血塗られた手を引いて

マリア=テレジア


「……ッ」

 どこかに油断があったのだろうか。
 肉を切る包丁の刃先が滑った。

 私の指から流れ出る、紅い血。
 指から流れ出る血を拭おうともせずに、私はただひたすらに血が流れるのを眺めていた。

 頭の中に流れる言葉はただ一つ。

『生きている』

 

 

 いつからだろう。
 手袋をしなくなったのは。

 思えば、物心ついてからずっと、私は手袋をしていた。
 外に出る時も、家の中にいる時でさえ。

「どうして私は手袋をしていないといけないの?」

 幼い時、母に尋ねたことがあった。
 母もずっと手袋をしていた。

「私たちは手袋をしていないといけないの」
「どうして?」
「私たちの中にはね、父様の温もりが残されているの。それを大事にするためよ」

 幼い頃、そう聞いて納得していた。
 手袋をしていることで、この世にいない父親の存在を確かめられるような気がして。

 母が常に手袋をしていたことも、私には当然だった。
 母がどれだけ父を愛し、大切に想っているかを知っていたから。
 その証の一つだと、ずっと思っていた。

 

「マリア、その手袋はね、あなたの封印でもあるのよ」

 

 一人で逃げることになる前日、母に呼び出されてそう告げられた。
 それと同時に告白された。
 私達が手袋をつけている理由を。

「母さんは魔法の血を受け継いでいるの。それも、機械と魔法を融合させる力を持っているの。
 もっと解り易く言えば、機械に魔法の力を与えられるの」
「凄いじゃない。だったら、何で封印するの?」
「この力はね、本当はあってはならないものなの。魔法と機械の融合は禁忌なのよ」
「何故?」
「魔法の力を機械に与えることは、絶対に避けなくてはならないの。世界を、混沌としたものにさせないために」
「有効利用を考えればいい事じゃない」

 あの時は、単純にそう思っていた。
 きっと、古くからの誤解が生むものだと。

「有効活用なんてないわ。殺戮兵器を作ることにしかならない」
「やってみなくちゃわからないわ」
「……やってはいけないのよ、マリア。あなたにも、必ずわかる時が来るわ」

 母が何を恐れたのかは、今になってみればわかる。
 魔力は、殺傷力を極めて有効に上げることができるのだ。
 拳銃一撃で人間を粉々に砕ききってしまうほどに。

「でも、あなたの命が危ないと感じたら、迷わずその手袋を取って……これを使いなさい」

 そう言って手渡されたのは、黒光りのする拳銃。
 弾は装弾されていなかった。

「母さん?」
「やり方なんて教われなくてもやれるはずよ。あなたの中に流れる血は、私のものなんかよりもずっと濃いのだから」
「これ、拳銃じゃない」
「そうよ。たった今から、あなたを守ってくれる拳銃」
「意味わかんないッ。こんなので、どうしろって言うのよッ」
「ゴメンね……それしか、あなたを守る方法がないのよ」

 その時は、泣き崩れた母に対して、何も言えなかった。
 ただ、嫌悪と戸惑いと。
 それだけが頭の中を駆け巡っていた。

 

 

 母の言葉を実感したのは、一人になってから。
 自分で、自分の身を護るようになってから。

「デスショット!」

 そう叫んで、弾丸に念を送る。
 それだけでことは足りる。

 弾き出された弾丸は、着弾すると同時に爆発する。
 殺意しかない魔力の塊を撃ち出すようなものだ。
 弾丸を媒介にして、相手へ着弾させるだけ。

「マスクールッ」

 一撃で広範囲のものを爆発させる技。
 いつのまにか、レパートリーまで増えていった。

 母の言葉は、もはや頭の片隅に追いやられていた。
 殺すことに快感を覚え、どれだけ違ったパターンの攻撃をできるかに酔い痴れた。
 もはや、殺人機械と化していた。

「私に勝てる人間はいない」

 そう思うようになっていた。

 一人で生き抜く為に、金を稼ぐ為に、この能力は非常にありがたかった。
 強盗、依頼殺人、復讐からの逃亡。
 その全てにおいて、この能力は私に望みうる結果を与えてくれた。

