勤労感謝特別企画

夜中の雨雲


 この屋上に入るための扉が、音を立てて開かれた。
 昼休みというこの時間帯に、一体、誰がこんな所へ来るというのか。

「ここなら大丈夫よ」

「でも、もし見つかったら余計に……」

「安心して」

 俺の平穏は、こうして簡単に瓦解する。
 いつものようにタバコをふかしていた俺は、生徒の気配に火をつけたばかりのタバコをもみ消した。

「あ……」

 俺の姿に気付いた生徒が、身体を震わせて真昼の背後に隠れた。
 俺がため息をつくより早く、真昼の方が口を開いていた。

「気にしないで。あの人なら大丈夫よ」

「でも、真昼」

 やれやれ。
 どうにもこの姪には、一般的生徒としての感覚が欠如している。

「とにかく、今は生徒指導の先生に捕ったらアウトよ」

「うん」

 屋上の壁側に女子生徒を押しこんで、真昼がなだめにかかる。
 どうやら、何かが起きていて、そこに真昼が首を突っ込んだようだ。

 ため息をついた瞬間、振り返った真昼が俺を睨んでいた。
 その視線に、思わず感想が口から飛び出していた。

「うわ……姉貴そっくり」

「叔父さん、黙ってて」

 黙れと言いつつ、追いだすつもりはないらしい。
 まぁ、ここで手駒となりそうな俺を離す理由もないだろうが。

「それとも、理由を聞いてしまうのかしら」

「聞くにやぶさかでもないが」

 聞かなきゃ、末代まで祟りそうな雰囲気だが。
 飲まれたわけでもないが、逆らう気持ちが起きてこない。

「この子は放送部の後輩で、別件から冤罪をかけられそうなの」

「よくある話だな」

「腹が立ったから、やるわ」

「もう少し穏便にいこうな」

「無理」

 あぁ、そうだろうね。
 母娘そろって、こうと決めたら嵐の中でも揺るがない人たちだから。

 そして俺は、帰宅してから嫌みを言われ続けるよりも、手駒となることを選ぶ。
 それが長年かけて培ってきた俺の処世術だ。

「さて、戻るとするかな」

 わざとらしく鍵を振り回し、指先から落としてしまう。
 まぁ、これだけでこの怖い姪には意味が通じるはずだ。

 

