最後の夏


「……ありがとうございました」

 この瞬間、俺の高校生活は終わりを告げた。
 俺の手番の時には残り10分を差していた時計は、今、0分を差している。秒読みのアラームが鳴る中、俺は終わりを告げた。
 何も出来なかった訳じゃない。まだ、十分に指すことは出来る。
 俺が詰めるまであと3手、俺が詰まるまであと16手。
 だが、その16手は必然の集まり。俺の頭の中で何度も検討しなおしてみたが、結果は変わらない。

「ありがとうございました」

 対戦相手が席を離れ、審判員も席を立った。
 感想戦は俺が終わりを告げて以来、数分間の間、行った。だが、それは、もはやどうでもいい事だった。

 終わってしまったのだから。

「……先輩」

 どうやら、俺を待っていたらしい。
 この唯一の後輩は、俺と共に最後を告げるためにこの学校に入ったのだろうか。いや、違う。ただ、俺と同じように入学して、
時間が俺と彼女だけを残した。
 運命を感じなくてはならないのかもしれない。

「先輩、お疲れ様でした」
「あぁ、お疲れさん」

 本当に疲れた。

「先輩……終わっちゃいました」

 笑わなくていい。
 俺が、泣きたいくらいなんだ。この感受性の高い後輩は、きっと、俺よりも泣きたいだろう。
 なにしろ、予定されていた来年は、もうないのだから。

「あぁ、おわっちゃったな」

 我ながら情けない言葉が口から出る。
 俺の高校生活が終わりを告げるのはかまわない。元々、大した生活だったわけじゃない。
 だが、何故彼女の高校生活まで終わらせることになってしまったのか……。

 後悔はしない。

 そう誓ったはずなのに、俺は過去へと意識を飛ばした。


「廃部?」
「あぁ。どうせ二人しかいないし、大会に出てもお金がかかるだけだろう?」
「それは……でも、一応来年の新入部員も」
「だから、この時期に言ってるんだ。来年度用の学校紹介から、囲碁・将棋部をなくそうかと言う話になっててな」
「そんな勝手な……どうせ、事後承諾になるんですかね」
「……スマン」
「気休めはいりませんよ。どうせ、あと一年。活動だけは許して下さい」
「悪い、小川」
「気休めは言わないで下さいよ。放課後に勝手に集まるだけ。勝手に将棋を指すだけですから」

 職員室を出る。
 福橋が待っていた。
 どこかで聞きつけて来たらしい。

「廃部、ですか?」
「あぁ」
「来年の大会は?」
「までだ」

 素っ気無くなってしまう。
 本当は、こんな風に言うつもりではなかったのに。

「条件、出しましょう。入賞しなければ、廃部にしてもらってかまわないって」

「え?」

「私、先生に直談判に行って来ます」

 止める暇はなかった。
 数分後、福橋に、条件が飲まれたことを告げられた。

 まったく、情けない部長だ。


「……先輩、帰りませんか?」

 気付くと、俺はまだ俺の高校最後の一局を演じた盤の前に座っていた。
 福橋の声に軽く手を挙げて、俺はもう一度、盤を睨み付けた。

 3筋の位。

 俺の負けた要因。
 最後まで響いた3筋の位。
 自分より上手の相手とやる時は、絶対にやってはいけない位。

「ホント、気付くのが遅いんだよ」
「先輩?」

 無理な笑顔も疲れたのか、福橋は普通の表情に戻っていた。
 俺の隣に来て、俺と同じように盤を見つめる。

 わからないだろ?

 ドシロウトの目にはまだ戦える。俺のたった一人の後輩は、まだドシロウトだ。
 元々が囲碁の方が好きなのだから、この後輩にこの将棋はまだ見えないはずだ。

「……先輩、続き、教えて下さい」

 真剣な瞳。

 俺は彼女のこの瞳に魅せられたのだ。
 正直、今日まで高校生活が続いていたのは、彼女のせいだ。

「あとは必然の繰り返しだ。いいか、よく見てろよ」

 実際に駒を動かしてやる。

 最後の一手に達した時、福橋がため息をついた。

「こう、なるんですね?」
「確実にな。もしかしたら、どこかで間違えるかもしれない。でも、それを期待できる相手なら、俺は勝っていただろう」

 正直に言うと、本当にそうなのかは分からない。人間、つまらないミスは多いものだ。
 そして、ミスを冒せばその時点で、勝利は俺の元に確実に転がり込んでいた。誰が3手詰を間違える?