 そして、それはたった一人の少女の言葉で打ち砕かれるように、脆く、浅はかなものだった。

 

 

「お姉ちゃん、ユウを殺したんだね?」

 依頼主の娘。
 まだ幼い少女に言われたこの言葉が、それまでの私を打ち砕いた。

「どうして? ユウは、ユウは当主になりたいなんて言ってなかったッ。わたしと一緒になるって、結婚してくれるって」

 依頼主の事情は聞いていた。
 この少女の兄に家督を継がせる為に、この少女の慕っていた少年を殺すように依頼して来たのだ。

「……チッ」

 舌打ちを隠し切れなかった。
 この少女の乱入を防ぎ切れなかった依頼主と、純粋なこの少女に。

 それでも、依頼主は黙って少女を下げさせると、私が言った通りの報酬を払ってくれた。
 そして、追い出された。

 

 

 その数日後、私は少女を連れて道無き道を逃げていた。
 理由は簡単。
 私が少女の依頼を引き受けたから。

「わたしをこの屋敷から逃げさせて」
「……本気なの?」
「ユウを殺したお父様なんかと、一緒にいるなんて耐えられないッ」
「報酬は?」
「この宝石。本物だよ」

 少女の掌に丁度乗るような、小さな宝石。
 きっと、少女の一番の宝物。

「……わかった」

 本当は酸化してしまっていて、宝石としての価値はかなり低い。
 それでも引き受けたのは、少女の言葉が頭に突き刺さっていたから。

 面白半分に人を殺していた私に、母の言葉を思い出させてくれた一言。

『どうして殺したの?』

 本当、どうして殺したんだろう。
 自分の身を守る為でなく、自分が生活する為。
 ほんの少しの違いに、私は愕然としていたのかもしれない。

 だから、引き受けたんだろう。
 私が失った少女時代を、この少女が失わない為に。

 

 

「……今、すごく幸せだよ」

 声に出して確認する。
 それから、水で血を洗い流す。

 少し痛みがあるが、作業に支障が生じるほどじゃない。
 そう、大事な人に料理を作ることへの支障とはならない。

「あとは、ペッパーね」

 調味料で味を調える。
 私の味付けは、御主人様の口に合っているようだ。
 勿論、私だって自分の味を押し付けるだけという真似はしていないけれども。

 ここでメイドになったのは、ほんの偶然。

 少女を守りきれずに、この家に保護されたから。
 そして、御主人様がこう言ってくれたから。

『ここにいて不都合がないなら、ここで暮らして欲しい。丁度、メイドが欲しいと思っていたんだ』

 この言葉がなければ、ここで料理なんてしていないだろう。
 再びこの手を血に染めているか、もう既に死んでいるか。

『メイドって、どんな格好してるか知ってる?』
『そうそう、掃除用具とかは一応揃ってるから』
『へぇ、その格好してると、なんか可愛いな』

 久しぶりに受ける温かみだった。
 家を追われて、血生臭い生活をしていた私にとって、この家の居心地は嬉しかった。

 御主人様の両親がいないことも、私にはよかった。
 似たような境遇と思うことができて、誰にも気兼ねすることなく暮らせるから。
 そして、面倒を私一人で見れる所がよかった。
 私がいなければ。
 そう思うことができたから。

「あ、そろそろいいかしら?」

 少し、年齢不相応かなとも思ったりするけれど、誰もいないから気にしない。
 メイドでいる時間。
 私の失った時間を取り戻させてくれるような時間。

 

 

 夕食後、いつものように暖炉の前のソファに座ってコーヒーを飲んでいた御主人様に、手紙を差し出す。
 『メム=ナーガ』と差出人の名前があったので、きっと親戚か何かからだろう。

