その部屋は、本来なら荘厳な雰囲気を湛え、ある存在との邂逅の場所として使われていたのだろう。リョウは宗教を持たなかったから、ほとんどのオブジェに理解も、興味もなかったが、それらがとても高価なものであることには気づいていた。
しかし、今は――
燭台は倒れ、木魚はその一部を失い、線香が茹でる前のパスタみたいに、この部屋全体にバラ撒かれている。そのほかにもたくさんの仏具がことごとく、その決められた秩序から逸脱し、散乱し、静謐な空間を崩壊させていた。かつてあっただろう清澄さは消え去り、閑散とした雰囲気が行き場をなくしたかのようにぼんやりと残るのみ。
聞こえるのは、鑑識の連中が出す、パシャ、パシャというフラッシュの音。
大きな虫みたいに部屋中を這いずり回る鑑識たちの中で、トレンチコートの男がじっと、佇んでいる。
ここは、都内でも有数の規模を誇る、歴史の古い寺院、球磨寺。
――住職が、仏間で倒れている――
119番にその知らせがあったのが、11月23日午後2時13分。今から1時間前のことである。救急隊員が駆けつけたとき、彼はこの混沌とした部屋の真ん中で、うつ伏せに倒れていたらしい。
しかし奇妙なのが、倒れている彼の右手のそばに、経――いわゆる勤行集――が置いてあり、その開かれた経に、赤い文字で書かれていた単語―― 『んぶつ』
いったいどういう意味の単語なのだろうか。ひょっとして仏教用語かもしれない、とリョウは寺関係の人間に訊いてみたが、皆、一様に首を振るだけだった。
リョウが知る限り、「ん」からはじまる単語はふたつだけ。南アフリカはチャド共和国の首都、「ンジャメナ」と、昔なつかしのマンガの主人公のセリフである、「んちゃ!」のみである。
状況から考えて住職自身が残したメッセージらしいのだが、さっぱりわからない。しかも、文字に使われたその赤い色は、どうやら自身の血らしい。右手ひとさし指の先が血に濡れていたことから、どうやら最後の力で指を噛みちぎり、そして手近にあった経の1ページを使い、この意味不明の単語を残した――
その本人は、病院に担ぎ込まれたとき、すでに昏睡状態に陥っていたという。しかし外傷は(指先以外には)なかったし、部屋の中には倒れている彼以外の人間はいなかった。手がかりになりそうなものは、そのメッセージのみ。
状況が状況だから、とたまたま近くにいた警視庁捜査一課の刑事、葛西リョウと先輩にあたる小松崎アキラ――いかにも刑事然としたトレンチコートの男だ――はここ球磨寺に呼び出された、というわけだ。
今、ようやくリョウが救急隊員や寺の人間の事情聴取を終えて、ここに戻ってきた。
「アキラさん、どういうことっすかねぇ」
手帳を片手に、集めてきた情報を喋り終えたあと、リョウは先輩刑事の顔をこっそりと窺った。
「……」
小松崎は顎に手をやったまま答えない。
「それにしても、こんなところで人を殺すなんて、神をも恐れぬ野郎だなあ……」
「まだ、死んでいない。それに、神じゃなくて仏だ」
「あ、そうでした。その住職の容態を聞いてきたんですけどね、未だに昏睡状態に陥ったままなんですけど、脳波とかその辺の、難しいアレコレは正常みたいなんすよ。それで、やっぱり外傷も、薬物反応もないみたいで、今のところ原因も不明」
小松崎はわずかに興味を示したようで、眉を上げてリョウを見た。
リョウはその視線を受けて、おそるおそる、
「……えぇ、不明です」と言った。
リョウはこの先輩が苦手だった。頭が切れる、ということはわかるのだが、どうにも無口でコミュニケーションがとり辛い。明らかにリョウとは合わないだろう。
視線を受け止めるのが辛くなってきたので、リョウが話題を変えようとすると、
「……帰ろう」
小松崎はぼそっと言うと、玄関に向けて歩きだす。
「え?」リョウは意味がわからない。
「もう、事件は解決している」
「ええ!?」
「……というか、事件なんて最初から起こっていない」
「は?」
小松崎はリョウをちらりと見ると、説明をはじめた。
「あのメッセージを考えれば、すべて明白だ」
「明白って……あの意味のわからない単語が……ですか?」
唯一の手がかりであろう、あのメッセージの謎をこの男は解いたのだろうか。
リョウは戦慄しながら、先輩の次の言葉を待った。
「どうして、ここの和尚は板張りの床に書かず、わざわざ経に文字を記したのか、を考えろ」
「そりゃ、見やすいからじゃ……」
あの部屋の照明と、古さからなのか、元々なのかはわからないが、黒ずんだ床板では、血文字は読みにくいだろう。紙に書いた方が、絶対に目立つ。
「俺は、あの「経に書いた」ということ自体がメッセージの一部なのだと思う」
「は……?」
「経には何が書かれている?」
「そりゃあ、念仏なんじゃ……って!」
リョウにもようやく、小松崎が言わんとすることが飲み込めた。
だが、それはあまりに――
そう、あまりな――
「そうだ。念仏が書かれているあの経に、ヤツは「んぶつ」と書いた」
「「ね」が抜けている……」
「そう、「ね」が足りない。即ち、「寝」足りない……ここの和尚はただの睡眠不足だったのさ。そのうち起き出すだろ」
んな、アホな……。
あまりにあまりな小松崎の説明に、リョウは呆然としたあと、猛然と食ってかかった。
「そんな、そんなことってありますか!? だいたい、それじゃあなんで部屋の中は天下無双の散らかりようをいかんなく発揮しまくっているんです!?」
彼自身混乱しているためか、文章がおかしい。
「それはだな……」
と、そこで、ここの寺の人間なのだろう、中年ではあるが美しい尼僧が現れた。
「お帰りですか?」
ふたりとも、説明をしている間に玄関まで辿り着いていたのだ。
「ああ、丁度いい。こちらの住職さん、寝ているときはおとなしい方でしたか?」
小松崎のその質問に、尼僧は何故か顔を赤らめながら、
「あっ、い、いえ……あの方の寝相の悪さといったら……もぉ、部屋中をごろごろ転がり回り、ときには外にまで出てしまったこともあるんですのよ。わたくしも何度蹴り起こされたことか……」
そう言うと、尼僧は顔を赤らめたまま、遠い目をする。心ここにあらず、という具合に。
「そ、そんな……」リョウは絶句するしかない。
(こんな、こんなのが真相でいいのか?)
「そ、それじゃあ!」
リョウはこれが最後とばかりに、小松崎を睨みつける。
「どうして住職は、簡単に目覚めないくらいの深い眠りに陥っているのですか?」
その質問に、小松崎はふっと視線を外すと、言った。
「葛西。この寺にはな、伝説があるんだ……この寺の始祖が、人ならぬものであったという伝説。その直系の子孫だけが、代々ここの住職となる。
――もう、わかっただろ?」
リョウは首を振る。
認めない。
認めたくない、そんなオチ――
「この寺の名前は……球磨寺。つまり、熊寺。ここの住職には、野生の熊の血が流れているんだ――だから」
止めてください。
それ以上は……もう。
リョウは、もはや何も聞きたくなかった。けれど、小松崎は容赦なく、最後のひと言をリョウに浴びせる。
「冬眠が、はじまったんだろ……」
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