情焔
甘く見られたものだ。
背中を向けたその姿なんて、程よく焼けた肉塊にしか見えない。
ましてやエプロンの裾から見える生足なんて、食いついてくださいと懇願しているようにすら感じる。
「ねぇ、辛いのは大丈夫かしら」
「平気。唐辛子を生でと言われない限りは」
「はぁい」
ここからでは背中しか見えない。
けれど、何を作ってくれているかは教えてくれた。
「あ、テレビでも見てて」
「おかまいなく」
前もって点けられたテレビのチャンネルを変える気にもならない。
むしろ、テレビの音すら右から左へ流れていってしまっている。
貴女を見ているほうが、よほど楽しい時間の過ごし方だ。
今、そう告げたら、貴女はどう返してくるのだろう。
怖いようで、楽しみであるようで。
ありったけの自制心を行使して、今はただ大人しく貴女の背中を見つめるに留める。
「あ、そうだ」
突然振り返られて、視線に気付かれていたかと思ったが、そうではなかったようだ。
少し小走りにサイドテーブルへ移動して、置かれたパソコンのマウスを操作する。
「レシピ見ながらやってんの」
「前に美味しそうだなって思ってたの。仕上げの前のポイントだけ、確認しようと思って」
言うとおり、すぐにキッチンへと戻っていく。
ほんの少しの会話しかできない時間に、意識を無理やりテレビへと向けた。
特に好きなタレントが出ているわけではない。
見たことのあるタレントが、見たことのあるコーナーを楽しげに演じていた。
「何か手伝おうか」
「いいよ。座ってて」
手持ち無沙汰なのも気がひける。
ましてや、自分の自制心にさえ打ち勝ちそうな恐怖が、この現状を打破しろと囁きかけてくる。
いっそのこと、ここで立ち上がってしまおうか。
貴女のその背中に忍び寄り、手を止めてしまおうか。
「はい、できた」
部屋に入って、十分も過ぎていないだろう。
温かそうな湯気を上げる鍋を手に、美樹さんがテーブルの上を目で示した。
「はい。これかな」
「ありがとう」
鍋敷きを置くと、その上に小ぶりの鍋が置かれる。
既に用意されていた取り鉢に手を伸ばそうとすると、その手をすっと遮られた。
「お腹、空いてるよね」
「それなりに」
「遠慮しないで食べて」
差し出された鉢を受け取って、すぐに箸に手を伸ばす。
さすがにお腹は空いているのだ。
ましてや貴女の手料理なんて初めてだから。
「美味しいといいけど」
辛い。
辛いけれど、無理やりな辛さじゃない。
「美味しい」
「よかった」
そう言って、美樹さんも食べ始める。
二人でテレビに視線を向けながら、あまり会話もせずにもくもくと食べ続ける。
何を言えばいいのだろう。
空腹を紛らわすためだけに、貴女を襲おうと考えていたのかと錯覚するくらい、何も浮かばない。
テレビに救われながら、本当にゆっくりと食べ続ける。
「おかわり、言ってね」
「じゃ、お願いします」
途中で投入された小餅まで平らげて、一息ついた。
時計を見ると、そろそろいい時間だ。
ここで帰るのか。
「どうだったかな」
「美味しかった。ごちそう様でした」
「どういたしまして」
鍋を片付ける美樹さんに近寄ろうと食器に手を伸ばすと、気配に気付いた彼女に止められた。
「あ、こっちで運ぶから」
「う、うん」
もしかして、下心を見透かされてるのだろうか。
嫌われたくない恐怖心と、このままでいたくない心が交錯し、不思議と体が熱くなる。
これは危険信号だ。
「ねぇ、時間、大丈夫なの」
「あ、そろそろかも」
帰したいのか。
でも、もう心は止まらない。
上着を着て、玄関へと歩き出す。
けれど、貴女との距離は測っておく。
「気をつけてね」
「うん……でもさ、甘いよね」
「何が」
「こういうところ」
逃げ場の少ない玄関で、貴女を壁際へと押しやることに苦労はしない。
貴女の眼を見る勇気はないけれど、貴女を逃がすほどの度胸もない。
「えっと……大声出すよ」
「構わない。その前にふさぐ」
「どうやって」
尋ねられて、頭の中で言葉を探す。
貴女を迷わすためでなく、自分自身を酔わすため。
「……こうやって」
腕をかいくぐろうとした貴女を、逆の腕でつかんで逃がさないようにする。
「目は開けたままでいいの」
「……最低」
「ムードなんて作れないよ。慣れてないもので」
「だったら」
「それでも、体が動いちゃった」
諦めたように、貴女が目を閉じた。
わずかに上を向いてくれた貴女の余裕に気付くことなく、つかんでいた腕を放す。
「ん」
顔を傾けて、目を開けたまま唇を合わせた。
たかが表皮細胞の触れ合いだ。それなのに、人間は何故こうも精神的欲求として触れ合うのだろう。
申し訳程度に唇を開いて、静かに待つ。
息が苦しい。
いつの間にか、目を開けていた貴女と視線を合わせ、二人の触れ合いは幕を閉じた。
「……大声、上げるか」
「泣きたい。けど、今は我慢してあげる」
「帰るよ。終電、あるから」
「うん」
「美味しかった。ありがとう」
「うん」
いつだって男は自己中心的だ。
貴女の顔が、そう言っていた。
けれど、だからこそ男は女に惚れていく。
ある者は欲求を満たすため。ある者は寂しさを紛らわすため。
真実なんてそこにはない。
ただあるのは、事実だけ。
<了>