湖面に浮かぶ月
一体、どれだけの時間、この場所にいたのか。
気が付けば、あたりは夕焼け色に染まっていた。「……もう、こんな時間か」
橋の欄干にかけていた体重を、僕はゆっくりと自分の足に戻していった。
随分と長い間、欄干に腕を押し付けていたらしい。
欄干へ体重を伝えていた腕は、その任務から開放されて、痺れという悲鳴を上げていた。「どうすればいいんだろうな」
本当に、何も考えずに飛び出してきてしまった。
ズボンの尻に入っている財布の中には、ラブホ泊ぐらいのお金しかない。
当然、そんなところに泊まったからといって、問題が解決されるわけもなかった。「久しぶりだな、歩いてるの」
橋の真ん中から、元来た岸とは反対側に歩きながら、ふとそう思った。
最近は自転車や車に頼ってばかりで、自分の足で動こうとしていなかった。「急いだって仕方ないのになぁ」
橋の向こうに見える道路を、車が走り去った。
どうやら、今の僕は思ったことを全て口に出してしまうらしい。親父の再婚話にショックを受けたつもりはなかった。
そういう話は本人からも聞いていたし、相手の顔も知っていた。
もちろん、よく知るというほどではなかったが。突然な話でもなく、特別意味のある日に話されたわけでもない。
特別な場所で言われたのでもなく、家で普通に言われただけだ。それなのに、僕は携帯電話が鳴ったふりをして、外に飛び出した。
行くあてもなく、ただ歩きたかった。「……それでここまで来てりゃ、世話ないや」
いつもは自転車でしか来ないような、随分遠い場所だった。
ランニングで来る時だって、相応の覚悟をして走る時だけだ。
本当、何をここまで来てしまったんだろう。
歩いて帰ったら、二時間以上かかっちゃうよ。
いつの間にか、日は暮れていた。
街灯のない道を、一人でとぼとぼと歩く姿は絵にならない。
自転車すら通らない道を、僕は適当に歩いていた。「……あれ、智ちゃん?」
呼びかけられて、僕は声の方を向いた。
薄闇に目を凝らすと、若い女性が自転車にまたがって僕を見ていた。「え……誰?」
「あ、暗くて見えない? えとね、結美子」
「ユミ姉ちゃん? 何でこんなとこにいるの?」親戚のユミ姉ちゃんだった。
年頃の女性は、本当言われるまでわからない。
髪型と化粧で判断してるから。「バイトの帰り。今、家庭教師してるの」
「そっか。こっちは……のんびり散歩」
「散歩? えらく遠いけど」
「ランニングしてたら疲れたから、帰りは歩いて帰るところ」別に変な言い訳じゃないだろう。
僕が市内を走り回っているのは、結構みんな知ってるみたいだし。でも、ユミ姉ちゃんは違った。
疑わしげに真正面から僕を見てきた。「……何か、嘘っぽいなぁ。汗一つかいてないし、そんな格好でランニングしてるの?」
言われて、僕は改めて自分の格好を思い出した。
普通のポロシャツに、普通の綿パン。
とても走る格好ではなかった。
よく見てるよ、ユミ姉ちゃん。「はは……バレた?」
「まぁ、簡単な推理だけど」自転車にまたがっていたユミ姉ちゃんが、自転車を降りた。
どうやら、逃げられそうにはなかった。「それで、どうしたのか、聞いていいの?」
そう言われて、首を横に振った。
正直、話せる内容でもない。僕が黙っていると、ユミ姉ちゃんは自転車を押し始めた。
僕はぼんやりとそれについていった。「女の子にふられた……てのじゃ、なさそうね」
「まぁね。ふられるような相手もいないよ」まぁ、もしもいたならその子の家にでも行くんだろう。
こんなところでぶらぶらしてるわけがない。「学校で何か嫌なことでもあったの?」
「まぁ、そっちもいろいろとあるけどね」
「バイト先?」
「バイト先は満足です」歩いているうちに、少しだけ気分が軽くなってきたような気がする。
ユミ姉ちゃんの隣にいるからかな。「……家?」
沈黙は、肯定と同義だ。
ユミ姉ちゃんの吐いた息の音が、肯定と受け取ったことを教えてくれた。「怒られたわけじゃなさそうね」
「別に怒られたわけじゃないよ」
「……じゃ、何なの?」聞かないって言ってなかった?
