血塗られた手を引いて
ロウ=ナーガ
1
「……御主人様、どうかなされましたか?」
「いや、何でもないよ」
「そうですか? どうも、お顔の色が思わしくない様ですが」
どうやら、緊張がそのまま表情に出ていたらしい。
マリアが本当に心配そうな表情で、俺の方を見ていた。
「大丈夫だよ。ちょっと、珍しい人からの手紙だったのでね。緊張してしまったようだ」
「そうですか……それでは、失礼致します」
「あぁ。今日はもうゆっくりしてくれ」
無言で頭を下げて退出したマリアの足音が完全に遠ざかってから、俺は手紙の差出人をもう一度確認する。
『メム=ナーガ』
俺自身が受け継いだ、ナーガ家当主の証たるこの名前。
封を切る前から、中身の内容が手にとるようにして解る。
「ついに来たか」
自身の恐怖から逃れる様に、静かに言葉を漏らす。
そうでもしなければ、大声を出してこの手紙を燃やしてしまいそうだから。
封の端を丁寧に爪で切り取り、中身の手紙を滑り出させる。
『Eliezer その鎌を持ちて 己の使命を全うせよ
失われし剣とともに この世界の秩序の中で 己の使命を全うせよ
この世界の混沌の為に
この世界が世界の秩序を保つ為に
神が創りしこの世界を 神の末裔が護る …… 己の使命を全うせよ』
他人が読めば、全く何のことかわからないだろう。
間違ってもたらされたとしても、その真意を測ることができずに焼却してしまうだろう。
だからこそ、この文面。
「どこで見つけてきたのやら」
確かに、俺は貴族の末裔だ。
それも、大昔に没落してしまった、戦前の王家にすら仕えていなかった貴族。
無論、この辺境の地においては何の不自由もない暮らしが保証されてはいる。
だが、それだけだ。兵力を持たず、日々農作業をしたりしているだけ。
この辺境の一地方を統治しているとは言っても、所詮は争いのない辺境だからこその賜物だ。
「それにしても……」
手紙を封の中になおすことも忘れて、部屋に飾ってある家の紋章に目をやる。
一本の鎌と、その周囲に巻き付く布がたなびく紋章。
それが、この家の紋章だ。
2
朝、目が覚めても気分が悪い。
手紙のせいか、悪夢にうなされたようだ。
自分が鎌を振るう姿が、脳裏に焼き付いて離れない。
体調がすこぶる悪いようだ。
いつもは美味しい筈のマリアの朝食に味がしない。
「御主人様、どこか体調でも?」
「いや、何でもない」
「美味しくできたはずなのですが……」
自分でも味を確かめながら首を傾げるマリアに、俺は精一杯の苦笑を見せた。
「味のせいじゃない。昨夜はうなされてね」
「そうですか? お体の具合が悪いのではないのですね」
「あぁ、心配ない」
心配ない、か。
嘘もいいところだ。
本当は怖れている。
この生活を手放しそうな自分に。
「そうだ、マリア。今日は少し行く所があるから、家を留守にする。留守中、何かあったら適当に処理しておいてくれ」
「私が、ですか?」
「あぁ。君は信用出来るからね。それに、村の皆も、君の言うことなら不満は漏らさないだろう」
「わかりました」
実際、最近はマリアに頼りっ放しだ。
村の揉め事は、大体マリアと相談しながら片付けている。
俺にとっては過ぎたる使用人だ。
……そう、マリアがいる。
俺はいなくても、マリアがいる。
村が困ったりはしないだろう。
「……マリア」
声が小さかったのか、やや間が空いてからマリアの通る声が尋ね返してくる。
「はい」
「マリアは、この村が好きか?」
唐突な質問に、マリアは少し面食らいながら答を返してきた。
「はい、好きです」
「そうか」
どう考えても変に思われるだろう。
実際、マリアが心配そうに聞き返してくる。
「本当、どうかなさいましたか? 私でよければ、いつでもお話し下さいませ」
「いや、心配するようなことじゃないよ」
まだ怪訝そうなマリアを残し、席を立つ。
マリアが慌てて見送ろうとするのを手で制して、自室に戻る。
食堂へ行く前に出して置いた外套を羽織り、家紋を模ったネックレスを外套の中に隠す。
「俺は、このままでいたいってわけでもないんだろうな」
3
「手紙が来た」
花を添え終えて、そのまま立ち留まる。
「戦争が終わってから戦争に身を投げ出すってのも、俺らしくていいかなと思ってる」
答えはない。当然だろう。
答える主は当の昔に墓の下にいる。