「……御主人様、どうなされました?」
「いや、何でもないよ」
「そうですか? どうも、お顔の色が思わしくない様ですが」

 手紙を差し出した瞬間から、御主人様の表情が硬くなったのは目を疑うまでもない。
 明らかな緊張が、ひしひしと伝わってくる。

「大丈夫だよ。ちょっと、珍しい人からの手紙だったのでね。緊張してしまったようだ」

 じっと見つめてしまっていたのか、御主人様がそう言ってきた。

「そうですか……それでは、失礼致します」
「あぁ。今日はもうゆっくりしてくれ」

 無言で頭を下げて立ち去るのは、メイドとして当然の事。
 どんなに不思議に思っても、御主人様の指示に従うのはメイドとしての務め。

 気になってはいる。
 でも、立ち入ることはできない。

 それが、私がここにいる条件。
 メイドである為の必然的行動。
 いくらなんでも、メイドとしている意外にここにいる資格は得られそうにないから。

 

 

 手紙を渡した翌日、御主人様の様子が変だった。
 朝食を食べていても、いつものような元気さが見受けられない。
 いつもならば、本当に美味しそうに食べて下さるのに。

 そして、決定的なのがこの言葉。

「マリアは、この村が好きか?」

 何を言い出したのかがサッパリわからない。
 まるで、御主人様がこの村からいなくなってしまいそうな言葉。

 わからない。

 一体、何があったのだろう。
 切っ掛けはあの手紙しか考えられない。
 差出人の所に、『メム=ナーガ』と書かれていたあの手紙しか。

 

 

 御主人様が外出なされて、私はいつものように家事を始める。
 家事をしている間は、何にも悩まされずに済みそうだから。

「……さ、今日はどこを掃除しようかしら」

 没落しているとはいえ、貴族の末裔であり、未だに村一つを治める屋敷。
 屋敷にたった一人のメイドでは、そう毎日全部の場所を掃除できるわけもない。

 結局、一日に数箇所を徹底的に掃除するくらいしかできない。
 それでも、御主人様は文句を言ってはこない。
 基本的に御主人様が一人でいた時にもそうしていたらしく、掃除する人数が変わらない限りこのままでいいようだ。

 今日の掃除は御主人様の部屋から。

「いつもながら、それほど汚れてはいないようね」

 いつものように、簡単に掃き掃除を済ませて、拭き掃除に移行する。
 慣例として、ベッドサイドのテーブルから拭こうとして、テーブルの上の灰皿に灰が溜まっているのを見つけた。

 御主人様は煙草類は吸わない。
 昔は煙草の煙に囲まれて過ごしていた私にとって、この屋敷の空気は最初慣れないものだった。

「……これは、紙の灰」

 燃え尽きてしまった灰でも、煙草か紙かの違いは判別できる。
 この灰は、紙を燃やしてできる灰だ。

 いけないこととは思いつつ、部屋の中を徹底的に点検する。
 御主人様が何かを隠しそうな場所には、私も初めて見るものがいくつかあったが、手紙がない。

「じゃあ、燃やしたのは手紙ということかしら」

 灰を片付けて、布団を整え終えたベッドの上に腰を下ろす。
 心地よい弾力が、思考には最適だ。

「……あの御主人様が手紙を燃やすなんて」

 今まで仕えてきて、わかったことは沢山ある。

 もらった手紙を燃やすような方ではない。
 以前、数年前の決算済み借用書が部屋から出てきたことがある。
 感情のままに行動する方ではない。
 何かあると部屋に篭られることはあるが、それは気持ちを静めさせるためのものだろう。
 事実、数時間後には落ち着いた雰囲気を取り戻されている。

「何が書いてあったんだろう」

 思わず服を掴む。
 嫌な胸騒ぎがする。

 

 

「マリア、話がある」

 夕食後、片付けをしていた私を、御主人様はそう言って食堂へ呼び戻した。
 着けていたエプロンを外し、御主人様の前に立つ。

「マリア、君は今までよくやってくれた」
「……クビ、ですね」

 怖れていた言葉。

 決して聞きたくなかった言葉。
 忘れかけていた不安を、現実にさせる言葉。

「何故なんですか?」

 はっきりとした声にならないほど、声がかすれている。
 返事はない。

 未練がましく思われたくない気持ちが、私に背中を向けさせた。

「……マリア、待ってくれ」

 私を呼び止めるその言葉に、わずかな期待を乗せながら振り返る。

「クビじゃない。最後まで話を聞いて欲しい」
「……わかりました」

 知らず知らずに、拳に力が入っているのがわかる。
 手が、痛い。

「マリア、君は本当に今までよくやってくれた。使用人として、もったいないくらい働いてくれた」
「ありがとうございます」
「だが、それは今日限りにして欲しい」
「……今まで、ありがとうございました」

