七夕特別企画

いと


 高校生活最後の夏。

 クラスの中には、アルバイトして溜めたお金で海へ繰り出す連中も多い。
 その中の半分ほどは、女の子連れだという話も聞く。

「暑いねぇ」

 だけど、残りの半分は必死になって受験戦争を戦っている。
 それが公立高校の現状だ。

 戦っているほうに入りたい俺は、今日も誰もいない図書室に入る。
 クーラーのスイッチを入れて、夏休み中の指定席にもなっている席へ向かう。

 窓際でもなく、入り口が気になる位置でもない。
 クーラーの風の具合が、非常に心地よい場所だ。

「さて、やるか」

 夏休みの学校はチャイムが切ってあるから、非常に勉強しやすい環境にある。
 セミの声も、窓を閉め切れば気にならないし、何よりクーラーがあることが大きい。

「ふぅ」

 家にクーラーがないわけではないが、親の目がある場所での勉強はやり辛い。
 かと言って、家庭教師を付けてもらいながら塾の夏期講習にもというのは気が引けた。

 学校で勉強すれば、学校の先生をタダで捕まえることもできる。
 家庭教師の先生が言ってたことだが、学校の先生はタダで使ってこそ意味がある。
 大体、学校の先生になるくらいの人だから、基本的には教えたがりらしいし。

 ペンを走らせていくと、周囲の雑音は気にならなくなる。
 集中できている証拠だ。

 センター問題の過去問を最後まで解ききって時計を見ると、予定よりも十五分ほど早い。
 微妙な読み飛ばしがあるかもしれないので、解答欄を拾いながら確かめていく。

「お、やってるね」

 独り言にしてはやや大きく、呼びかけているにはやや小さい。
 この夏休みの一週間で聞き慣れた、司書の先生の声だ。

「相変わらず、クーラーは一つしかつけてないのね」

 聞き耳を立てていたわけではないが、集中が途切れた。
 それをいいことに、俺はペンを置いた。

 先生が近寄ってきて、俺の手許をのぞきこむ。

「また、センターの過去問か」

「ペース的に、二週間で一年分をしろってことなんで」

「やりっぱなしにしちゃ、ダメよ」

「だから、こうして学校に来てるじゃないですか」

「まぁ、わかんないところがあったら聞きにおいで。あたし、そこの控え室にいるからさ」

「はい」

 藤野先生はそう言うと、書庫のクーラーを点けてから控え室に入っていった。

「さて、答え合わせ」

 ……出来自体は悪くない。

 いつもと変わらない点数だし、理解できないところも少ない。
 後は間違えた所を先生に確認して、自分の解釈が間違ってないかを確かめるだけだ。

 まぁ、別の教科を解いてからにしても、時間は大丈夫だろう。
 時計を確かめると、先生が昼食に出掛ける時間までには二時間ほどある。

 俺は再び問題集を開くと、今度は生物の問題を解き始めた。

 

 

「おぅ……いい感じ」

 生物のほうは上出来だった。
 本番でもこれぐらいの点が取れれば文句はないだろう。

「さて、行くか」

 英語の解答と問題集を持って、先生のいる控え室のドアを叩く。
 人の来ない図書室にどんな仕事があるのか知らないけど、先生はいつも控え室にいる。

「どうぞぉ」

「質問、いいですか」

「はいはい。何かな、今日は」

「英語の長文なんですけど」

「オッケェ。遠慮しなくても、あたし、英語の先生だよ」

「でも、現役離れてウン十年でしょ」

「あ、ひどい。そんなに歳じゃないよ」

「冗談ですよ、冗談」

 問題集を渡して、用意しておいたコピーに先生の解説を書きこむ。
 ここ一週間で学んだ、最良のやり方だ。

 

「で、ここの連語が意味するところは    

「なるほど。あ、じゃ、これが先行詞になるのか」

「そういうこと。だから、ここの質問文が何を聞いてるかの答えは、この一文になるわけ」

 文法の解釈が違っていたのか。
 さすがに英語の先生の解説はわかり易い。

 しかも、マンツーマンだし。

 

