き交う人々の中で、何かをみつけたようにおねえさんはまばたきをしないでわたし達が来た方向をじっと見ていた。
「おねえさん?」
「高木さん」
わたしがおねえさんに声をかけると同時に、彼女は軽く手をあげて、その口からその名前を呼ぶ。
人ごみをかき分けて近づいてくる男性が遠目に見える。ジャストサイズの紺色のTシャツを着て色落ちしたジーンズをはいた30代前半くらいの男性だ。髪の毛は前髪を下ろしていて軽くすいている。
「お嬢さんが待っていますよ。高木さん、ここです」
彼女は叫び声ではなく、ただ、いつもより少し大きい声で、もう一度彼の名前を呼んだ。
その男性は驚いたように一瞬立ち止まって目を大きく見開いて、それから慌てたように駆け出す。
「パパ!」
みさ、という女の子はその場から離れて、その男性のもとへと走って行った。

「娘がお世話になったようで、申し訳ありません。ありがとうございます」
「いいえ、どういたしまして」
みさちゃんをよいしょ、と抱きかかえてその人−高木さん−は軽く頭を下げた。
おねえさんは軽く手をふって「礼を言われるほどではない」というジェスチャーを見せてからわたしに視線を移す。
「ハナちゃんが気付いてくれたの。ね」
「あ、でも、ほら、すぐ来てくれたから」
わたしはうまく話が出来ない。これくらいの年齢の男性と話をする機会なんて、ましてや「パパ」である男性と個人的に話をする機会なんてそうそうない。いいとこバイト先で本の注文を頼まれたり欲しい本の場所を聞かれるくらい。叔父さんはもっと年齢が上だし、この人くらいの、そう、なんていうんだろう。「おじさん」と言うのはちょっとだけ申し訳ないけどでもおじさん、っていう年齢の人。よく見ると白髪がちょっと混じっているけれど、32,3歳という風だろう。
みさちゃんは、さっきまでわたし達が見ていたアクセサリー屋さんのとなりにある大判焼きに気がとられているようで、高木さんが「お前もお礼をいいなさい」と言ってももう気にもしていない。子供って勝手だなあとつくづく思う。
「どうしたんだ、それ」
高木さんはみさちゃんがもっていた金魚に初めて気付いたようにちょっと大きな声をあげた。
「わたしが、あげたんです。欲しいっていっていたから。ご迷惑だったでしょうか」
「そんな、申し訳ありませんから。こら、みさ、お姉さんに返しなさい」
「やだー」
結局高木さんの説得はむなしく、金魚はみさちゃんの手の中から離れることはなかった。
子供ですみません、と一言添えてもう一度礼を言うと、高木さんはそれじゃあ、とその場から去ろうとした。けれどもみさちゃんは体全体で抵抗をして言うことを聞かない。今度は大判焼き屋さんに向かって空いている方の手を伸ばす。
「パパあ、あれ食べたい、食べたい」
「あとひとつだけ、っていっただろう」
「これがいいよ。ママとまーくんにも買っていこうよ」
「まーくんは、まだ、食べられないんだぞ」
おねえさんはみさちゃんをじっと見ている。それから
「みさちゃんはお姉ちゃんなんだ。まーくんがママとお家で待っているの?」
と問いかけた。
なんだかおかしい。
わたしは胸騒ぎを感じて、険しい顔をおねえさんに向けてしまったに違いない。
わたしが知っているおねえさんは、別に子供に薄情なわけでも子供が嫌いなわけでもないと思う。
でも、こうやって自分が「何かをしてあげた」人の側に留まるような人ではない。わたしの中の何か・・・それは、ほんの今までの短いおねえさんとの交流で築かれたと思える何か・・・がそうわたしに言っている。
近くにお母さんがいるんじゃない?
そうさらりと言ってあまり関心がなかったはずのおねえさんが、どうしてここにまだいるのかしら。
それまで感じたことがない嫌な鼓動の高鳴りをわたしはわたしの体の中で聞いている。
「そうだよ」
「そうなんだー」
その会話が終わる前にぎこちなく高木さんが口を挟んだ。
「じゃあ、あの、お礼に、お二人供是非。あの、金魚も申し訳ないです、から」
左腕にみさちゃんをのっけたままで尻ポケットからごそごそと財布を出そうとしている。
スポーツか何かをしていた人なのか、みさちゃんは軽々と片腕で支えられたままだ。
「おねえさん」
わたしは慌てておねえさんの浴衣の袖をひっぱった。おねえさんは何も言わない。
もう行こう、という意思表示だということがわからない人ではないのに、彼女はそのまま二人を見ている。
嫌だ。
こんなの、おねえさんらしくない。
「あの、わたし達、いりませんから!」
何かの焦りに駆られて、ついにわたしは高木さんに叫んだ。高木さんはびっくりした顔をして困ったようにわたしを見る。
「あれを」
そのときおねえさんは右手をすっと前にあげた。
綺麗で細い白い指が何かを差している。その先にはさっきまでわたし達が覗いていた、みさちゃんの存在に気付いた屋台があった。きらきらとした、女の子が憧れる場所。チープでキッチュで、そしてやたらいい加減でぼったくりなアクセサリーばかりを並べている、子供だましのあのお店。
「さっき綿菓子を食べたばかりだから甘いものはいらないんです。でも、折角のご厚意ですから」
前置きをしておねえさんはそうっと手を下ろしてにこやかに微笑んだ。
「指輪を買っていただけますか。100円だから。大判焼きと同じ値段ですから。ハナちゃんとおそろいで」
そう言ったおねえさんの右手には、水色の指輪が光っていた。
目の前に立っている男の人は眉根を寄せて、とても情けない・・・そうだ、言葉にすると、情けない、歪んだ笑顔を浮かべる。
「じゃあ、たこやきでも」
「指輪が、欲しいんです」
おねえさんは容赦せずに高木さんの言葉を遮った。冷たくもなく強くもなくいつものように穏やかで、けれど決してその気持ちが曲がらないと誰にでもわかるような声音にわたしの胸は痛くなる。
「おねえさん」
声をかけるわたしの手をそっと握って、おねえさんはもう一度言う。
「金魚すくい、200円でした。大判焼き、100円でした。あの指輪、100円なんです。いいでしょう?高木さん」
そう言ったおねえさんの手は、僅かに震えていた。
おねえさんらしくない。そんな思いはもうわたしの中から消えていた。
多分おねえさんは自分らしくないことを言っていることを知っているのだろう。
そして、目の前にいるこの男の人も。
わたしはみさちゃんよりも自分が子供になったような気がした。
だって、あのおねえさんが震えている。
何故なのかはわからない。わからないけれどなんとなくわかる。矛盾しているけれどそうとしか表現出来ない。
そして、この人が震えているだけで、まるでわたしは小さな子供のように泣いてしまいそうで、嘘でも笑顔を作ることが出来なかった。
涙腺に受ける刺激を振り払うようにわたしはみさちゃんが嬉しそうに見ている金魚に視線をそらした。
それでもわたしとおねえさんが振れあっている場所は、まるで眩暈がするほどに彼女の覚悟をわたしに伝える。
おねえさんは、やはり、ほんの少しだけ震え続けていた。
わたしは、この綺麗で心が強い女の人の手を、ぎゅっと握り返した。