「時代遅れって言われるのが、好きなだけかも知れないな」
風のざわめきが聞こえる。
「後悔は死んでからするよ。今は、ただひたすらにやってみる」
誰もいないはずの墓地で、俺はかすかに声を聞いた気がした。
『お前を信じている』
くだらない幻かも知れない。
それでも、今の俺には充分な幻聴だった。
「んじゃ、ちょっと行って来るわ」
墓前で手を合わす代わりに、笑いかける。
俺の笑顔を要求して死んでいった、俺の両親に。
帰っては来ないかもしれないという言葉を飲み込んで。
4
「マリア、話がある」
夕食後、片付けをしていたマリアを、俺は食堂に呼びつけた。
エプロンを外し、メイド服姿で座っている俺の正面に立ったマリアを見上げて、俺は話を切り出した。
「マリア、君は今までよくやってくれた」
「……クビ、ですね」
口許が微かに動いた気がするが、それでもマリアは黙って立ち去ろうとした。
慌てて呼び止めると、マリアはもう一度俺の方を向いてくれた。
「クビじゃない。最後まで話を聞いて欲しい」
「……わかりました」
マリアの手を見るのが怖かった。
ギュッと握り締められたその手は、張り詰めているマリアそのものだ。
そんな彼女を、俺は直視できないでいた。
「マリア、君は本当に今までよくやってくれた。使用人として、もったいないくらい働いてくれた」
「ありがとうございます」
「だが、それは今日限りにして欲しい」
「……今まで、ありがとうございました」
「そういう意味ではない。私が君の雇い主なのは、今日限りってことになる」
「……どういうことですか?」
言葉が喉に詰まるのを何とか堪えて、深く深呼吸をする。
その間も、マリアはじっとこちらの返答を待っていた。
「私は明日、この屋敷を手放すことにした」
「えッ」
「簡単に言えば、この屋敷が必要でなくなったってことさ」
「ど、どういうことですッ?」
マリアの瞳が驚きで見開かれるのを目の端に捕らえて、俺は話を続ける。
「行かなくてはならないところができたんだ。ここにいることができなくなった」
「急な話ですが……それでは、早速荷物の片付けを」
「いや、それはいい。引っ越すわけではないんだ」
「どういうわけです?」
「理由は言えない。だが、君を連れて行くことはできないんだ」
「納得できませんッ! クビではない、連れていくことはできない。そんな話が通じると思っているのですかッ」
マリアの言うことはもっともだ。
俺自身、無茶な話だって思ってる。
だが、ここから先は決して巻き込んではいけない。
ナーガの家の者でもない彼女を、付き合わせてはならない。
「通じるとは思っていない。しかし、この家を君に譲りたいと思っている」
「全くもって理解できませんッ」
「一日、考えて欲しい。明日の朝、返事を聞かせてくれないか」
「御主人様ッ」
逃げる様にして席を立つ。
実際、彼女が逆上してくれていなかったら、そうなっていたのは俺だ。
彼女が感情を表に出してくれた分、俺は冷静でいられた。
「御主人様ッ、明日、もう一度説明していただきますからッ」
マリアの怒声に追いかけられながら、俺は自室に入った。
ベッドの上に横になると、改めて先程の会話が思い出される。
考えてみれば、突飛で唐突で、何のことかさっぱりわからない。
マリアにしてみれば、いきなり雇い主に解雇を言い渡された気持ちだろう。
なのに、雇い主はクビではないと言い張る。
そうかと思えば、雇い主は屋敷の外に出て行ってしまう。
彼女が感情を露わにするのも無理はない。
「……そう言えば、マリアのあんな姿、初めて見たな」
そう呟いてから思い出す。
マリアが一度だけあのような姿を俺に見せていたことを。
5
「……気がついたか?」
俺の呼びかけに、額や体のあちこちに包帯を巻かれた彼女は、パッと跳ね起きようとして悲鳴を上げた。
「ッゥ!」
「無茶だな。生きるか死ぬかのギリギリの瀬戸際だったんだ。一週間は身体を動かすこともままならないだろう」
何かを言ったように見えたが、全然聞こえなかった。
口許に耳を寄せると、彼女の精一杯の声が聞こえてくる。
「ここは、何処だ?」
「私の家だ」
「そうじゃない。此処は、何処なんだ?」
「辺境の片田舎だよ」
そこまで言って、俺は耳を離した。
部屋の扉をノックする音が聞こえたからだった。