「面倒だなぁ」

 職員室に戻り、事情通の先生の前に立つ。
 こういう時のために、いつも笑顔だけはふりまいておくことだ。

「今、生徒がザワザワしてましたけど、何かあったんですかね」

「あぁ。男子生徒が一人、手荷物検査で指導室」

「それだけですか」

「その手荷物の中に、ウチの女子生徒が出てるAVがあったらしいよ」

「それはまた……それで噂が出てるのか」

「もう、広まってるのかい」

「少し、ですね」

「相変わらずだなぁ、ウチの先生方は」

「本当に……あ、これ、中野先生のクラスのか」

 授業で返すつもりだった生徒のノートを持って、ため息をつく。
 もちろん、これが別のクラスの奴でも同じことを呟くのだが。

「今、会議中だよ」

「机の上に置いてきます」

 嫌いなんだよなぁ、あの部屋は。
 それでも帰宅後の平穏のためには、ここで仕事をするべきで。

 どうして、こうなるんだろうなぁ。
 あの姪がこの学校に現れた時に、姿をくらますべきだったのか。

「やれやれだよ」

 静まり返っている生徒指導室へ、小さくノックをしてから入る。
 まぁ、返事がないのは予想済みだ。
 聞こえないように叩いているのだから。

 予想通り、奥の小部屋で会議中らしく、見えるところには誰もいない。
 そして、おそらく目的のカバンが置いてあった。

「これか」

 中を開けると、扇情的なイラストの書かれたケースが一つ。
 バーコードがないところを見ると、同人作品か。

 確認していたところに、携帯電話が震えた。
 相手は確認するまでもなかった。 

「おぅ、真昼か」

『確認、できた』

「声をあてたのか」

『そうみたい。一応、FM局の番組を持ってるサークルみたい』

「そら凄い。実名か」

『えぇ。だから、探しに来たんでしょう』

「よく逃げれたな」

『男の子に渡したの、この子なのよ』

「サークルのファンか何かか」

『そうみたい。サークルの人に渡しておいてと言われたみたいで』

「これ、ヤバイか」

『パッケージだけね。中身はノーマル』

 と、いうことは、放送で流しても問題ないわけだ。
 FM局であろうと、校内であろうと。

「流しても大丈夫だな」

『……もう一個、手許にあるみたいよ』

 こちらの意図は伝わったらしい。
 さすがに身内だね。姉貴の血と言うべきか。

「それで、本丸はお前かね」

『さぁ。捕まったのは、ちょっぴり前科あり』

「何をしたんだ」

『裏サイトの管理人をしてたみたいよ』

「そっちの別件で、ついでにってところか」

『それで、ものは確認できたの』

「あぁ。本名で出るなと言っとけ」

『何とかなりそうなの』

「さぁね。どうしようか、真昼」

 少し電話向こうでのやりとりがあって、真昼が俺に指示を与えてくる。
 こういう時の機転の速さと決断力には、本当に舌を巻く。

 将来は政治家か犯罪者だな。
 どちらも、身内から出るのはご遠慮願いたい職業だ。

「はいはい。後は任せるよ」

『じゃあ、指示通りにやってちょうだい』

 俺はノートを片手に小部屋をのぞく。
 俺に気付いた何人かが立ち上がろうとするのを手で止めて、俺はノートを見せた。

「ノートを返しておいてもらおうと思ったんですけど、何かあったんですかね」

「え、えぇ。あの、置いておいてもらえますか」

「はい」

 素直に出て行くふりをして、ふと気がついたように少し大きめの独り言。

「そういえば、この部屋は放送が入らないんですね」

「は……先生、何を」

 屋上から放送室まで、何分くらいかかるだろうか。
 もう少し遅らせてから小部屋に入った方が良かったか。

『本日のお昼の放送は、特別番組をお送りします』

 所要時間、約二分。

 これが血のなせる業か。
 本当に怖くなってくる。

「いえ、入るんだなぁ」

「あの、先生」

『本日は、我が放送部員のデビュー作品のボイスドラマをお送りします』

「ボイスドラマだと……まったく、放送部は何を考えているのか」

 渋面をつくる年配の生徒指導主任の言葉に、何人かが同調する。
 いつもならここで薄く微笑みながら引くところだが、そうもいかなくなっていた。

 今の瞬間、どこかで悪魔が囁いていたらしい。
 そしてその悪魔は、やけに嬉しそうに微笑んでいた。

「あぁ、そう言えば、この同人作品所持で捕まった生徒」

 そう言いながら、拝借してきたケースを取り出す。
 仮面が外れると、この空気が心地よい。

 また敵が増えるというか、冷たい視線だ。
 アンタたちが無造作に置いておくから、こちらも持ってこれるんですよ。 

「矢野先生、今は会議中ですので」

「生徒の自主性や創造性を重視するとか言いながら、その実、自分が得体のわからないものは規制する。
 世間一般の価値観をありがたがって、己の知らないものを排除する」

「矢野先生」

 あぁ、どうして俺は教師なんだ。
 姉貴の血が、せっかく被り続けてきた仮面をはがせと騒ぐ。

「バーコードがついてるかどうかも確認せず、ただアニメ絵というだけで規制の対象か。
 本当、脳内が春というか、おめでたいよなぁ、教師ってさぁ」

「出て行きなさい」

「アンタたちに従うことが正義かよ。上意下達が、目上の者には絶対服従して、胸襟を開くことが正しいのかよ。
 嫌だねぇ、体育会系しか知らない人たちは」

「矢野先生、言葉が過ぎるぞ」

「人間なんて、裏があって当然。誰にも話したくない秘密があって当然。それは子供だろうが、大人だろうが同じこと」

 あぁ、仮面が外れていく。
 人のいい青年教師だったはずなんだがなぁ。

「アンタたちの言うオタク。創造者って言うのは、己がオタクであることを自覚して、オタクであることを誇りに思い、
 オタクとして生きていく。それがわからない奴はオタクとはいえないんだよ」

「何が言いたいんです」

「別に何も。ただ、アンタたちの価値観だけが正義ではなく、あの子の考えが間違っているわけでも正しいわけでもないってことさ。
 まぁ、正義が一つで正しいことが正義という世界で生きてきたアンタたちには、わからない定義かもしれませんがね。
 おっと……定義という意味も説明しないと、勉強することを止めた方には難しすぎましたか」

 やっちまったなぁ……。

 芝居がかったこの口調。
 止めたいんだけどなぁ。

 これも、あの姉が悪いんだよ。
 そして、今回の仮面を外させた元凶の声が仮面をつけ直させてくれる。

『私たちは間違っていない。この情熱だけは、何があろうと、誰に侵されようとしようとも、絶対に捨てないッ』

 何度も聞いた、真昼の叫び。
 そして、真昼の母親が残した台詞。

「……だ、そうですわ」

「矢野君、身のふりを考えておきたまえよ」

「剣はペンよりも強いと信じているあなたに、もっと強いペンがあることを教えてあげましょう」

 大袈裟に身体を折り、執事のように頭を下げる。
 ボイスドラマのエンディングを背中に、俺は手にしていたケースを机の上に置いた。

「あぁ、中野先生」

「はい」

「これ、セミプロ集団のボイスドラマですよ。確か、FM局で連続放送が決まったやつですね」

「そうなんですか」

「えぇ。ま、表彰するほど、FM局は信用に足らないものかもしれませんがねぇ。この地域限定の地方FM局ですし」

 

 さぁ、今日は帰ろうかなぁ。
 明日からまた、新しい仮面を被らないと。

「面倒だなぁ」

 この身に流れる血が、本当に恨めしい。
 あぁ、面倒だ。新しい仮面がくっつくまで、時間がかかるじゃないか。

 真昼の月のように、隠れていたいだけなのに。
 これじゃまるで、夜中の雨雲のように無駄に明るい無駄な雲だ。

「叔父さん」

 いつの間にか、真昼がそばにいた。
 無意識に伸ばしかけた手を止めて、ため息をつく。

「今日、定時で帰るぞ」

「仮面は剥がれたの」

「あぁ」

「生きやすくなったじゃない」

「真昼の月のように生きていたいんだよ、俺は」

「まさか。そのうち、その身体の中の血が沸騰するわよ」

 ……足を止めて、姪を見下ろす。

 姉貴ではない、血に戸惑う少女がそこにいた。
 俺と同じく、持てあまして仲間を求めているような。

「社会人にはな、守るべき一線があるんだよ」

「子供にもね、譲れない一線があるのよ」

「今日、食いに行くか」

「焼き鳥をね」

 あぁ、そうしよう。

 明日から、どうなることやら。
 怖くて、楽しみで、おそらく落胆するだろうけど。

「……いい迷惑だ」

「あきらめてよ。母さんに関わる人間は、全員が不幸になるのよ」

 昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴った。

 俺はまた、教師としての仮面をつけた。
 己を演じて、授業という舞台にふさわしい役者になるために。