ラディカル・ファントム


 目蓋の向こうで、何かが光った。
 その閃光は、二度、三度、と続き、わたしの覚醒を促している。
 ったく…何なの…?
 あたしは狂ったように焚かれるフラッシュに辟易しながら、目を開けた。
 目に入ってきたのは、灰色。
 どこまでも続く、灰色。
 そう、あたしの目が捉えたのは、どんよりとした曇り空だった。あまり目覚めが良い天気、とは言い難い。それにしても目を開けてすぐに空が視界に飛び込んでくるということは、あたしは外で仰向けになって寝転がっていた、ということだろうか。
 おっかしいな…。
 一般的に、普通、うら若き乙女は外で大の字に寝転がったりはしない。
 酔ってたのかな…。
 あれ、昨日、飲み会なんてあったっけ…?
 もったりとした灰色を見つめていると、再び、思い出したかのように閃光が走った。
 あたしは何だかおちょくられているような気がして少々腹が立ったので、がばと上半身を起こして光源の方を睨みつけた。
 そこには、帽子を目深にかぶった男の姿があった。彼は、神妙な顔つきであたしに向けてカメラを構えて、もう一度フラッシュ。あたしは思わず、目を背ける。
 「…あんた、何やってるのよ?」
 ひょっとしたら変質者の類かもしれない。あたしは警戒の色をたっぷり含ませて言ったつもりだったが、起きぬけだったため、声はかすれてしまった。そのせいか、彼もあたしの声が聞こえている様子はない。
 「ちょっとあんた、止めなさいよっ!」
 今度は怒鳴る。声もちゃんと出た。
 けれど…、
 男は変わらぬ体で、しゃあしゃあとフラッシュをもう一回。
 「ちょっと!!」
 もう一度怒鳴るが、結果は同じ。
 (えーっと…)
 何か…、
 何か、おかしくない?
 まるで、あたしの声が本当に聞こえていないみたいに…。
 あたしは周りをきょろきょろと見回してみた。
 左手の方は壁だ。あたしは壁の傍に転がっていたみたい。そして、たくさんの人があたしの周りを徘徊している。誰も彼もが、急ぎ足。遠くに見えるのは…あれ、パトカーじゃない? あたし、何か悪いことしたっけ?
 さらに奥の方では人だかりが見える。やっぱり、このあたりで何かがあったんだ。
 そう思いながら、あたしは最後に、自分の背後…真後ろを振り返った。そこにはただ、地面が…アスファルトが敷かれているだけの筈だったのだが…。
 あたしの予想は半分外れた。
 アスファルトの上には、若い女性の見るも無残な状態の身体が横たわっていたのだ。
 あたしは飛び上がるほど驚いた。
 その女性は死んでいた。頭部が異様な形状に変形している。
 だが、それよりもあたしが驚いたのは…。
 その死体は、
 その若い女性の身体は他でもない、あたしの身体だった。
 そう、
 死んでいたのは、あたしだったのだ。

 (――!)
 寝耳に水、どころの騒ぎではない。棚からぼたもち…いや、違うな…。
 あたしは思わず立ち上がり、自分の(今の)体を見下ろした。
 ある。
 ちゃんと身体はある。あたしの知ってるあたしの身体と寸分違わぬ身体がしっかりと今のあたしには備わっていた。ただ一点…くるぶしあたりから先が失なわれていることを除けば…。
 これって、やっぱ…。
 「えっと…」
 声に出さないとわからなくなりそうだったので、あたしは声を出してこの状況を整理することにした。
 「まず、あたしの身体がここで死んでいる…」
 なんだか、妙な気分。
 「でも、あたしはここでちゃんと身体込みで生きている…」
 足先を除いて、だけど…。
 「あたしの声は、他の人には聞こえていないみたいで…」
 あたしはゆっくりと、写真を撮り続ける男の背後に移動してみた。その頭部へ向けて思い切りパンチを繰り出してみる。
 しかし、
 予想通り、あたしのこぶしは男の頭を突き抜けてしまった。
 「あたしの身体はみんなには見えていないし、こちらから触ることもできない…」
 と、なると…ここから求められる解釈はひとつしかない。
 「あたしは何らかの理由で死んじゃって、しかも成仏できなくて…幽霊とか亡者とか、そういう類のシロモノになっちゃった、ってこと!?」
 「ピンポンピンポン、だいせいか〜い!」
 「なっ…!」
 突然聞こえてきた高い声は、聞いたことのないものだった。あたしは声のした方向に視線を移す。たくさんの人がひしめく中で、ただひとり、その場にじっと佇んでいる者がひとりだけ、いた。
 年の頃は十八、九。
 少しだけ茶色に染めたショートカットの、セーラ服を着た可愛い少女。
 多分、彼女が…声の主だろう。
 この場の雰囲気にそぐわない、ということもあるが…何より彼女の身体が、背景に溶け込んでいたからだ。この場合「背景に溶け込む」は比喩ではなく、言葉通りの意味を持つ。
 つまり、彼女の身体は半透明だったのだ。ついでに言うと、やっぱり足がない。
 その少女は微笑んで、あたしに向かって手招きをした。
 一体、彼女は何者なんだろう…。
 考えたくない。考えたくないが…、