 そう、所詮私には似合わなかったんだ。
 誰かの為に働くには、この手は血に染まり過ぎている。

 今更だけど。
 多くの命を奪っておきながら、御主人様の好意に甘え過ぎていたんだ。
 本当に今更なのに、後悔の念が湧き上がってくるのには驚いた。

 もう、取り返しなどつく筈もないのに。

「そういう意味ではない。私が君の雇い主なのは、今日限りってことになる」
「……どういうことですか?」

 ……心の中で嘲笑してる。
 今の私は、どんな眼をしているんだろう。
 虚ろな瞳? 挑むような瞳? それとも、捨てられた子犬のような瞳?

「私は明日、この屋敷を手放すことにした」
「えッ」
「簡単に言えば、この屋敷が必要でなくなったってことさ」
「ど、どういうことですッ?」

 全く予想外の答えを聞いて、思わず拳の力が消える。
 完全に私の予想外の答えだったから。

「行かなくてはならないところができたんだ。ここにいることができなくなった」
「急な話ですが……それでは、早速荷物の片付けを」

 とにかく、この家を出ないといけなくなったらしい。
 私の進退はこの際どうでもいい。
 いや、打算もあるかも知れない。
 解雇するか迷っているかも知れない御主人様に、有能さをアピールすれば……姑息だけれど。

「いや、それはいい。引っ越すわけではないんだ」
「どういうわけです?」
「理由は言えない。だが、君を連れて行くことはできないんだ」
「納得できませんッ! クビではない、連れていくことはできない。そんな話が通じると思っているのですかッ」

 なんて醜いんだろう、私は。
 わずかな希望を失っただけで、こんな風に声を荒げるなんて。

 そんな冷めた感情が片隅にありながら、頭と喉は冷めてはくれない。
 力の抜けていた拳を、今度は放出したい力を堪える為に握り締める。

「通じるとは思っていない。しかし、この家を君に譲りたいと思っている」
「全くもって理解できませんッ」

 理解なんてできる筈がない。
 せっかく、せっかく一緒に行けるかも知れないと言う思いが……。

 どう思われたってかまうものかッ。
 今を、今を失いたくないッ。

「一日、考えて欲しい。明日の朝、返事を聞かせてくれないか」
「御主人様ッ」

 私を見捨てないで!

 そう叫ぼうとした瞬間、ロウが席を立ち上がった。
 追い駆けようとする私を遮る、ロウの手。

 一緒にいさせて欲しい。
 今になって気付いたこの想いに、身体と頭が分離する。

 遅すぎる……我侭……自分勝手……期待を持たせたのは誰……

「マリア、一日考えて欲しい」
「御主人様ッ、明日、もう一度説明していただきますからッ」

 この家に、この村にいたいんじゃないんです。
 貴方の傍に……ロウ、貴方の傍に。

 

 

 自室に戻るしかなかった。
 あのまま、ずっと食堂で明日の朝を待つには時間が長過ぎるから。

「……バカ」

 頭では理解してたつもりなのに、身体がついてこなかった。
 いつかは一人になると解っていたのに。いつまでもここに置いてもらえるとは思っていなかったのに。

 なのに。
 なのに。

 別れたくない。
 一緒にいたい。

「……何で、もっと早く気付かなかったの?」

 ベッドに倒れ込む気力もなく、部屋の扉を閉めたまま、扉にもたれ掛かってしゃがみ込んだ。
 もはや、身動き一つできやしない。

 気付かなかったのは私のせい。
 自分自身に鈍感な私のせい。

 いつもいつも、やることは手遅れになってから。
 殺人稼業を止めた時も、今日だって。

「離れたくないよぅ」

 涙が零れるのを抑えられない。
 でも、それが何だか嬉しい。
 普通の、普通の女の子に戻れたみたいで。

 どうして気付かなかったんだろう。
 メイドを楽しんでいたんじゃなくて、誰かの傍にいたかったんじゃなくて。
 誰かの面倒を見ることじゃなくて、あの人の面倒を見ていたかったことを。