「……と、こんなもんかな」

「はい、ありがとうございました」

 先生から問題集を受け取って、大きく息をつく。
 さすがに緊張するんだよな、先生とのマンツーマンって。

「疲れたみたいね」

 そんな俺を笑って、先生がホワイトボードの説明を消していく。

「緊張するって、先生の前じゃ」

「夏休みになって毎日じゃない。緊張するも何も、もう慣れたでしょう」

 そう言って笑いながら、先生が俺の隣に立つ。

「それとも、何か別の意味があるとか」

 反則だろ。
 そんな風に顔を寄せるなんて。

「いや、その」

 思わず生唾を飲み込んでしまう。
 自分でも顔が赤くなっているのがわかる。

「ふふっ、正直だね、楠木君は」

「慣れてないし」

「ダメだぞ、そういうことも勉強しておかないと」

「先生の言葉じゃないでしょ」

「まぁね。でも、真実よ」

 十分に俺をからかって、先生が離れる。
 仄かに香ってきた香水が、逆に俺を落ち着かせてくれた。

「でも、安心したな。あたしもまだまだ若い、うん」

「純情な生徒で確認しないで下さい」

 そう言った俺に、先生はニコリと笑ってきた。
 控え室のドアを開けて、俺に待つように告げて。

「帰らないで待ってなさい」

 そう言って、先生は図書室を出て行った。

 時計を見れば、十二時半。
 ボチボチ、お腹も空いてくる時間だ。

「待ってなさいって言われてもな」

 午後まで勉強する気はなかったから、弁当は持って来てない。
 夏休み中は購買も開いてないから、食事は校外まで買いに行かなくてはならない。

「仕方ない」

 受付のイスに座って、夏休み中も変わらず取り替えられている新聞を広げる。
 一応は朝に読んできたけれど、別の新聞を読むのも、たまにはいい。

 新聞を読み始めてしばらくしないうちに、先生が帰ってきた。

「あら、新聞も読むんだ」

「まぁ、一面くらいは」

「関心関心。それが英字新聞だと、先生は感激しちゃうな」

「無理言わないで下さい」

「まぁ、理系だもんね。君は」

 そう言いながら、先生は持っていた二つの包みのうち、一つを俺の目の前に置いた。
 小首を傾げる俺に、先生はいつものように笑いかけてくる。

「お弁当。お手製だぞ」

「え……俺に」

「女の子の手作りお弁当なんて、初めてでしょ。心して味わいなさいよ」

 一方的にまくし立てて、先生が受付の中に入ってくる。
 更に奥の控え室の扉を開けて、俺に向かって手招きしてきた。

「ほら、一緒に食べよ」

「は、はい」

 呆気にとられながら、新聞をしまって包みを持って控え室に入る。
 控え室の中にはカセットコンロがあって、さっきは気付かなかったけれど、薬缶にお茶が入っていた。

「冷蔵庫で冷えたお茶ってわけにはいかないけどね」

「いただきます」

 遠慮しても仕方ない。
 第一、他人の手作り弁当なんて初めてだ。

 心を決めて包みを開いた俺の目に、古風な竹皮で包まれた握り飯と小さなタッパが入ってくる。

「久しぶりに作ったから、味の保障はなし」

「まったく作れないと思ってたし」

「まぁ、毎日作るのは面倒だしねぇ。学校には業者さんがお弁当を入れてくれるし」

 確かに形は大きいけれど、しっかりと俵型のおにぎりだ。
 タッパには肉団子と餃子、ポテトサラダが入っていた。

「美味しい」

「そ……よかった」

 ほんの少しだけ、先生の頬が赤くなった気がした。

「まぁ、あたしも明日から田舎帰るし。今までの頑張りと、これからも頑張れって意味でね」

「帰省ですか。まだ、お盆には早くないですか」

「有給使ってね。一週間くらい帰るつもりなのよ」

「じゃあ、明日から来るのやめようかな」

「頑張りなさいって。明日から、須藤先生だから」

 須藤先生は、俺の担任の数学教師だ。
 確かに明日からも教えてもらえるだろう。

「先生に会いに来てるのに」

「無駄無駄。もう新幹線のチケットは買ってあるの」

「結構遠いんですか」

「岡山だから、車でも行けるんだけどね。たまには新幹線で帰ってみようかなって」

「それじゃ、お土産はきびだんごですね」

「言うわねぇ。まぁ、図書室の控え室に置いてあるのをつまむぐらいは許しましょ」

 先生よりも先に食べ終わって、薬缶からお茶を注ぐ。
 俺は紙コップだったけど、先生は自前のカップだ。

「ありがとう」

「弁当、ありがとうございました」

「頑張りなさい、受験生」

「頑張るしかないですよ、ここまでされちゃ」

 実際、これで失敗したら男が廃る。
 そりゃ、思春期の気の迷いかもしれないけどさ。

「結果だそうね、楠木君」

「はい」

 二人きりの図書室の控え室。

 クーラーの利いた部屋。

 

 そんな夏の日の一コマ。

 

<了>