「いろいろと思っちゃったわけです」
「いろいろと思っちゃったわけか」自転車のカラカラとなる音が、耳に付くようになった。
だいぶ周りが見えてきたみたいだ。ふと視線を隣に向けると、ちょうどユミ姉ちゃんもこちらを向いたところだった。
「……落ち着いた?」
「まぁね」周りが見えてくると、随分と遠くまで来たことに改めて気付く。
遠いなぁ、ここから。
「ねぇ、自転車乗せてよ」
突然、僕はそう言って自転車をつかんだ。
前に進めなくなったユミ姉ちゃんが、不思議そうに僕を見ていた。「いいけど……どうするの?」
「乗って帰る」
「私は?」
「後ろに乗ればいいじゃない」正直、このまま歩いて帰っていたら、いつ帰れるかわからない。
ユミ姉ちゃんはのんびり歩いてるし、僕だって走る気力もない。
それに加えて、妙な気分になってきていた。「ま、歩いてても遅くなるだけだしね」
そう言うと、ユミ姉ちゃんは僕にハンドルを譲った。
サドルに跨って、姉ちゃんが荷台の上に腰を下ろすのを待った。「……いいよ」
「んじゃ、いきます」最初は力一杯ペダルをこいだ。
平坦な道を、自転車が徐々に加速していく。
一度動き出してしまえば、二人乗りはそんなにつらくない。
ここから家までは、全部平坦な道を通っていける。「大きくなったよねぇ」
自転車をこいでると、ふと、そんな風に言われた。
後ろを振り返るのは危険なので、僕は少し声を大きくした。「何言ってんの?」
それを、ユミ姉ちゃんは聞こえなかったと受け取ったらしい。
「大きくなったよねって言ったの」
「あのね、もうすぐ二十歳なんですけど」
「うわ、じゃ、私、もうすぐ二十四だ」別に年齢の確認をしたいわけじゃないだろう。
何となくそう感じたが、僕は黙っていた。「そのわりには、二人乗りに慣れてないわね」
「……いつも後ろだから」そう、いつも後ろだ。
体重軽いからね。「女の子にこがしてるの?」
「違います」そう言えば、女の子乗せて二人乗りするの、初めてだな。
意識してしまうと、腰に回されている腕が、妙に違和感を感じてしまう。「智ちゃんさぁ、ひょっとして彼女いないの?」
「いたら、あんなところで泣いてません」
「あ、やっぱり泣いてたんだ」自分からバラしてどうする。
僕は気恥ずかしくなって、少しだけ物分りのよい青年を演じることにした。「……迎えに来たんだろ。親父さん、電話したの?」
「そういうこと。大分心配していたみたいよ」
「ご迷惑をおかけしました」本当にそうなってるとは思わなかった。
こうなると、何も言えなくなってしまう。僕が黙っていると、ユミ姉ちゃんが僕のわき腹をくすぐってきた。
思わずハンドルが揺れて、立て直すのにやっきになる。「ちょっとッ」
「黙ってても面白くないでしょ。こぎながらしゃべりなさいよ」
「元々寡黙なんですッ」何か、戸惑わされている。
ユミ姉ちゃんといると演じたくなって……でも、演じ切れなくて。
どういう感覚なんだろう、これ。「……そう言えばさ、どこか行った?」
「最近? 最近は湖に行った」
「へぇ、お土産もらってないけど?」
「観光地じゃなかったから、何もなかったし」本当は忘れてたんだけど。
それに、お金の余裕もなかったしね。「淡水魚の粕漬けでもなかったの?」
「どこにも寄ってないんだってば。本当に湖を見に行っただけ」
「綺麗だった?」
「すっごく」本当、予想外に綺麗な湖だった。
単にドライヴ行きたくて、丁度いい距離だったから行ったんだけど。「場所、教えてよ。私も行くから」