 ……本当、情けない。

「あんな手紙、渡さなきゃ良かった」

 手紙?
 そう、手紙だ。

 無意識のうちに立ち上がり、荷物をまとめる為に押入の中のものを出す。

「……変なの」

 ロウの言うように、この屋敷に住み続けることはできるのに、何故か家を出る準備をしている私。
 まるで、彼のいない屋敷には興味がないみたい。

 ……いや、興味なんてないんだ。

「あら? 手紙?」

 いつの間にか手にしていたのは、封の切られていない手紙。
 宛先は、私。

「え?」

 誘われるように封を切る。
 そうしなければいけない気がして。

 

『この手紙を見ているという事は、私とマリアさんの別れの時が近付いているということだろう。
 それはとても残念なことだが、運命とは受け入れるものでしかない。

 この手紙の封を切る時は、ロウ様にある手紙が渡されてからだと言ったつもりだ。
 その手紙の内容を詳しくいうことは出来ないが、その手紙が私とロウ様とを引き離す手紙でもある。

 だが、マリアさん、貴方にこの手紙を渡したのには理由がある。

 どうか、ロウ様を一人にしないでいただきたい。
 無論、無茶な道理だと言うのは承知している。

 しかし、ロウ様は私達の主君であり、かけがえのない息子のようなものだ。
 先代、先々代と仕えてきたのはもはや私一人になってしまったが、これは村の総意だと言っていい。

 ロウ様について行っていただきたい。
 マリアさん、貴方と言う人間を私は少しばかりわかっているつもりだ。

 ロウ様の背負わされたものがどれ程のものなのか、私には見当もつかない。
 だが、ロウ様が貴方を必要としているのは解る。
 ロウ様のたった一つの我侭が、貴方を助けることだったのだから。
 貴方にほんの少しでも慈悲の心があるならば、ロウ様について行っていただきたい』

 

「……どう言うこと?」

 一枚目の手紙を読み終えて、二枚目に眼を通す。

『……古の弐拾参家 ナーガに仕えし者より』

「古の弐拾参家? ナーガ?」

 古の弐拾参家とは、御伽噺に出てくる弐拾参の神をそれぞれ司る数千年前の王家の貴族。
 御伽噺ではないと言うのだろうか。

「……涙、止まってる?」

 誰に聞くまでもない。

 現金なものだ。
 自分以外の作った大義名分を手にいれて、泣き止んだだけ。
 これを利用して、あの人の傍にいれるように思っただけ。

「……諦めない。そうだよね、リカちゃん」

 もう、二度と過ちは犯さない。
 自分を見失うことも、護りきれないなんてことも。

「私は、離れたくないのだから」

 

 

 いつものように朝食を用意する。
 それが、私の役目だから。

「ハムエッグでいいかしら」

 何度感じてもいい。
 この幸福な気持ちなら。
 誰かの為に食事を準備をする。なんて幸せなんだろう。

「さ、着替えなくちゃ」

 決めていた。

 ついていく。
 何を言われようとも、ついていくんだ。
 それが、私の我侭。

 

 

「おはよう、マリア」
「おはようございます、御主人様」

 旅支度を整えたロウ様が、俯き加減に食堂に入ってくる。
 当然、その眼は私を見ていない。

 だけど、彼が視線を上げた途端の表情は、久しぶりに私を愉快にさせた。

「なッ」
「一人で行かせるなんてこと、できませんから」
「な、何なんだッ、その格好はッ」

 私の服装は、この屋敷に働き始めてすぐの頃に買いなおしたものだ。
 戦闘用のハードレザーとホルスター。そして、母にもらった拳銃。
 あの頃はまだ、この屋敷を出ることばかり考えていたんだと、今更にして思う。

