七夕緊急特別企画

真昼の月


「それじゃ、お借りしますね」

 特定の人物に言ったわけではないので、返事がなくてもかまわない。
 それでもわずかに躊躇する仕草を見せておいて、私は目的の鍵を職員室から借りることに成功した。

 屋上に続く扉に貼られた立ち入り禁止という貼り紙は、かなり色褪せてしまっていて何の迫力もなくなっている。
 人通りの途絶えやすいこの時間なら、誰に見咎められることなく目的を達成できる。

「あら、先客かしら」

 手応えに乏しいドアノブをまわして、屋上へ足を踏み入れる。
 オートロックではない旧式の扉を音も立てずに閉めて、私は先客の姿を探した。

「よぉ、不良生徒」

 かけられた言葉に、私は小さくため息をついた。
 この男ならば、取り立てて問題にはしないだろう。

「エセ教師が」

 周囲の建物からも死角になる唯一の校舎の屋上で、その教師はタバコの煙をふかせていた。
 私の教科担当でもあるこの教師のことを、私たちはエセ教師と呼んでいた。

「放送は」

「私の担当は木曜日だけよ」

「何で」

「この七月から、一年生にも曜日を任せることにしたの」

「なるほど」

 学校のお昼の放送は、この高校では放送部のメインだ。
 各曜日の担当者がそれぞれの色を前面に押し出して、ラジオ放送ばりの番組に仕立てていく。
 入部したての一年生が、二ヶ月の下準備の期間を終えて、ようやく本格始動を始めたのだ。

「あっさりと曜日を譲ったもんだな」

「これが目的だもの」

 昨年、入学したてで放送部の立て直しに奔走した時には、毎日の放送を受け持っていた。
 一学期、二学期と徐々に足場を確立させて、三学期には教師側の信頼も手に入れた。

「姉貴にそっくりだよ」

「冗談は言わないで。私に母ほどのパワーはないわ」

 この高校の根底を覆した、伝説の女生徒。
 一年生で生徒会に立候補して、まさに正攻法で正面突破を続けまくった異端児。
 母を知る古参の教師は、口を揃えて昔は楽しかったと言う。

「お前は静かな分、やり方が上手い」

「多少の信頼があれば、この場所は手に入ると予測したの」

 母が好んだ、校舎の屋上。
 楽しそうに高校時代を語る母に影響されて、私はこの場所に立ってみたかったのだ。

 そのために放送部を建て直し、教師の信頼を得た。
 目立ち過ぎないように、成績も上位をキープして、適度な真面目ぶりを発揮した。
 級友とも適度に距離を置き、昼休みに一人でいることが不自然でないように環境を整えた。

「姉貴にはできない芸当だ」

「でしょうね。母なら、正面突破しか知らないから」

 その正面突破ですべてをクリアーするだろう。
 私にはそれほどのパワーもなければ、度胸もない。

「俺から見たら、お前も十分、王道だよ」

 人の虚を突くのではなく、人の影を踏む。
 それが私の到達した結論だ。

『本日最初の曲は、受験に疲れた受験生さんのリクエストです』

 最初はサクラでもいい。
 PNを使って、生徒の興味を引くことだ。

「……随分と仕込んだな」

「王道でしょ」

 流れ始めた曲に、校舎内から反応が現れる。
 少し昔のヒットナンバーは、効果覿面だ。

「懐メロでもなく、新し過ぎず」

「それでいて、誰もが聞いたことのある曲よ」

 そうでなければ、リスナーの心はつかめない。
 昼放送が定着するためには、定番でありながらもどこかで崩すことが必要なのだ。

 だが、今の彼女たちは定番を築く段階だ。
 今日の放送では奇抜なものに走らないように釘を刺してある。

「弁当、食うんだろ」

「えぇ」

「シートなら、そこにあるぜ」

 扉の影に、小さな犬小屋のようなものがあり、その中にシートが入っていた。
 用意がいいと言うべきか、それとも寝ころがるためにでも置いてあるのか。

「毎週、洗ってるから」

「毎週、どこかで見るシートだわ」

「そらそうだ」

 ありがたくシートを借りて、私は革靴を脱いだ。
 窮屈な制服の胸元を緩めて、素肌に風を当てる。

「鏡はないぞ」

「今時の女子高生なら、手鏡は必須よ」

「そらそうだ」

 エセ教師が、新しいタバコに火をつけた。

「風、考えて」

「風下だ」

 距離からいって、タバコの臭いが服につくことはないだろう。

「気をつけてよ」

「お前の制服から臭ってきても、誰も疑わんだろう」

「担任が気付くわ」

「そのときは、俺と一緒にいたと言えばいい」

「貴方がそれでいいのならね」

 昼食を食べ始めると、確かに風が心地よい。
 青空の下で食べる昼食は、屋根の下で級友に囲まれて食べる昼食とは違った感覚を与えてくれる。

「……母には必要な環境だったのね」

 常にフルパワーで動くための、わずかな充電時間。
 そして、アイデアを枯渇させないための沈黙の時間。

「お前にも必要なのか」

「頻繁に欲するほどではないわ」

 毎日ここに来ることを望む必要はないだろう。
 リスクとリターンを考えれば、週に一度程度で十分だ。

「放送室で無茶をしていたほうが楽しいかもね」

 私がそう付け加えると、男は喉の奥で笑った。
 怪訝そうに見つめると、男がタバコをもみ消した。

「お前は姉貴の娘だよ」

「そう言われるのは、好きではないわ」

「いつか、急にいなくなるんだろうな」

 食べ終えた弁当箱をしまい、私は荷物を置いたままエセ教師の隣に並んだ。
 策に身体を預けると、予想以上に地面が遠い。

「不吉なことを言わないでよ」

「すまん」

 高校入学が決まった私を置いて、母は突然蒸発した。

 あわてて行方を捜してみれば、海外に単身赴任していた父のところへ行っただけだったけれど。
 周囲に何の相談もなしに、私にも無断で。
 見かねた祖母が高校からも近いということで家へ招いてくれたからよかったものの、本当にあの時は恐ろしかった。

「情けないけど、泣いたわ」

「誰だって泣くだろう」

 その母の血が流れているこの身体は忌まわしくもあり、どこかでその血に期待してしまう自分が嫌でもある。
 そんな年頃の葛藤を見透かしたかのように、この男は私の感情がささくれ立つたびに、そばで下らない話をしてくる。

「そろそろ時間だな」

 昼放送が終わり、後輩の安堵の声が流れる。
 その初々しさが、後輩たちの武器だ。

「そろそろ戻ったらどうだ」

「貴方は、どうするの」

「次の時間は空き時間なんでな。のんびりするさ」

「エセ教師。仕事しなさいよ」

「エセ教師ですから」

 荷物を手にして、私は鍵を叔父に投げ渡した。
 軽い仕草で受け取った叔父は、私を見て笑った。

「完璧だな」

「当然でしょ」

 制服の乱れは整えた。
 風でなびいた髪も、自然な程度にまとめなおした。
 嫌になるけれど、私は母の娘なのだ。

「真昼」

「何よ」

「月が出てるぜ」

「え」

 指をさされた方向を振り向いて、私は白い月を見つけた。

「綺麗ね」

「疲れたら、休んでもいいんだ」

「何よ、それ。いい話のつもりなの」

「ま、少しは人を頼れってこと」

「叔父さんが頼りになることなんて、あったかしら」

 そう言い返して、私は扉に手をかけた。

 ここから先は、屋上ではない。
 真昼の月に見送られながら、私は校舎の中に戻った。

<了>