「一人で行くの?」
「親と行くような場所でもないでしょ」ユミ姉ちゃん、インテグラに乗ってたっけ。
走り屋の車だよなぁ。「道案内は要らない?」
「泣き虫智ちゃんは要らないかなぁ」そう言って、ユミ姉ちゃんが笑った。
昔、よくからかわれていたっけ。
泣き虫智ちゃん……懐かしい呼ばれ方だ。「自称男前……は?」
「恥ずかしがりの智ちゃんも要らないかな」だんだん、町が近付いてきた。
自転車の灯り以外の照明で、道が見易くなっていた。ユミ姉ちゃんの家まであと少しだ。
「ほら、あと少しよ。頑張ってこぐ」
「ウィッス」きっと、姉と弟なんだろう。
それ以上の関係は望めない。この瞬間は、湖面に浮かぶ月のようなものだ。
風が吹くだけで形が崩れ、触れようと思えば掻き消える。
遠くから見たときだけ見える、湖面の月。「で、湖の場所は?」
「名神から、自動車道に入った。長野入ってからだったかなぁ」
「ほうほう……名神、すいてたの?」
「それなりに。動いてたから、結構面白かった」
「何で行ったわけ?」
「サニー。家の車だからね」
「日産なら、フェアレディでしょ」姉ちゃんは自分だけで車持ってるからいいけどさ。
それに、僕の基本はセダンだから、その意見にはやや反対だ。「フェアレディは走るだけでしょ。レジェンドがいいよ、レジェンドが」
「フェアレディのフォルムは可愛いのよ。あのケツがいいの」
「ケツが丸けりゃいいってもんでもないでしょ。トランク小さいし」
「トランクなんて、要らないのよ。フェアレディの足回り、この間乗せてもらったけど、いいよぉ」あ、足回りはテクニックでカバーできるのだ。
「レジェンドなんて税金高いじゃない。ホンダならインテグラで充分よ」
「ソアラもいいけどね。小さめなら、ランサーもいいっぽいね」
「ランサーって三菱でしょ? 三菱のスポーツセダンは乗ったことないなぁ」車の話になると、僕らに壁はない。
ドライヴ好きだしね。
そう言えば、鈴鹿に連れて行ってくれたこともあったっけ。「……と、もう着いちゃったか。家まで送ってってあげるよ」
「ご迷惑かけます」自転車をガレージに置いて、ユミ姉ちゃんのインテグラに乗り込む。
走り屋の常として、後部座席のことを全く考えていない座席位置。
ハンドルを向いているエアコン。妙に見やすいサイドミラー。「さて、どこ走る?」
「……家まで送ってくれるんじゃないの?」
「おもしろくないでしょ、それじゃ」そんな話じゃないと思うけど、走り屋の隣に乗るのは結構楽しいものだ。
ほんの少しの距離でも、流れる景色が面白い。「んじゃ、第二名神でも突っ切りますか?」
「あそこは網張ってるよ。どっちかって言うと、京奈和でしょ」
「どこまで走る気ですか」
「走りたくなるでしょ、むしゃくしゃしてると」そう言って、ユミ姉ちゃんが助手席の僕を見てニッと笑った。
あぁ、いろいろ考えてくれてるんだ。
これは、インテグラ運転させてもらえるかも?「行こう!」
「オッケェ。行きましょうか」
「うわっ」助手席のことを全く考えないバック。
急発進、コーナーリング。
おいおい、地道で八十出てるって!「さぁ、走るわよ!」
走りたいだけなんじゃないの?
目的地もなく走るって、それでいいのか?
僕の湖面に浮かんでいた月は、もう消えていた。
朝日が昇り、太陽が湖面全体を輝かせている。きっと、隣にいる人のせいだ。
僕のことを考えてくれてるんだか、考えていないんだか。でも、今伝える言葉はこれしかない。
”ありがとう”
<了>