ファミレスのステーキを


 薄暗くなった校舎を歩いていると、渡り廊下の屋根を叩く雨音が強くなってきた。

 どうやら、雨粒が大きくなり、降ってくる勢いも増しているのだろう。

「雷まで鳴りそうな勢いだな」

 朝の天気予報でも、午後は雷雨の可能性があると言っていた。

 生徒たちの大半が帰るまで待っていてくれたのが、せめてもの幸いだろう。

「運動部の連中なら、濡れても気にしないだろうしな」

 体育館では、まだバスケ部辺りが部活動をしている時間だ。

 さほど強い部活でもないが、練習量だけは一人前にある。

「さて、頑張りますか」

 今日終わったばかりのテストの採点を終えなくてはならない。

 明後日には返却を始めなければならないのだ。

 気合を入れ直して、俺は手にしていた荷物を抱えなおした。

 そして、居心地のよい職員室ではなく、答案を置いてある数学科準備室の扉を開ける。

 鍵のかかる個人ロッカーがこの準備室のものしかもらえなかったからだ。

 まぁ、新任で個人ロッカーがもらえるだけ、この学校の待遇はいいのかもしれないが。

「失礼します」

 数学科の主任は定年間近の大先輩で、校内にいる間はこの部屋で過ごしている。

 気のいい大先輩だが、黙々と仕事をするタイプではないのでやや波長が合わないのも事実だ。

「あ、晃兄」

「何だ、龍子か。徳野先生はどうした」

「もう帰ったよ。晃兄が来たら、リンゴを剥いてやれって」

 部屋のソファに座っていた女子生徒が、リンゴの皮を剥きながらそう答えてきた。

 徳野主任の家は農家で、家でとれた果物や農協で買ったものを部屋に持ってくることも多い。

 この前は、とれたばかりのサクランボを持ってきてくれた。

「それで、お前は何をしてるんだ」

「雨が降りだしたから、晃兄に送ってもらおうと思って」

「一人の生徒だけを特別扱いはできません」

「向かいに住んでるんだから、それくらいはいいと思うけどなぁ」

 龍子の言うように、俺たちは向かいあわせの家に住んでいる。

 俺が大学生の頃は、破格の値段で家庭教師をしていたこともあった。

 知らない仲でもなく、むしろ歳の離れたご近所さんとしては仲の良いほうだろう。

 そのせいか、龍子はこうやって他の生徒は近寄らない数学科準備室に入り浸ることも多い。

「テストの採点、終わったの」

「あと少しだ」

「じゃあ、待っといてあげる」

「早く帰れ。最終下校が過ぎるぞ」

 最終下校時間まではあと一時間ほどだ。

 部活動などで理由がない場合は、その時間までに全員帰らなければならない。

「濡れて帰るの嫌だもん」

「勝手にしろ」

 剥き終わったリンゴを先に食べ始めた龍子を無視して、俺はテストの採点の続きを始める。

 今回のテストを作ったのは俺なので、予想した得点傾向との違いは気になるところだ。

「晃兄、食べないの」

「皿に載せておいてくれ」

「はいはい」

 一クラスの採点にかかる時間は、大体二十分くらいだ。

 受け持ちのクラス数は五クラス程度なので、二時間もあれば採点は終わる。

 半分ほどは済ませてしまっているので、残り三十分もあれば十分だろう。

「何か手伝おうか」

「いや、いい」

 他の先生の中には点数入力を生徒にさせる人もいるが、俺にはそれをさせる度胸はない。

 いくら信頼できる龍子だとしても、教師としての責任感がそれを拒否してしまう。

「お茶、もらうよ」

「好きにしろ」

 しばらく龍子がごそごそしている音が気になってはいたが、集中すればまわりの雑音は消える。

 集中し過ぎると採点ミスが起こりやすくなるから、適度に気は抜いてやる必要もあるが。

「うまいな、このリンゴ」

「本当は塩水にさらすといいんだって」

「酸化を抑えるってわけか」

「家庭の知恵だって」

 そう言えば、中学の頃から龍子の理科の成績は良くなかった。

 この高校に入学させる時だって、随分と特訓したものだ。

「あ、晃兄、電話鳴ってる」

「携帯か」

「そうみたい。おばさんから」

 机の上に放置してあった俺の携帯電話をのぞき込んだ龍子が、着信相手の表示を見て教えてきた。

 顔を上げて時計を確認すると、そろそろ夕食の準備をする頃だろう。

「出ていいの」

「あぁ、勝手にしろ」

 母さんなら、別に構わないだろう。

 本当にそうなのか確認できるわけじゃないが、龍子が嘘をつく必要もないだろうし。

「もしもし」

 あと少しで採点も終わる。

 今日の夕食は家で食べられそうだ。

「あ、はい。夕食はいらないって言ってましたよ」

 いや、何を言ってるんだ。

 採点はもう少しで終わる。今日はそれで店じまいの予定なんだ。

「おい、龍子」

「はい。ファミレスかどこかで食べるらしいですよ」

「いや、帰るって」

「はいはい。送ってもらいますから。あ、ウチの家にも言っておいて下さい」

「勝手に決めるな」

 俺の制止の声も聞かずに携帯電話の通話ボタンを切った龍子が、舌を出して笑った。

 どうやら、一食奢らなくてはならなくなったようだ。

 給料日前のこの時期に、まったくもって迷惑な話だ。

「お前な、給料日前なんだぞ」

「けち臭い。公立の高校教師の給料明細を知らないと思ってるの」

「何でお前が知ってるんだよ」

「晃兄の家に言った時に、落ちてたのを拾って見た」

「そんなわけないだろう。俺はきっちり袋に入れてだな」

「うん。箪笥の上に落ちてた」

「それは置いてあるんだ。落ちてるとは違う」

「友達に言ってもいいよ」

「脅迫って言うんだよ、それは」

 一時間ほど車で走らなければならない分、帰り道に通る飲食店はいくつもある。

 家の付近まで行けば、同じ高校の生徒にあう確率もゼロに近い。

 それでも、龍子と一緒に夕食を食べるには抵抗がある。

 ほとんど職業病と同じ理由だろう。

「ほら、採点終わったの」

「あぁ。あとは入力だけだ」

「なら、もう帰ろうよ。今、ステーキフェアやってるお店知ってるの」

「ステーキか。女子高生のねだるメニューじゃないな」

 龍子の大食漢は知っているが、それでいて痩せているのが不思議だな。

 特に努力もしているようには見えないから、体質的なものなのか。

「近所の妹がねだるには、お似合いのメニューでしょ」

「はいはい。皿、片付けとけよ」

 採点の終わったテストをロッカーに直しながら、俺は財布の中身を確かめた。

 財布の中には諭吉が三枚。あと一週間を過ごすにしては余裕のある金額だ。

「ま、奢ってやるか」

 数学科準備室の電気を落として、先に廊下に出ていた龍子に車の鍵を放った。

 鍵を受け取った龍子が、慣れた手付きで車の鍵をクルクルと回し始める。

「久しぶりだね、晃兄に奢ってもらうのは」

「テスト開けの褒美なんて、家庭教師のとき以来だな」

「そのうち、給料日開けのご褒美になるかもよ」

「冗談言ってろ」

 からかってくる龍子の言葉に肩を竦めて、俺は数学科準備室の鍵を閉めた。

 

<了>