空に続く道


”仕事終わった? 空、みにいこ”

 定時に上がって、早々と家に帰ってきていた俺は、着替え終わるなり、このメールに遭遇した。

 差出人は、綾子だった。

 ここのところ会う機会はめっきり減ったが、昔はよく一緒に学校に行った仲だ。

 無論、家が歩いて数分の近所だったってだけだけど。

”別にいいけど”

 特にすることもなかったので、了承のメールを返した。

 麦茶を一杯飲んでいる間に、携帯電話が着メールの音を鳴らしだす。

”すぐさま家を出ること。歩きで小学校前に集合。気取るな”

 最後に付け加えられた言葉で、俺は返信しないことに決めた。

 気取るほどの仲でもないが、そのままの格好で来いってことなんだろうな。

 中学を卒業して初めて会ったとき、綾子は俺にこう言った。

 気取るな。近所の人間に気取ってどうするの、と。

「行くとしますかね」

 スーツは皺になりそうなくらい、くちゃくちゃのまま床に投げ出してある。

 ネクタイだけはハンガーにかけて、怒られないようにさっさと家を出た。

「明るかったんだな」

 時計を見ると、もう七時前だ。

 六月が一番昼の長さが長いのは知識として知っていたけれど、まだ明るかったんだな。

 いつもは気にしたことがなかったけれど、街灯が点いていないくらい明るい。

 人の姿はなくて、それが朝の出勤時とは違うところだ。

「変な感じだな」

 一言にしてしまえば、こう言うしかないだろう。

 違和感というほどではないけれど、どこか不思議な感じがする空間に迷い込んだ気分。

 それが今の俺だ。

 何となく首を持ち上げて、空を眺めて見た。

 青い。

 どこまでも青い。

 空が高いのは、本当は秋じゃなくて夏なんじゃないかと思うくらい高い。

 ほんの少し付け加えられる、自虐的な喪失感が、何となくこそばゆかった。

「来たな」

「来たよ」

 小学校に着くと、もう綾子が待っていた。

 綾子も半袖半ズボンのラフな格好。

 意外にも靴は運動靴だった。

「野球してるな」

「まだ明るいんだもん。やってても変じゃないよ」

 そう言えば、俺も小学生の頃は暗くなるまで野球ばかりしてた気がする。

 塾にも行かず、習い事もせず。

 ただ友達と、白球ばかり追いかけていた。

 終わりを告げるのはチャイムでもなく、暗くなってボールが見えなくなるのが合図。

 目の前の小学生たちも、暗くなるまで楽しげにボールを追うのだろう。

「行こ。空を見に」

 綾子が歩き出して、俺はその後をついていくことになった。

 犬の散歩をしている人と目が合って、俺は何となく視線を伏せた。

「空ってさ、何色だっけ」

 突然、綾子がそんなことを言い出した。

 空の色って、青に決まってるだろ。

 そう答えようとして、俺は伏せていた視線を思いきり上にあげた。

「青……だろ」

「今、上見てるのに、そう言うんだ」

「はぁ」

 言われて、もう一度しっかりと空を見た。

 青ってわけじゃないな。

 どちらかと言えば空色……水色か。

「水色だな」

「じゃあさ、後ろ見てみたら」

 綾子に言われて、俺は登ってきた坂道を振り返った。

 ちょうど西の方角になるのか、空がかすかに夕焼けで赤く染まっていた。

「赤……ていうか、朱色だな」

「ぐるっと見まわしてみなよ」

 綾子に言われるままに、その場に立ち止まって、四方をぐるりと見まわしてみた。

 西は夕焼けに染まって、赤系統の色。

 真上は雲ひとつなくて、水色。

 こちら側は雲が多いのか、白が多くて、その向こうは赤に繋がっているのか少しくらい白。

 こうしてみると、空が青ってのは変な感じだな。

 はっきり言って、嘘に近いのかもしれない。

「いろいろな色があるから、空色って言うんだよ」

 俺が答えられないでいると思ったのか、綾子はそう言って俺の背中を押した。

 慌てて視線を下に戻した俺に、綾子の笑顔が映る。

「空、高くて広かったでしょ」

「あぁ。久しぶりに空なんか見たよ。いつも、こんな明るい時間に帰ってきてなかったからな」

「まだまだ。ちょっと、向こうに渡るよ」

 大通りに出ると、空の色が消えた。

 目に映るのは原色そのままの自動車。

 視界の端には、バスから下りたばかりの黒いスーツが見えた。

「渡るよ」

「あぁ」

 大通りを渡ると、綾子はまた裏通りに入って行った。

 消えていた空の色が、再び俺の視界に戻ってきた。

 そうか。注意しなくちゃいけないものがないから、今は空の色が見えるんだな。

 裏通りを歩いていて、普段は道を歩くときも目的を持って歩いていることがわかる。

 目的地があるから自然と足が速くなり、危険を察知しようと周囲を確認するから視線が下がる。

 結果として空は視界から外れていき、周囲を描き出すカンパスになり下がる。

 だから、いつも空の色なんて気にしないんだ。

「もうちょっとだけ歩くね」

「どこまで行くんだ」

「秘密」

 視線を綾子に移す。

 途端に、周囲の景色は背景になり下がった。

 空は変わらず水色で、アスファルトは変わらず紺色なのに。

 今はまるで、綾子というモチーフの背景だ。

「不思議なもんだな」

「もう少し不思議なものに逢えるよ」

 道を曲がると、頭の地図には入っていた、真っ直ぐな上り坂。