 同業者<ゆうれい>。

 たぶん、それだ。
 あたしが絶望的な気分でゆっくりと歩み寄ると(もっとも足がないのだからこの表現は不適切なのかもしれないけれど)、彼女は唐突に右手を差し出してきた。
 これって…?
 「握手?」
 あたしは思わず問い返す。幽霊が握手するとはなかなかシュールだ。
 彼女はちょっと苦笑して、
 「大丈夫。ちゃんと握れるよ」
 と言った。
 あたしはおそるおそる右手を差し出して、彼女の手を軽く握った。確かにちゃんと握手できるし、おまけに彼女の体温まで感じられる。
 本当に、幽霊?
 「ボクの名前はセツ。よければ君の名前、聞かせてくんない?」
 無邪気な顔で訊かれ、あたしはほとんど反射的に答えていた。
 「あ…あたしはユミ。よ、よろしく」
 なんて間抜けな挨拶なんだろ。だってあたしは死んでるのよ?
 そう思った途端、失念していたたくさんの疑問が後から後から湧いて出た。
 「ねえ、いきなりだけど質問、いいかな?」
 あたしが勢い込んで訊ねると、セツはもう一度苦笑して、
 「うん、わかってる。けど、ここじゃなんだから、もうちょっと落ち着いて話のできるところにしよ?」
 「落ち着いて…って…わぁぁ!」
 彼女は突如、あたしの手を握ったままジャンプした(やっぱり足がないからこの表現はいまいちしっくりこない)。それもただのジャンプではない。ブブカもソトマイヨルも真っ青の、高い、高いジャンプだったのだ。不思議とスピードはないのだが、ゆるゆると緩慢な速度で上昇を続けている。まるで、重力という概念が消失してしまったかのように…。
 しばらくして、あたし達はマンションの屋上に立っていた。あたしの左手にあった壁は、このマンションのコンクリート壁だったらしい。
 「うん、ここなら落ち着いて話ができそうだね」
 泰然自若としているセツに比べて、あたしはあまりの驚きに腰が抜けそうだ。
 「ちょ、ちょっと…座ってもいいかな?」
 「うん、そうね。立ち話もなんだし、座ろ」
 セーラ服を翻して、優雅にセツはコンクリートの地面にあぐらをかいた。スカートだからあまり行儀が良いとは言えない。あたしはジーンズだったので、向かい合って膝を抱えこむ格好で座った。
 「じゃあ、まず最初に…あたしは、どうなったの?」
 「死んだよ」
 セツは即答する。
 そんなにきっぱりはっきり言われると、こちらもどう対応して良いものやら困る。仕方ないのであたしは次の質問をした。
 「じゃ、じゃあ、今のあたしって…やっぱり…」
 「うん、幽霊。足がないでしょ?」
 「やっぱ…そうなの…」
 薄々感づいていたとはいえ、やはり断言されると妙な感慨が湧いてくる。
 幽霊なんてジョークの一種だと思っていたのに…ホントにあったんだ…。
 少なくともあたしは全然信じてなかった。あたしは霊とか宇宙人とか超能力とかそういう類のものはすべて否定派の立場だったから。
 「それに、自分の身体をよっく見てごらん」
 「え…」
 あたしは自分の右腕をじっくりと見る。特に変わり映えない、いつもの腕だけど…?
 「目を凝らして」
 あたしはさらに集中して見る。
 そして、
 「あっ…!」
 あたしはセツの方を見る。彼女は重々しく頷いた。
 「ちょ、ちょっとだけ透けてる…!」
 あたしの身体は、ペイントツールのレイヤで例えるのならば、不透明度八十パーセント、といったところだろう…わずかに向こう側が透けて見える。
 「君はまだ、新米の幽霊だからね。そのうちボクみたいになれるよ」
 セツは、不透明度四十パーセントくらいだった。
 あんまりなりたくないな…。
 「じゃあ…」
 そう、これが一番重要な問いだ。
 何故今まで、考えなかったのだろう。
 いや、
 意識的に、考えることを避けていたといって良い。

