七夕特別緊急企画

熱くクールにその先へ


「はい、では、ここまで。号令お願いします」

「起立、礼。ありがとうございました」

 さぁ、四時間目が終わった。

 ここからの数秒間が、一日の中で最も迅速であることを求められる瞬間だ。

 すぐに自分の席に戻って、カバンの中身を開く。

「よし、今日は勝った」

 机の上には、菓子パンが三つ。

 ペットボトルに入ったお茶も用意した。

 これで、今日こそ敵は撃退できた筈だ。

「ふむ。よく食べるのだな」

「おい、よく見ろよ」

「だから、普通の人には二人分を食べるつもりなのだろう」

「いや、だから、おかしいだろうが」

 そんな俺の言い分も聞かず、なびきが青いチェック柄のナフキンに包まれた弁当箱を置く。

 ここ二週間、毎日繰り返されている光景だった。

「いくら食い盛りでも、これだけ食えるかよ」

「ふむ。確かに、食べ過ぎの感は否めないな」

「だから、ここからこっちは俺ので、こっからそっちのはお前のだろうが」

 そう言って、俺は自分の机の手前側を指で線引く。

 菓子パン三つも食って、普通の弁当が食えるか。

 それ以前に、女に手渡された弁当なんて食えるか。

「ふむ。この教室では自分の席で食べるのが決まりだが、直也は私にそれを犯せというのだな」

「どうしてそうなる」

「ここからこっちは私のものなのだろう」

 そう言って、なびきが俺の指がなぞった線を正確になぞりなおす。

 気のせいか、周囲から忍び笑いが聞こえてくる。

「いや、だから、机は俺のだって」

「ふむ。では、食べ終わったら、ナフキンに包んで返してくれればいい」

「いや、おい。ちょっと」

 心なしか勝利の笑みみたいなものを見せて、なびきがあいつの席へと戻っていく。

 机に手をついて立ち上がろうとした俺を制するように、担任が両手を叩いた。

「空条と田原の漫才が終わったところで食うぞ。号令係ぃ」

「合掌。いただきます」

「いただきます」

「ちょっと待て、異議ありッ」

 今流行の裁判所風に叫んでみたところで、結果はいつもと変わらない。

「うるさい。ありがたく食えッ」

 後頭部からの一撃。

 やった奴はわかってる。

 俺の隣に座っている、俺の親友だ。

「痛ーよッ」

「お前な、女の子の手作り弁当だぞ。文句言わずに食えよ」

 あぁ、食ってやるさ。

 ここが教室でなくて、なびきが彼女だったらな。

 なびきはただのご近所さんで、母さん同士の仲がいいだけだ。

 母さんが入院したから、それで気を使ってくれてるわけなんだが。

「そうだぞ。先生なんか、もう何年も他人の手作り弁当なんて食ってないんだぞ」

「先生、それ、言ったほうが悲しいですから」

「あ、やっぱり」

 いや、その、場が少し落ち着いたのはかまわないんですけど。

 やっぱり、この弁当は食べたくないわけで。

 そう思って弁当箱を返そうとナフキンに手をかけた俺は、目の前に気配を感じて顔を上げた。

 そこには、泣きそうな顔のなびきが立っていた。

「食べたくない……のか」

「いや、その……食べるよ」

「嫌々なら食べなくていい」

 あ、涙が……滲んでるって。

 顔の表情ひとつ変えずに、涙だけ浮かべるなんて、どういう顔のつくりをしてるんだ。

「いや、その、夕飯にしようと思ったけど、今食ったら、弁当箱返せるしな。うん、食べるよ」

「そうか。感想も聞かしてくれると嬉しい」

「食ったらな」

「不味かったら、そう言ってくれ」

 左手の人差し指で、こぼれそうだった涙をすくう。

 その仕草が妙になじんでいて、俺は思わずなびきの後ろ姿を見送っていた。

 窓際の席に戻るなびきが、その途中の女子から声をかけられて笑っていた。

「結局食うのな。とりあえず、そのヤキソバパンは、オレがもらってやろう」

「あ」

「せこいこと言うな。空条に礼は言っとけよ。直也の食生活、空条でもってんだろ」

 悔しいが、それは事実だ。

 親父も俺も、家事にはさっぱり才能がないらしい。

 この数ヶ月、まともにできている家事は全自動洗濯機での洗濯だけだ。

 俺の食生活のバランスは、空条からもらう弁当で成り立っているらしい。

 この日も弁当箱を開けると、色とりどりの野菜が弁当箱の中を彩っていた。

「お、すごいな」

「どれどれ……あ、これ難しいんだぞ。形良くできてるな」

「でもこれ、冷凍で売ってますよ」

「冷凍のは、こんな野菜入ってないぞ。インゲンと人参だからな」

「さすが先生。だてにスーパー寄ってませんね」

「冷凍品マスターと呼んでくれ」

 冷凍品マスター……の先生に言わせると、全部が手作りだそうだ。

 揚げ物の一つくらい欲しいところだが、揚げ物は夕食で食べるからということだろう。

 夏場だから、少し危険な生物は避け、煮物が多くなっている。

 その煮物も、汁がこぼれないようにきっちりと乾燥させてある。

 噛んだときに滲むように出てくる水分が、これ以上なく心地よい。

「……美味い」

 悔しいが、美味いのは事実だ。

 それも、最初の二日ぐらいよりも、ずっと俺好みの味に仕上がっている。

 その上でメニューをバランスよく考えてくれるのだから、すごいことなのだろう。

「幸せだねぇ、直也君は」

「うるさい。母さんが頼んでくれたんだよ、どうせ」

「頼まれただけで、ここまでできる中学生はいないぞ。いい嫁さんだ、うん」

「まだ、嫁ではない」

 親友の言葉に答えたのは、いつの間にか前にいたなびきだった。

 手にコップを持っているところを見ると、お茶をとりに来たらしい。

「もちろん、将来的にはそうなるだろうが」

「だ、そうですよ。直也君」

「うるさい。まだ決まっとらんわ」

「ふむ。だが、私は嫉妬深くてな。直也に私以外の女のものを、食べさせるつもりはない」

 無表情で、平気でこんなことを言える中学生。

 そんじょそこらを探しても、絶対に見つからない。

 親友も、この言葉には面食らったのか、切り返しには一瞬の間があった。

「……だ、そうですよ。直也君」

「うるさい。こんなポテトサラダがマヨネーズ味の濃い毎日なんて、絶対に嫌だね」

「マヨネーズは嫌いか。私の家では、マヨネーズを使いすぎる癖があるからな。覚えておく」

「いいねぇ。こうやって直也色に染められていくんだね、空条さんは」

「染められることに異論はないが、二人で家庭の味を築いていくのだ。今はまだ、予行演習に過ぎない」

 真顔で言うな。

 見ろ、親友だって言葉を失ってるじゃないか。

「……田原。先生、金八先生役はできないからな」

「あのですね、これはウチの母さんが入院したからでですね」

「その通りです、先生。直也……田原君の食生活が乱れすぎているので、それを配慮しただけですが」

「田原、お前がわかってれば問題ない。先生はお前を信じてるからな」

「……はい」

 もうダメだ。

 今日こそ、空条のオバサンに会おう。

 なびきに輪をかけたような母娘だが、直接会って言うしかない。

 ”とりあえず、お弁当は先に取りに来ます”と。

 

<了>