歌姫

わたしのからだは震える楽器
空気がわたしのからだの中を通って
空気がわたしのからだの中を震わせて
反響する反響する、木霊するように
そして、わたしの口腔が、空気を愛の言葉に変えて
わたしの唇が最後に触れた音があなたの鼓膜に届きますように

あなたがここに訪れたのはもう5回目だとわたしは知っていた
あなたはいつも隅っこの席でわたしの歌を聴いていた
いつも同じ歌であなたは瞳を閉じて瞳を閉じて
それだけであなたがこの歌を聴くために来ているのだとわたしにはわかる
どの人もそう
あの人も、あの人も、その人も
求めていた歌が耳に届けばみんな瞳を閉じる
癒しの音、勇気の音、涙の音、故郷の音
それは形をあなたの中であの人の中でその人の中で変えてゆく
風の音、水の音、失ってしまったありとあらゆる音、思い出せない愛していた音
あなたはわたしの歌を、何の音として聴いているのだろうか

ごみごみした都会の片隅の薄汚いお店だけれど、ここに来る人はわたしを求めている。
だからわたしもここで歌い続けているの。
わたしの歌が必要な人がここに来て、そして何かを得た分だけお金という形にしてくれる。
歌い終わったわたしがそっとステージを降りると、この人もその人も小さく笑ってお金をくれる。
今日も綺麗だね、とか、今日の歌もよかったよ、とか。
椅子を勧める人、酒を勧める人、わたしは笑顔で交わしながら店の中を一周するの。
最後にあなたのテーブルにわたしは辿り着く。
あなたはいつもとても綺麗にプレスしたシャツを着て、そしてとても綺麗に磨かれた眼鏡をかけて。
無造作にかきあげただけに見える前髪。
それらがこんなにわたしの胸を熱くしているのに、あなたは声をかけてくれない。
「最近、よく来るのね」
そっとあなたの椅子の背に手を添えて、わたしはとびきりの笑顔であなたに声をかけた。
「知ってたの?」
初めて聴いたあなたの声にわたしは打ち震える。なんて心地よい音。
「ええ。あなたには、わたしの歌が必要みたいだから・・・違うかしら」
「それはどうかはわからないけれど。ああ、でもあなたの歌が素晴らしいとは思うよ」
けれどあなたはわたしに椅子も勧めないし酒も勧めない。
「・・・歌だけが、必要なのかしら?」
そっとわたしは目を伏せてあなたに思いを告げてみる。
「え?なんて言った?」
あなたは2,3度まつげをしばたたいて、グラスを持つ手を止めて聞き返す。
「・・・なんでもないわ」
そして、あなたはわたしにお金をくれるわけでもない。
もう一度。
せめてもう一度だけでも言えればいいのに。
ああ、誰か、わたしの代わりにわたしに勇気を与える歌を歌ってください。
あの人に背を向けてわたしはわたしでない誰かにお願いをするけれど。

わたしはとても不器用で愛の歌を歌えない
わたしは何度も何度もいくつもの歌を歌うけれど
あなたが瞳を閉じる歌はいつも同じ歌で、わたしの愛の歌は届かない
わたしはとても不器用でうまく愛の歌を歌えない

「お金を渡さないって知ってるのに、どうして僕のところにも来るんだい?」
あなたは小さく微笑んだ。
その答えを言ったら、あなたはわたしのものになるのだろうか。
「あなたは、わたしの歌にはお金を払う気もないのにどうして来るの」
そんないやしい言葉をわたしはわたしの口から出したくなかったけれど。
それでも、あなたからの答えが欲しくてたまらない。
愛の歌を歌っても、何も伝えられないつたないわたしの声は
そんないやしい言葉でしかあなたから答えをもらえないと知っていたのだろう。
あなたは穏やかに、そんなわたしへ優しく言葉を与えてくれた。
「あなたの歌に、何を代償にすればいいのかわからないからだよ」
あなたはグラスの中の液体を見つめていうけれど。
それが、どんなに深い愛の言葉なのか、あなたはきっと気付かなかったのでしょう。

そしてあなたはまた今日も、故郷の歌で瞼を閉じる。
そのたびにわたしの胸は痛むことをあなたは知らない。
わたしがあなたにこの音を届けるたびに
この都会からあなたの姿が消える日が近いような気がして。

わたしのからだは震える楽器
空気がわたしのからだの中を通って
空気がわたしのからだの中を震わせて
反響する反響する、木霊するように
もしもあなたにこの体も愛してもらえたら、もっと美しい音を奏でられるのに
あなたのために、もっともっと、美しい音を奏でられると思うのに
わたしはあなたにわたしの楽器を愛して欲しいと思っているのに

わたしはとても不器用で幸せな愛の歌を歌えない
けれど、もしもあなたがここに来なくなったとき
わたしは悲しい愛の歌を歌えるようになるのでしょう
その混乱と失望で泣き疲れた哀れなわたしの楽器はきっと
ねじれてねじれて奇妙な音をたてるようになるけれど
わたしは悲しい愛の歌だけを上手に奏でる生き物になるのでしょう
ただあなただけを待ちわびて


END


書こうと思っていた話があんまりにも長い話にばかりになったので、わたしにしてはめずらしい形にしてみました。
いつもガチガチに固い文体で長編ばっかり書いているのでたまにはさらっと・・・と思い直して。
今回は女っぽい文章を書こうと念頭に置いてみましたが女っぽいというより怨念っぽい!?
ダラダラ物書き大臣の自分には寄稿って本当に難しいです(汗)未熟さを痛感いたしました。もう!精進せねばー!
もしまた機会があれば、次は普段のガチガチした文章にしたいなあ、と思っております。
こんな素敵な機会をくださった小田原さま、ありがとうございます。

2001/10/22 へっぽこ拝