「何処に行くつもりだ?」
「それは、私がお尋ねする言葉です。どこに行かれると言うのですか?」
「それより先に答えてくれッ。君は、何を考えているんだッ」

 貴方について行くことだけを考えています。

「ついて行くことに決めたんです」
「無茶を言うなッ」
「いいえ、本気です。何も、御主人様だけがナーガの者と言うわけではないでしょう。今は、私だって……」

 ハッタリだ。
 しかし、おそらくは一番有効な。

 案の定、ロウ様は心底驚いているようだ。
 多分、燃やした手紙の内容が、ハッタリに近いものだったのだろう。

「な、何を聞いた?」
「長老から。昨晩、長老からずっと前に渡されていた手紙の封を切りました」

 罪悪感はない。
 ここまできたら、どんな嘘を突き通してでも、必ずついて行く。

「今は、私だってナーガの家に仕える者。私にも、御主人様の隣にいる資格はあると思いました。
 たとえ御主人様がお許しにならなくても、私はついて行きます」

 腹は決めた。
 解雇されたなら、私も一人の女性。
 ついて行くのだ。

 マリア=テレジアが、ロウ=ナーガという、一人の男性の旅に。

「足手まといにはなりません」
「わかってる……君を最初に見た時に」
「では、よろしいのですね?」

 ロウ様が無言で頷いた。

 ホッとして、荷物を下におろす。
 正直、今になって背負っていることに気付いたのだけれど。

「……バカみたいだな、俺」
「そうですね、御主人様」
「もう、ずっと一人だと思ってた。両親が死んで、この屋敷を引き継いでから」
「私をこの屋敷に招き入れて下さったのは、他ならぬ御主人様ですよ」
「マリアの言う通りだ」

 少し拍子抜けする。
 もっと、ゴネなければならないかと思っていた。

「私について来てくれるんだな、マリア」
「もちろんです。命を救って下さったその瞬間から、私は貴方について行くと決めたのですから」

 本当は少し違う。
 貴方への気持ちに気付いたのは、やっと昨日のこと。

 でも、有利な誤解は解かないに限る。

「話してくださいますよね」
「そのうちに」
「待ちます」

 いくらでも待ちますよ。
 貴方の傍にいられる限り。

 微笑もうとした途端、ロウ様が私を抱き寄せた。
 呆気にとられている間に、首筋に冷たい感触がついた。

「ちょっ……ロウ様?」

 身体を離そうとすると、逆に腕力で押さえ込まれる。
 重ねていた手が振りほどかれ、ロウ様の手が背中にまわされたのがわかる。

 背中にまわされた想いに応えたい。
 ただそれだけの想いから、ロウ様の背中に手をまわす。

「マリア……」

 キス。
 これまでも何回かしたことはある。
 でも、それは戯れで、遊びで。
 主従関係として。

「ロウ様……」

 何かが違っている気がした。
 そう、これまでのような戯れではない。

 夢に見ていた、王子様からの口付け。
 優しく、蕩かされるような口付け。

 それなのに、ロウ様の方から身体を離す。
 本当、鈍い人。

「マリア、準備はいいのか?」
「はい」

 そうだった。
 今、ここでは時間がないのですね。

「それじゃ……行くか」
「はい」

 食堂に飾ってある鎌が模造品でないことは知っていた。
 その鎌を手にして、ロウ様がこちらを向く。

 冬の寒さを凌ぐために買っていただいた黒のロングコート。
 軽くて暖かく、身体全身を覆う外套のようなロングコート。
 まるで、ロウ様に包まれているような。

「ロウ様」

 準備は整いました。
 さぁ、行きましょう。

「問題ない。行くぞ、マリア」
「はい……ですが、どちらへ?」
「王都・ダンへ」

 何故王都なのかは聞かない。
 貴方が話してくれるだろうから。

 あの一瞬、キスの瞬間の想いを信じています。
 それが、私にとって不毛な愛への入り口だとしても。
 絶望への第一歩だとしても。

 手袋をしない私の手を引いて下さった、貴方の傍にいます。

 

<了>