「……先輩、粘らなかったんですね」

 粘りたくなかったのかもな。

「あの人、優勝しますか?」
「だったらいいな。負けて、悔いなしだ」
「本当に?」
「悔いが残るなら、ミスを待つさ」

 俺はようやく盤から目を離した。
 たった一人の後輩も、どうやら目を離したようだ。

「帰りましょうか」
「そうだな」

 二人で盤を離れる。

 やや俯いた福橋の肩が、微妙に俺の腕に当たる。
 ブレザーは、実際以上に触れたような感触を与えてくれる。

「小川、終わったのか?」
「あぁ。終わったよ。そっちは?」
「ウチも全員負けたよ。今、青山さんが感想戦」
「勝てそうだったのか?」
「6目らしい。一応最後まで打ったみたいだった」
「なんだ、見てたんじゃないの?」
「見てた。最後、唇を噛みしめてた」

 西垣が、そう言って吐息をつく。
 小さい頃からずっと、共に将棋を指してきた仲間だった。
 実力の差はややあるかもしれないが、俺は感謝している。俺に将棋を見せてくれたことを。
 最後まで、俺たち二人に付き合ってくれたことを。

「福橋さんは、囲碁、2回戦までいったんだって?」
「はい。みなさんのおかげです」
「ハハ、そう言ってくれたら、先生に頼んだかいがあるよ」
「はい、ありがとうございました。本当は、来年もお会いできればよかったんですけど」
「会えるさ、近所なんだし」

 終わった。

「ふぅ……お待たせ」
「青山さん、お疲れ様」
「あ、小川君。どう?」
「3回戦負け。そっちは?」
「準決勝まではいけたんだけどね。あと一歩、足りなかった」

 青山は西垣と同じ学校の、囲碁・将棋部の部長だ。
 俺たちが最後にお世話になった、西垣の同級生。

「福橋さんも1回戦は突破したのよね。おめでとう」
「本当は、もっと勝ちたかったんですけどね」

 西垣の仲間が集まって俺たちの所にやって来るのが見えた。

「西垣、飯、食いに行こうぜ」

 いつもは誘いに乗る西垣が、首を横に振った。

「俺、用事があるから」
「あら、用事があるの? 私も誘おうと思ってたんだけど」
「あ、青山さん……」
「なんか、そっちにはいけそうだな、西垣」

 西垣が青山に惚れてるのは知っている。
 俺が行動を起こす前に、福橋が動いていた。

「青山先輩も一緒にいかがですか?」
「そうね。そうしましょうか。ウチのと一緒でいい?」
「はい!」

 西垣が一人で溜め息をついている。

「アテが外れたか?」
「鈍感男が」
「……お前に言われたくないな」

 軽口が叩けるのはいい傾向だと、俺は自分で思った。
 少なくとも、落ち込んで、ネガティブになってるわけではなさそうだ。


「先輩、何食べます?」
「ラーメンライス」
「じゃ、私も」
「俺は天津麺」
「私はメンマラーメン。それから、こことあっちのテーブルに唐揚げ2人前ずつ」

 4人がけのテーブル。
 向かいは福橋。隣には、西垣がいた。

「結局、小川たち3人以外は、全員初戦敗退か」
「ポカミスで負けた人もいたけどね」
「……どうせ」
「相手が強かった。そう思えばいいさ」
「あの角交換は見逃してたんだよ。作戦負けだ」

 注文を待つ間の会話は、俺が最後に出来る会話だった。
 もう二度と、この会話の楽しみを味わうこともない。

 すべては終わったのだ。

「……先輩?」

 どうやら、俺は食べる手を休めていたらしい。
 ライスを片手に持ちながら、福橋が俺を見ていた。

「……何だ?」
「先輩、私のフルネーム、覚えてます?」
「何なんだよ、いきなり」

 覚えている。

 忘れるはずがない。

「福橋椿だろ?」
「先輩の名前は、小川雄ですよね」
「それが?」
「いいえ」

 変な奴だ。

「西垣、これからどうする?」
「受験だな。取り敢えず夏までに遅れを取り戻すよ。内部受験でも、成績はいるし」
「小川君は?」
「近所の国公立でも受けるつもり」
「公立? 内部進学はしないの?」
「終わったから」

 そう、終わった。
 大学へ行ったとしても、もう将棋は指せないだろう。

「先輩、よそへ移るんですか?」

 また、引き込まれそうになる。
 この瞳を見ていたら、俺は道を誤るだろう。
 理性の欠片が吹っ飛ぶかもしれない。

「そんな……終わったって、何が終わったんですか?」

 何言ってんだ?
 俺の将棋は……

「……将棋が終わったんですか?」

 将棋が、終わったのか?

「先輩の将棋が、終わったんですか?」

 俺の、将棋が終わった……のか?

 終わらせたいのか? 俺は、将棋を捨てるのか?

「……先輩、私」
「うるさいよ。高校生活は終わったんだ。青春も、終わりだよ」
「将棋が、終わったんですか?」

 いいのか、それで?

「……椿ちゃん」

 青山の声が遠くに感じられた。
 俺は、何を迷っているんだ?
 将棋を捨てることか? それとも?

 

「……お勘定」

 店を出た俺は、西垣の仲間を待つ間、じっと後輩の顔を見つめていた。
 「将棋がおわったんですか?」
 終わらせられるのか? 捨てられるのか? もう、駒に触れないのか?

「……福橋」

 振り向いた。

「はい?」

 何を迷う? 俺がやりたかったのは、高校将棋か? プロになるための将棋か?

「やっぱ、内部進学かな」
「え……先輩ッ」

 ……軽いんだな、後輩は。

 

<了>