 「あたしは…どうして死んだの?」

 その問いに、セツはちょっとだけ、眉をひそめた。
 「覚えて、ないんだ…」
 「…うん」
 「ま、死ぬ瞬間の前後の記憶を忘れたまま幽霊になってしまうなんてことは良くあることだけど…知りたい?」
 「…うん」
 「そっか…」
 そうして、セツは少しだけ逡巡して、喋りはじめた――

 夜。

 もうかなり眠い。幽霊は何故だか知らないが、普通の人間より睡眠時間を多く必要とする。具体的に言うと、十四時間ほどは必須であるそうな。それにしても…幽霊が眠るなんて聞いたことがない。世の中の常識なんていい加減なものだ。
 あたしはライト・アップされた街を眼下にしながら、空中をゆっくりと移動していた。
 そろそろ目的地である。
 緊張のためか、頬が熱い。心臓の鼓動も、ちょっと早いみたいだ。もう二度と心臓はリズムを刻まないし、当然血なんて通っていない筈なのに、こんな気分はやけにリアルに再現されている。
 きっと、心が覚えているんだ、と思う。

 『君は――自殺したんだよ』
 『えぇ!?』
 自殺なんて、あたしから最も縁遠い概念だと思っていたのに…。
 確かにあたしは生きている、ということに対してこだわりがあるわけじゃなかった。死んでいても、生きていてもどっちでも良い…とまではいかないけれど、あまり死を忌まわしく思う気持ちもなかったし、怖いと思う気持ちもなかった。だけど、自殺なんて…。
 セツは足元へ視線を落とすと、
 『このマンションの1306号室…つまり君の部屋のベランダから、昨日の深夜、飛び降りたの』
 全然覚えていない。
 ひょっとして、あたしは死んだ瞬間に別の人間(幽霊だけど)に生まれ変わってしまった、とか?
 いや、それは違うか…。
 おとといとか、それ以前の記憶はしっかりしてる。ただ、昨日の記憶だけがすっぽりと抜け落ちてしまっているのだ。
 あれ?
 それ以前の、記憶?
 えっと…、
 何かが、浮かび上がろうとしてる。
 そう…、
 何か、重要なこと。

 あ、

 『リョウ…』
 あたしは我知らずつぶやいていた。
 女たらしで、いい加減で、頭も悪い、最悪の男。でも、誰にも負けないくらい格好いい、あたしの…、
 あたし、の…、
 『――!』
 『思い出した、みたいだね』
 少し憐憫を込めた瞳で、セツはあたしを見た。

 あたしはリョウのマンションの屋根まで辿り着いた。彼の部屋は、ここの真下。
 あたしは幽霊だから、ここから一気に屋根と天井をすり抜けて、彼の部屋に入ることができるのだ、が…。
 あたしは迷った。
 もし、彼があたしが死んだことなんて全然お構いなしに、また別の女を連れ込んでいたら?
 あたしは…。

 『そう、あたしは昨日の夜、アイツとケンカしたんだ…』
 いつものことだ。アイツが部屋に女を連れ込んでいたところにあたしがたまたま様子を見に来たから大騒ぎになったんだっけ。
 で、あたしは怒り狂った挙句、自分の部屋に帰ったのよね。
 そしていつも通り、アイツは謝りに来て…、
 でも、結局口ゲンカになって…、
 『いいわよう、自殺してやるんだから! あんたは若い女の子とよろしくやってなさいよっ!』
 『…わーったよっ、勝手にしやがれ!』
 なんつってその場は別れたのよね。
 なんて子供なんだろ。
 でも、あたしだっていつも引け目を感じてた。やっぱり男は若い女の子の方が好きなんじゃないかって。ただでさえリョウはタレントのようなルックスだし、見た目パッとしない六つも年上のOLなんかじゃ釣り合わないなって。
 それで、これまたいつも通り、ヤケ酒飲んで…。
 どうしたっけな…?
 そうだ、月があんまり綺麗だったから、ベランダに出てみたんだ。

 息を呑むほど切なくて、
 声を失うほど狂暴な、
 凍れるロイヤルブルーの月の光。
 死というものに色をつけるのならば、それはきっと、こんな色だ。

 酔っていたのもあるけど、
 (気持ち良いな…)
 きっと、その月の光が、
 (このまま、死んでも良いかも…)
 あたしを、狂わせたのかもしれない。
 それとも、アイツへの当てつけだったのかな…?
 ま、今となっては、知りようもないけれど。