部屋に入って来た村の女性を迎え入れ、その後ろで待っていた村の長老の方に歩み寄る。
「どうだ?」
「はい。追っ手らしき人物はおりませんでした。しかし、本当に保護なさるおつもりですか?」
「放ってはおけないだろう」
「ですが、戦争に敗れた女兵士ということも考えられます。厄介事になるかもしれませんぞ」
「だが、放っておいて死なすわけにもいかない。それに、この辺境で戦いが行われた事実はない」
「ですが……」
長老の反論を手で抑え、俺は彼女に目をやった。
「俺の我侭だ。たまには聞いてくれてもいいだろう」
「……ロウ殿がそう仰るのなら。ですが、くれぐれも御用心下さい。あの女、拳銃を持っておりました」
拳銃なんてものは、この辺境では実際に目にした者すら少ない。
俺の他にはこの長老と、町から引っ越して来た者くらいだろう。
拳銃という機械の申し子は、剣と魔法と機械の世界とは言え、まだまだ貴重な物なのだ。
「わかっているよ。だが、彼女に刻まれた傷を見ているとな……彼女が悪い人間という気がしない」
「確かに、何かを庇って受けたような傷でしたな」
「あぁ。背中側にしかない傷というのも、気になる」
「わかりました。村の者には、引き続き警戒を怠らぬように指示をしておきます」
「頼む」
村の女性が彼女の用を済ませるのを待って、俺は長老と女性を送り出した。
部屋に戻ると、彼女はこちらの方を向いていた。
「……助けてくれたそうですね」
水を飲んだからだろうか。
彼女の声は先程よりもずっと聴き取り易くなっていた。
「傷だらけになって、村の森の中に倒れていた。あのままでは助からないと思い、ここに運んだんだ」
「……余計なことを」
「この村の責任者として、あんな所で死なれては困るんでね」
包帯を替えて、彼女の鋭い視線が直に見れるようになっていた。
その鋭い視線を受けながら、俺はとうの昔に死んでいった両親の視線に似ていると感じていた。
「何故、アタシを助けた」
「死にそうになっている人を助けるのは、人として当然だと思うが」
「誰が助けて欲しいと頼んだッ」
そう叫んで、彼女は咳き込んだ。
無理もない。まだ叫ぶことなんてできない身体なのだから。
水差しを口許に運んでやると、彼女は拒否する姿勢を見せた。
それでも、そのまま運んだままにしておく。
「水くらいは飲んでおいた方がいい。まだ、自分では飲めないだろう?」
俺の言葉のせいかはわからないが、彼女がようやく口を開く。
ゆっくりと水差しを傾けて、彼女の喉が鳴ると同時に水差しの角度を戻す。
「……貴様の名前は?」
「ロウ=ナーガ。君は?」
「テレジア」
「テレジアさんか。残念だけど、君の側には誰もいなかった」
最初、俺の言葉の意味がわからなかったのだろう。
彼女は驚いたように目を見開くと、しばらく逡巡した後、ようやく口を開いた。
「貴様、何を知っている」
「君の傷は背中側にしかなかった。腹側の傷は倒れた時にでもついたんだろう、擦り傷しかなかった」
「……見たのか?」
彼女に頬を染められると、何故か大変悪いことをしたような錯覚に陥ってしまう。
「仕方なかったんだ。その、傷の具合を見ないといけなかったから……」
「もういいッ。思い出すなッ」
俺の頬も赤くなっていたんだろう。
俺を見ていた彼女の視線が、目標を失ったかのように泳ぎ出す。
「お、思い出していたわけじゃない」
「もういいって言っているッ」
「そ、そう……その、だから、君しかいなかったんだ」
何とか話を元に戻すと、彼女の瞳から涙が零れだした。
「……一人にしてくれないか」
「あぁ。何かあったら呼んでくれ」
6
……後にも先にも、マリアが見せた激しい感情はこの二回だけだ。
彼女を見つけた時と、昨晩の夕食後。
彼女は自分の過去を俺に話してくれた時でさえ、落ち着いた口調で話してくれた。
彼女が何処で生まれたか。彼女が何処で戦ったか。彼女が守ろうとしたものが何だったのか。
その全ては、俺にとってどうでもよかった。
彼女が笑顔を見せた時、俺は彼女を救ったことが間違いじゃないと思えたから。
それくらい、いい笑顔だった。
「朝、か」
どうやら、一睡もできなかったらしい。
身体が重く感じられ、このまま眠りにつきたいと言う欲求が頭をもたげてくる。
だが、それは絶対にしてはならない。