 左右の家もシンプルな造りが多くて、一見すると空へ真っ直ぐに伸びて行く道に見えた。

 小学生の頃は虹が出るたびに、この場所へ来ていたようにも思う。

「空に続く道、か」

「昔はそう思ったよね」

「あぁ。今は……空は遠すぎるな」

「空って高いでしょ」

「あぁ、高い」

 ゆっくりと踏みしめるようにして、空へと続いていそうな坂道を登る。

 小さな頃は息が切れるほどだった距離なのに、今はもう数秒で駆け上がれる。

 三十秒も経っていなかっただろう。

 坂を上りきった俺たちは、思わず登ってきたばかりの坂道を見下ろしていた。

 突き当たりの家の遥か向こうに、やや赤く染まる空が続いていた。

「空は高くて丸いな」

「あ、それ、私の台詞だったのに」

 少し不機嫌そうな綾子に、俺は思わず頬を緩めていた。

 一人で歩いていても、こんなことには気付かなかっただろう。

 ありがとうの意味もこめて、俺は綾子の肩に手を置いていた。

「で、ここが終点か」

「もう少し、ね」

 そう言うと、綾子は左手に続く、立体交差している道路の中央まで歩いていった。

 俺も後を追って、のんびりと彼女の隣まで歩を進める。

 俺が追いつくと、綾子は前後を大きく見まわしていた。

「空ってさ、本当、大きくて広くて高くて……宇宙だよね」

「こうして見てると、地球ってのが丸いんだなって実感するよ」

 町並みが途切れる向こうに、空が緩やかに潜り込んでいくような景色。

 左右は家が近くにあって見たくはないけれど、前後は間違いなく地球が丸いと教えてくれる。

 理科の知識や、地球の概念なんて関係ない。

 地平線の見える広大な砂漠や、周囲に何もない大海原へ行く必要はない。

 ただこの場所で、前後の空を見ればいい。

 それだけで、地球は丸いんだってことが実感できる。

「……戻ろっか」

「ん、あぁ」

 綾子、せっかくの感動を邪魔しないでくれよ。

 その台詞を喉の奥へ飲み込んで、俺は空を見上げながら帰路についた。

 ほんのちょっと走り出したい気分を押さえていると、先に綾子から走り出していた。

「おいっ」

 下り坂を一気に駆け下りた綾子を追って、俺も一息で坂を駆け下りた。

 坂の下で待っていた綾子が、足を止めた俺に向かって微笑んでくる。

「この道、空に続いてたかな」

「空まで続いていそうな道だな」

「ね」

 もう一度ゆっくりと歩き出す。

 空を見上げながら、隣の綾子の言葉に耳を貸しながら。

 こんなにのんびりした時間を過ごしていたのか、昔の俺は。

 いや、違うな。

 今の俺が忘れていたんだ。この気持ちと、この歩き方を。

「空の色ってさ、その人の年齢によって変わるんだよ」

「変わるわけないだろ。空の色は、空の色だよ」

「小さい頃はね、明るいと暗いしかないの」

「色はついてないのか」

「暗くなるまで遊ぶから、空の色なんて関係ないの」

「なるほど」

「少し大きくなるとね、今度は空の色は青色になるの」

「色を知ったわけだな」

「そう。もっと色を知ると、白色が混じってきて、青は水色に、赤は朱色になるの」

 そう言えば、綾子に初めて聞かれたとき、俺は水色って答えていたな。

 色の名前を知っていくにつれて、人は原色そのままから少しぼやかした色を答えたがる。

 多分、誰も彼もがそうなのだろう。

 青を青と言うのが何故か悔しくて、水色だったり、紺色や藍色と答えるようになる。

 その方が、より詳しく色を現しているような気がして。

「それで、少し大人になるとね、今度は黒になるの」

「夜を知るってわけだ」

「そう。そして今度は、空がなくなっちゃうの」

 空がなくなる。

 綾子の言葉に、俺は思わず空を見上げていた。

 確かに、最近は空の色なんて気にしたことがなかった。

 ただ真っ直ぐに会社へ行き、ただ真っ直ぐに家へ帰ってくる。

 暑かったり寒かったりのことは気にしても、空が何色かなんて気にしたことはない。

 何しろ、朝は忙しくて地面ばかり見ているし、帰りは真っ暗で黒い空なんて見たくないからだ。

「何となくわかるな、空がなくなるっていうの」

「やっぱり、祐也もそうだったんだ」

「久しぶりに空を見たって気がしたよ」

「そう」

 そう言って微笑む綾子に、俺は視線を奪われていた。

 でも、今は空の色がちゃんと見えてる。

 少し暗くなって、綾子の化粧の色が光の加減で薄くなっていて、ちょうどいい美しさだ。

 そして空は、彼女を彩るキャンパスの色。

「祐也、今の空の色は」

「え……あ」

 綾子に尋ねられて、俺は一拍遅れて空を見上げた。

 さっきよりも少し暗くなった色は、くすんだというよりは彩度が落ちた感じだ。

 朱色……いや、紅色かな。灰色を混ぜた色か。

「し」

「言っちゃダメだよ。言ったら、それはもう、空の色じゃなくなっちゃうの」

 綾子の指に、唇を塞がれていた。

 思いのほかそばにいた綾子に、俺の胸が軋んでいた。

「色を言っちゃうとね、その色になっちゃうでしょ」

「言わないのが正解かよ」

「そうよ。空の色と恋の色は、言葉にしちゃ陳腐になるだけ」

「……そうだな」

 黙って引き寄せた綾子の身体は、何も言わずに俺の腕の中におさまっていた。

 そこから先に、言葉は要らない。

 

<了>