夜船


「ほら、早く行くわよ」

「ちょ、ちょっと待ってよ」

「グズグズしない。アンタが誘ったんじゃないの」

「そうだけど、あの、ちょっと待って」

 あわてて落としてしまった切符を大急ぎで拾って、少し背伸びした男の子が女の子を追いかけていく。

 少しだけ歩調を緩めて先を歩く女の子は、さすがにばっちりと服を着こなしている。

 おそらくはここぞというときのお出かけ用の衣装と化粧は、女の私の視線さえ奪ってしまうほど。

 それに比べてようやく女の子に追いついた男の子は、まだまだ服に着られている印象だ。

 キラリと反射する胸元のネックレスも、どこか似合わない印象を受けてしまう。

「ほら、どっちなのよ」

「えっと、あぁ」

「しっかりしてよね」

 右と左に分かれる歩道橋の中央で腰に手を当てている女の子は、ようやく年相応に見えた。

 人の流れを読めないほどの子なのだろうか。

 それとも。

「こっちだよ」

 男の子が自信を持って断言すると、女の子の腕がわずかに上がった。

 指先に力が入っているところを見るなんて、私はおばさんなのかしら。

「あ、こら、おいてくな」

 残念ね。

 女の子が求めていた手は、これから進む方向を指してしまっているわ。

 いつの世代も、男の子は女の子に気付かないものなのよね。

「あ、ごめん」

「ちょっと、急に止まらないでよ」

 わざとぶつかっていけるほどには、女の子と男の子の距離は近いみたい。

 女の子が伸ばしていた腕に気付いていなくても、男の子が女の子に触れてしまうくらいに。

 そして、身体を硬くした女の子とは対照的に、何事もなかったかのように顔をのぞく男の子。

「大丈夫だった」

「平気。ただ、気をつけなさいよ」

「ごめん」

 並んで歩く男の子は、ほんの少し女の子の前を歩いていた。

 ようやく普段着の男の子に戻れたのかしらね。

「よぅ、お待たせ」

「遅い」

「乗り遅れた。でも、時間通りだろ」

「……そのようね」

 時計を見て、男の言葉に肯いてやる。

 仕方ないだろう、私は女の子ではないのだから。

「悪いね、誘っちゃって」

「別に。暇だったから」

「それじゃ、いきますか」

「えぇ」

 女の子と男の子を追うように、私たちは並んで歩き出した。

 ただし、私は決して男の後ろは歩かない。

 そして男も私の後ろを歩かない。

 互いに前を譲る気もないのだ。

「ちょっと、大丈夫なのよね」

「大丈夫だよ」

 女の子が小声で男の子に確認している。

 確認したくもなるでしょうね。

 女の子の周りにいるのは大人たち。

 さすがの女の子も若さが目立ってしまうほどなのよね。

「学割もあるし」

「いや、そういう意味じゃなくて」

 男の子の的を外した返事に、女の子は手を上げようとしていた。

 けれど周りの状況に思いを巡らせ、男の子の背中をつまむことにしたみたい。

 かわいいけれど、男の子が少し可哀相かもね。

「まわり、見えてるの」

「見えてるよ。間違いないって」

「いや、あのね」

「心配ないって。どうせ誰も見てないよ」

 あらあら、腹の据わった男の子だこと。

 お姉さんはかわいいと思っちゃうわよ。

「もぅ、アンタのせいだからね」

 少しきつめに捨て台詞を吐いた女の子の肩から力が抜けた。

 案外、いいコンビじゃないのかしらね。

 受付を済ます男の子は、やっぱり少し緊張していて、そんなところもかわいいぞ。

 男の子を待つ女の子も、最初の落ち着きを取り戻していて背景を従えている。

 随分といい女の子じゃないの、男の子。

「乗船名簿なんて書くのかよ」

「さっさと書きなさい」

 男の子の下に自分の名前を書く男は、まるで初々しさがない。

 それでいて字の汚さは男の子に勝るとも劣らない。

「前の子、字が綺麗だな」

「貴方が下手なのよ」

「それを言ったらおしまいさ」

「おわっときなさい」

 足元がかすかに揺れた。

 改めて陸の上にいないのだと気付く。

「支えようか」

「……そうね」

 男の差し出した腕に手を添えて、私は少し薄暗い甲板を歩いていく。

 すでにテーブルは決められていて、船員に案内された場所は絶好のロケーション。

 湖の風が届き、ホテルの給仕の待機場所にも程近く、私からはステージも男の背後に見える位置。

 しいて言えば、女の子と男の子を見失ってしまったことくらい。

「白ワインよりスパークリングワインがいいかな」

「軽めでいいわ」

 男が食前酒を注文している間に、私の視線は女の子を捜していた。

 着飾った女たちの中で、あの女の子はきっと輝いて見えるはずだから。

「右後方」

 私の視線を追った男が、そう教えてくれた。

 もっとも、男が女の子を追ったとは確信が持てないけれど。

「何のこと」

「何となく」

 そう言って視線を外した男には遠慮せず、右後方を振り返る。

 給仕からグラスに水を注がれている二人は、少し嬉しそうに手すりの外を眺めていた。

「ねぇ、あの辺かな」

「もう少し奥だから見えないんじゃないの」

「初めて乗るけど、結構高いんだね」

「これだけの大きさだもの」

 風に乗って聞こえてくるなんて、何ていう都合のいい偶然。

 無意識のうちに風でも操れるのかしらね、私は。

「コース料理なんて、食べたことないわよ」

「でも、デザートは食べ放題だって」

「あのね、何回も往復なんてできるわけないじゃない」

「どうせ、誰も見てないよ。何なら、取りに行くから」

「一緒に行く」

 それがいいと思うわよ、お姉さんも。

 本当にかわいい会話だこと。

「さて、そろそろこっちを向いてもらえるかな」

「義理はない」

「乾杯ぐらいはしませんか」

 いつの間にか、ボトルが置いてあった。

「ボトルなんて飲めないわよ」

「スパークリングのハーフなら、十分に飲めるさ」

「酒に酔わせて何をしようと」

「セイレーンは酒に弱いらしいので」

「誰がセイレーンよ」

 男とグラスを合わせて、軽くグラスを傾ける。

 喉越しにごまかされそうになるけれど、これはアルコールだ。

「前菜でございます」

「いただきます」

「意外としっかりしているのね」

 ほら、こうして場に流されてしまう私がいる。

 どうして貴方は、そんなふうに私の時間を動かしてしまうのかしら。

「ねぇ、これって何かな」

「知らないわよ。食べられればいいじゃない」

 男の子と女の子の会話を餌に、貴方を釣ってみてもいいかしら。

 そんなことを考える余裕くらい、女の私にはあるはずだから。

「ねぇ、これって何かしら」

「ウドだろ。ちょっと癖が強いけど」

 面白くないわ。

 何も答えを期待しているわけじゃない。

 本当に男は、男の子にはかなわない。

「……もう少し酒が入るまで待ってくれよ」

「あら、免罪符がないと話せないのかしら」

「勇気がいるんだよ。夜景と海と好きな女を相手にするには」

 わかったわ。少しだけなら待ってあげる。

 いつもより素直な、貴方に免じてね。

 

<了>