この家を出ると決めた瞬間から、俺は甘い考えを捨てなければならない。
旅支度を整え、食堂に向かう。
そこで待っている筈のマリアに別れを告げる為に。
「おはよう、マリア」
「おはようございます、御主人様」
……どうやら、マリアは俺のことを引き止めるつもりらしい。
そうでもなきゃ、理不尽なことを言いまくった俺を『御主人様』とは呼んでくれないだろう。
だが、その俺の思いはマリアを見た瞬間に裏切られた。
「なッ」
絶句した俺に、マリアが微笑みかけてくる。
「一人で行かせるなんてこと、できませんから」
「な、何なんだッ、その格好はッ」
マリアの服装は、彼女と初めて会った時の服装。
黒を主体にした戦闘用のハードレザーで身を纏い、そのハードレザーに巻き付くのは弾丸の束。
更には腰に装着されたホルスターと……拳銃。
「何処に行くつもりだ?」
「それは、私がお尋ねする言葉です。どこに行かれると言うのですか?」
「それより先に答えてくれッ。君は、何を考えているんだッ」
昨夜とは立場が逆だ。
頭がこんがらがっているのが俺で、冷静なのがマリア。
「ついて行くことに決めたんです」
「無茶を言うなッ」
「いいえ、本気です。何も、御主人様だけがナーガの者と言うわけではないでしょう。今は、私だって……」
手紙は燃やしたはずだ。
そう、確かに燃やした。
マリアが手紙のことを知るのは不可能だ。
「な、何を聞いた?」
「長老から。昨晩、長老からずっと前に渡されていた手紙の封を切りました」
……何も言えなかった。
「今は、私だってナーガの家に仕える者。私にも、御主人様の隣にいる資格はあると思いました。
たとえ御主人様がお許しにならなくても、私はついて行きます」
体中の力が抜けていくようだ。
「足手まといにはなりません」
「わかってる……君を最初に見た時に」
「では、よろしいのですね?」
無言で頷く。
マリアが安堵の息を漏らすと同時に、背負っていたバッグを下におろした。
「……バカみたいだな、俺」
「そうですね、御主人様」
「もう、ずっと一人だと思ってた。両親が死んで、この屋敷を引き継いでから」
「私をこの屋敷に招き入れて下さったのは、他ならぬ御主人様ですよ」
「マリアの言う通りだ」
本当、マリアの言う通りだ。
何を一人で背負う気だったんだろう。
いや、身勝手にもこの村をマリアに押し付けて、逃げ出すつもりだったのかも知れない。
「私について来てくれるんだな、マリア」
「もちろんです。命を救って下さったその瞬間から、私は貴方について行くと決めたのですから」
マリアの微笑が、俺の手をマリアへと導いていく。
導いた俺の手にその白い手を重ねて、マリアが俺を見上げてくる。
「話してくださいますよね」
「そのうちに」
「待ちます」
我慢の限界だ。
俺はマリアを抱き寄せると、その首筋に唇を這わせた。
微かな抵抗の動きと声を上げ、マリアがそれに応えてくる。
マリアの抵抗が心地よく、俺は重ねられていた手を振りほどき、マリアの背中へと腕をまわす。
マリアがおずおずと俺の背中に腕をまわしてくれた瞬間を待って、マリアの顔を上げさせる。
綴じられた双瞼から、長い睫がのぞいている。
壊したくないその景色を、俺は自分の意志で崩していく。
「マリア……」
躊躇はしない。戸惑いもしない。
唇を奪う。
行為自体は既に経験済みだ。
でも、この口付けは今までの口付けとは違う。
少なくとも、俺の中では。
彼女を愛しく想うだけじゃない。
彼女を護るだけじゃない。
俺が彼女と生きていく為の証としてのキス。
「ロウ様……」
身体を離した俺を、マリアがしっかりと見つめてくる。
「マリア、準備はいいのか?」
「はい」
「それじゃ……行くか」
「はい」
俺の最後の荷物。
食堂に飾ってある大鎌を手にし、マリアの方を振り返る。
マリアは、俺が買ってやった黒のロングコートで身を包んでいた。
ハードレザーとホルスターは、その下に隠れている。
我ながら、なんと奇妙な偶然だろう。
まるで、こうなることを予期していたかのようだ。
「ロウ様?」
少し感慨に耽っていた俺を、マリアの声が呼び戻す。
「問題ない。行くぞ、マリア」
「はい……ですが、どちらへ?」
「王都・ダンへ」
王都・ダン。
現在の王都。
そして、全ての始まりと終焉を示す都市。
俺達の旅は、こうして始まった。
<了>