 『ふーん』
 あたしが一部始終を語り終えると、セツはあたしの常軌を逸した行為をそのひと言で片づけた。あたしがその事を言うと、セツは不思議そうな顔をしただけだったので、あたしはやっきになって説明を試みた。
 『だって、そんなことじゃあ死なないと思うのが普通よ』
 『まあ、そうかもね。だけど…』
 『だけど?』
 『ボクはね、幽霊になってから色々な人たちの死を見てきた。自然死、事故死、殺人、そして…自殺。そうしてわかったことがあるの』
 セツは目を細めて、少し微笑んだ。
 セーラ服が似つかわしくないほどに、その表情は大人っぽくて、あたしはちょっとどきりとした。
 『人が生まれることに理由や意味がないように、死ぬことにもやっぱり、理由や意味なんて必要ない…とボクは思ってる。もしあったとしても、それはきっと、ひどく個人的なものなんじゃないかな。例えば自殺する人だって、幾千幾万の自殺に至らしめる因子が複雑に絡まりあって、死ぬことを決意するわけでしょ? そんなこと、本人以外はまったくわかんないわよ。ボクは君が昨日、死んでも良いな、と思えた瞬間に死ねたのだから、むしろ良かったと言いたいな』
 そこでセツは悪戯っぽく微笑んで、
 『まあ、それでもその男に腹が立つのなら、呪いでもかけてあげよっか?』
 あたしは苦笑して、
 『考えとく』
 と言った。
 そうして、明日の正午に再びここで会う約束をして、あたしたちは別れた。
 セツは別れ際に、
 『生きている人と死んでいる人って、どこが違うと思う?』
 と言い残して、ジェット機もかくやと思われる速さでどこかへ行ってしまった。
 あたしはまだ、ラジコン飛行機ぐらいのスピードしか出せない。

 あたしは深呼吸をして、気を落ち着けようとした。
 空を見れば、昨日と変わらぬ三日月が、あたしを照らしている。
 ロイヤルブルーの光も昨日とおんなじだったけど、
 どうしてだろう、
 今日の月は、優しかった。
 『…よし』
 あたしは覚悟を決めて、アイツの部屋の中にダイビングした。

 真っ暗だった。
 まだ寝るには早い時間の筈だけど。
 あたしは寝室を覗いてみる。ベッドには女の子どころか、アイツもいなかった。シーツの状態も、昨日、あたしが乱入した状態のまま。何も変わっていない。
 ひょっとしたら、今夜は女の部屋にいるのかも…。
 そんなことを思いながら、あたしはリビングへと移動して、
 そして、
 見つけた。
 あたしは動けなかった。

 泣いていた。

 テーブルに突っ伏して、肩を震わせるアイツの姿。
 泣いているところなんて、初めて見た。
 あたしはアイツの背後に近づいて、小刻みに動く、男にしては華奢な肩に、手のひらを這わせてあげたかったけれど。
 届かないんだ。
 無限に近くて、無限に遠い。
 それが、今のあたしとアイツ。

 この時になって初めて、あたしは死んだことを後悔した。

 「遅かったじゃーん」
 「ごめん、寝坊しちゃって」
 なんだか若い男女のデート前の会話みたい、とあたしは思った。
 あの後ずっと、ひと晩中アイツの傍にいたから眠い眠い。おかげでセツとの待ち合わせに遅刻してしまった。
 でも、もう吹っ切れた気がする。
 アイツもきっと…いつか。
 冷たいような気もするけれど、あたしはそういう人間だから。それとも、やっぱり幽霊だからなのかな?
 「吹っ切れたみたいだね」
 「まあ…ね」
 そこでセツはにやにやしながら、
 「呪いはどうする? 必ず対象を死に至らしめる、なんて危険なヤツもあるよ」
 「いらないわよ」
 と苦笑するあたし。
 「どうでもいいけど、あたしってずうっとこのままなの?」
 あたしの問いに、セツはちょっと考えてから、
 「ううん、普通は現世の未練とか、そーゆーのがなくなると、輪廻の環へと戻ってゆくんだけど…君は還らないの?」
 「うん、あたし、結構気に入ったみたい」
 セツは面白そうに目を細める。
 「へえ、幽霊が?」
 「うん」
 それを聞くと、セツは面白くてたまらないといった風に快活に笑い出した。
 「…君、相当の物好きだねぇ」
 「そっかなぁ…?」
 あたしたちはしばらく黙って、風に当たっていた。
 こうしていると、あたしは生きている時と、何も変わらないように思える。
 風の音も、風の重みも、風の暖かさも、すべてが生きている時と遜色ない。
 隣には友達もいる。
 何より、あたしはあたしであり続けている。
 もし、違いがあるのだとすれば、
 それは――
 「生きている人と、死んでいる人の違い、わかったよ」
 あたしがそう言って微笑むと、セツもにっこりと微笑み返す。

 「――足があるか、そうでないか――」