R計画第二弾 「雲水」

 


 

 

【雲水】 (行雲流水のようにゆくえの定まらぬことから)所定めず遍歴修行する

禅僧。行脚僧(アンギヤソウ)。雲衲(ウンノウ)。転じて、自由気ままな旅。

 

 

受験番号111047・・・・。どうやら、ないようだ。この時点で、馬田の浪人生活

は決定した。

否応なく、押し付けられる。訳もわからず、ただ状況に飲まれる。

これは何も、弱者に限ったことではない。どんな人間にも、現実に起こりうる

ことである。人間は、訳すら知らされず、ただ生きることを余儀なくされている。

現実に起きたことを、ただ肯定し生きるしかない。これは人に課せられた宿命

である。

 

高校に進学して以来、馬田にもいつかはこの日が来ることは、いくらか想定

できた筈だった。上に大学がある以上、校門をくぐった時点で、己のこれから

の人生の分岐点が早くも出来上がった。この時点で、彼は人より多く悩みを

持った。

 

浪人が決定した晩、彼の家の食卓はヒッソリと静まり返っていた。

「・・・」

 

「浪人すると言っても、予備校には通うんでしょうね?」

彼が受験に失敗する事が、大方見当のついていた彼の母は、彼の前に大手

予備校のパンフレットをドサッと置いた。

 

「いや、そんなことをしても、また同じだ・・・。僕は当分、山に篭る」

 

「山に篭るですって?さっきから、何をキチガイみたいなこと言ってるの」

 

「キチガイだって!?・・・・そのキチガイを生んだのは、では誰なのか?」

「ともかく、僕は山に篭りたいのだ。時期になれば、また戻ってくる」

彼には当てがあった。高校のときの友人に、禅宗の寺の次男がいたのである。

その友人の寺は、奈良の山中にあるとのことであった。

 

 

暫くして、彼はその友人に連絡を取った。

 

「それじゃあ、当分ご厄介にならせてもらうね。寺の方へは、来週伺わせてもらう」

(とにかく、当面成すべきことは、精神修養である。浪人したからといって、傷心

に暮れているような暇は、この俺にはないのだ・・・)

 

「おい。もしかして君は、まだあの時のことを?そうなんだな」

「そんなんじゃない。僕は普通の人の望むものは、もう諦めたんだ・・・・・」

馬田の脳裏に、かすかにあの日のことが蘇ってきた。それは確かに、彼にとって

頭を鈍器で殴られたような衝撃的なことだった。それは自身も認めざるを得ない

事実だった。

 

「いい加減、決着をつけたらどうなんだい?」

「これは僕自身の問題なんだよ。今はそんなことに、かまけている訳にはいかない。

僕は日々の生活を怠っていたから、余計なことを考える時間を作ってしまった」

「君もただの人間なんだ。いい加減、自分を恃みすぎる心を捨てるべきだよ」

「これは、きっと不幸なことに違いないと思うが、何となく自分は普通の人が求める

幸せというものを求めてはいけない気がする。それを求めてしまえば、自分の何か

使命のようなものを失ってしまう気がする。本心からそう思われて仕方ない」

「そんなことは・・・。まあ、やれるだけやってみるがいいさ」

 

その夜、珍しく彼の寝床からは、とても大きな音のイビキが、こだましていた。

聞く人によってそれは、猛獣が吼えているようでもあり、無明の僧侶がそのこと

に慟哭しているようでもあった・・・。

 

 

馬田は合理的、現実的な思考のできる男であった。しかしまた、同時に非現実的

なストイック(禁欲的)な人間にどこかしら、畏怖の念を抱かずにはいられない。

それらは互いに葛藤しているが、青年期には誰しも大なり小なりこのような葛藤に

悩むものではないだろうか。

この葛藤に、気が付いたのは、彼が中学生の頃でだった。

 

彼が中学の頃、同級の一人に、こう言われたことがあった。

「何か物を食うことを、恥ずかしがっていないか」と。

その時は、軽く流したのだが、後々この言葉を思い出すと、妙に腹立たしい気持ち

になり、その時そう言った同級生に対し、馬田はこう反論してやりたくなった

「その通りだ。人前で物を食うのは、恥ずかしいことだ。それが肉にしろ魚にしろ、野

菜にしろ、他の生物の生を妨害し、つまりは殺し、それを食するという行為が恥ずか

しくなくて何であろう。そして、そういう行為を犯すことに見合うだけの、明確な生きる

意味など、果たして俺にあるのであるか。まあ、仮にあったとしよう。そこで人間は、

その生きる意味を、必死で模索しているだろうか」と。

 

純然とした目的ある生きる意味、そんなものが本当に果たしてあるのか。個人として

そして人類として、あらゆる意味において、こればかりは最後の最後にならなければ

分からない。それまでともかく、何が起ころうと我々は、ただ我々の周りで起こった事

を肯定して、ただ生きるしかない。生きながら、考えて考えて、考えてみても、答えは

五里霧中だが。

 

 

次の週彼は奈良へむかった。時代錯誤も甚だしい、儒服のような粗末な衣服を身に

まとい、ただただ黙々と歩いていく。数分もすると、彼の吐息は早くも荒くなりだした

が、彼は足取りを止めるどころか一定の速度を保ちながら、霧深い山の奥へ入って

行く。その表情にはどこかしら諦めのようなものが感じられるが、しかしそれは間違い

なく哀愁ではない何かである。決意という言葉は、いささか強すぎるかもしれぬが、

まあそれに、ごく近いものだと言える。

 

(一体全体、この自分と同世代の人の何人が、これほどの切迫さをもって自己と向き

合っているのだろう)

ふと、そんな考えもよぎらなかった訳ではないが、そのようなことを考えている時間は

本当に微々たる時間であった。

歩行している内、自然と意識は自分の内面の奥深くへ向かっていった。殆どの時間

彼はただ自分と向き合った。歩いているうちに、体は疲れてくる。するととてつもなく

虚しくなってくる。全くひもじくも、なんと爽快な感覚であるか。

 

人は人生を突き進むために、目的を絞るために一度は立ち止まって考えねばならない。

今ここに、この自分もただひたすら歩行しながら、自分の心と対峙している。果たして

この自分にとって極めて得がたい存在をとるべきか、それともごく平凡な人が望むもの

を諦めるべきか。馬田には少しずつ、分かってきた。