帰り道、わたし達は一度もさっきの親子の話をしなかった。
「ハナちゃんは頭がいい女の子なのねえ」
いつもと変わらない口調でそうわたしに言った。わたしがわざと肩をすくめて
「おねえさんは情熱的な女の人なんだねえ」
と答えるとおねえさんも大げさに肩をすくめた。
わたしは彼女に何も聞かないし彼女はわたしに何も教えない。
あの男の人にもらったちゃちな指輪は、そこいらの雑貨屋に3つで100円、とかで売っていそうな単色のスケルトンリングで本当に子供っぽいものだった。わたしの年齢の女の子達はそういったチープなものをわざといくつもつけている子もいるからわかる。
おねえさんは左手の小指に水色のスケルトンっぽいリングをつけていた。
わたしは右手の小指に赤いリングを。そして、おねだりを更にしていたみさちゃんは、最近話題のキャラクターがくっついている子供用の指輪を買ってもらっていた。合計300円。自分の子供にも、赤の他人にも、そして過去に何かしらの関係があった女にも、同じお金をあの男の人は財布から出したのだろう。
川の近くまで来ると、祭りの声はもう背中に小さく聞こえるだけで、再びおねえさんの下駄の音とわたしのサンダルのぺたぺたとした音だけが響く。
「これ、もういらないわ」
「え」
小さな橋の途中でおねえさんは突然何かをひょい、と投げた。
ぽちゃり。
水音が耳に響く。
もしもうるさいおじさん達がいたら、川に物を捨てるな、とか野暮なことを言うと思う。
ありがたいことにそんな人間はいなかったし、彼女のその行為が映画やなにやらに影響された、センチメンタル、だか自己陶酔、とかそういったものではないということをわたしはなんとなくわかっていた。
それでも、何を投げたのか確認をするのが恐くて、わたしは彼女の手を見ないままで聞く。
「新しい指輪をもらったから?」
「違うわ。いつ死ぬのかと思っていたの。それがたまたま今日だっただけ。つけてきてよかったわ」
「・・・死んじゃうの?」
「本当はこの町に来る前にとっくにね」
それが抽象的な会話だということはわたしにはわかっていた。そしてそれがわかる人間だから、おねえさんはわたしの前であの人に指輪をねだったに違いない。
おねえさんはふとわたしが手にしていた金魚をみて
「ハナちゃんのうち、金魚鉢あるの?」
「うん、昔も飼ってたから多分物置にあると思う。でもあまり長く生きていたためしないんだ・・・」
「お祭りのものってそういうもんだよねえ。ひよこも金魚も」
そして恋も、なんておねえさんは馬鹿げたことは言わない。
「前に金魚死んだときにね、庭に埋めていたんだけどさあ」
「ええ」
「こいつは、川に返してあげるね」
わたしがそう言うとおねえさんは足を止めてわたしをしげしげと見つめた。
何を言うかと思うといつもと変わらない口調で
「初めから終わりのことを考えるのはもう少し大人になってからにした方がいいわよ?」
「でも、考えないほど子供じゃあないもん」
「そうね。ハナちゃんが子供だとしたらわたしもよくよくの子供かもしれないしね」
それからまたわたし達は歩き出した。
橋を渡り終える頃、おねえさんの手に金魚がないことを今更に気付いて、わたしはまた泣きたい気持ちにかられた。
おねえさんの金魚は、もしも死んだらきっと水に返らないだろう。
多分あの男の人は、あの幸せな女の子と一緒に庭の片隅に埋めてしまうに違いない。
「ハナちゃんとおそろいのものなんて初めてね」
「なんか、微妙なんですけど」
「うふふ、ごめんね」
そう言ったと思うと、おねえさんは突然ぼろぼろと涙をこぼした。それから、歩きながらもう一度呟く。
「ごめんね」
わたしはまたそっとおねえさんの手を握った。
泡になって消えたのは人魚姫なんかじゃない。
彼女の行き過ぎた、でも純粋な恋心だったのだろうとわたしは思った。

 


宗穂さまよりお預かり致しました、イラストはこちら