勤労感謝特別企画
こい
お昼過ぎにゆっくりと学校へ行く。
これは俺たち高校三年生の特権だ。「ま、卒業したんだから当然だな」
授業を受けない分、時間に縛られることはない。
もちろん、先生の都合で待つことはあるかもしれないけど。来校者用のスリッパを履いて、二階の職員室へと向かう。
運動場から聞こえてくる後輩の声が、どこか懐かしく感じられた。卒業して一週間ぐらいしか経ってないのに、ちょっと傲慢だな。
現在を疎ましく思い、終われば惜しむ。
典型的な学生症候群だ。「失礼します」
扉をノックしてから、職員室の中に入る。
中を見回すと、いつもの席に担任の須藤先生はいた。「須藤先生」
「おぅ。楠木か」
授業がなかったのか、先生は読んでいた新聞を置いてこっちにやってきた。
「さっき、高橋が来てたぞ」
受験したクラスの連中も、今日は報告に来ているらしい。
国公立の結果発表は今日だから、大学を受けた連中はそろそろ報告に来る頃か。「それで、楠木はどうしたんだ」
「結果の報告に」
近くの椅子に座った先生へ、カバンの中から書類の入った封筒を取り出す。
俺を見る先生の顔は、笑顔だった。「受かりました」
「おめでとう」
「どうも」
あっさりと報告を終えて、俺は封筒をしまった。
これで用事は済んだ。「よく頑張ったな」
「本当にお世話になりました」
「夏休みから、毎日頑張ってたからなぁ」
「そのおかげですかね。ありがとうございました」
冬休みもお世話になった先生に礼を言って、俺は職員室を出ることにした。
職員室の扉に手をかけて出て行こうとした俺を、先生が呼び止めた。「帰るのか」
「え……」
「藤野先生にも礼を言っておけよ。夏休み、随分世話になっただろ」
「は、はい」
少しドキッとした俺に、先生はいつもと変わらない笑顔だった。
「図書室にいるんじゃないか、藤野先生」
「じゃあ、帰りに寄りますよ」
「それがいいな。いなかったら探せよ」
先生に言われなくても、図書室には寄るつもりだった。
もちろん、藤野先生に会うために。「失礼します」
一声かけて中に入ると、図書室の中に人影はない。
蔵書の整理をしているのかと奥のほうまで入ってみても、誰もいなかった。「今日はいないのかな」
また出直してこようと入り口に戻ろうとした俺は、カウンターの奥にいる藤野先生を見つけた。
入ったときには死角になっていて気付かなかったんだ。「藤野先生」
「あら、楠木君」
「受かりました、大学」
「おめでとう」
本のラベル張りをしていた先生が、作業の手を止めてカウンターまで出てきてくれた。
先生が来るのを待って、俺は身体を二つに折るようにし大きく頭を下げた。「先生のおかげです」
「ふふっ、そんなに大袈裟に言わなくてもいいわよ。貴方が頑張ったのだからね」
「でも、先生がいてくれなかったら、俺……」
夏休みの猛勉強は、先生がいたからできた。
先生に会いたいっていう気持ちがなかったら、毎日図書室には来なかっただろう。
結果、俺は勉強していなかったかもしれない。「感謝しなさいよ。貴方のためだけに、図書室にいてあげたんだから」
「本当ですか。先生の貴重な夏を潰しちゃったかな」
「そうよ……って、随分言うようになっちゃったわね」
「合格したし、卒業したし、怖いものなしですから」
「まさに、この世の春って感じね。中、入っていきなさい。お祝いに紅茶ぐらい入れてあげるから」
「はい」
夏休みには手作り弁当をもらった部屋で、今度は紅茶をもらう。
お茶請けには、小さなロールケーキがあった。「これで楠木君も大学生かぁ」
「そうですね。今からドキドキしてますよ」
「しっかり勉強しなさいよ。遊んでばかりじゃダメよ」
「はい」
さすがに遊びまくるつもりはないけど。
それでも大学生活に期待をしていないと言えば嘘になる。「ところで、先生」
「何かしら」
「お礼がしたいんですけど」
「いらないわよ。これを言ったらおしまいだけど、私も仕事なの」
「まぁ、気持ちですから」
そう言っておいて、俺は財布の中から映画のチケットを取り出した。
「先生、この間、言ってたでしょう」
「あぁ、あの映画」
「前売り、ちょうど手に入ったんで」
「日付指定の時間指定で、行けば貴方が隣にいるってところかしら」
ニヤニヤしながらそう言ってきた先生に、俺は肩をすくめた。
いくら妄想逞しい男子高校生でも、そこまでやる奴はいないだろう。「どこの青春ドラマオタクですか」
「あら、違うの」
「ただの前売りですよ」
「残念というか、拍子抜けというか」
「今から前売り、買ってきたほうがいいかな」
冗談めかして言った俺に、先生はずいっと顔を近づけてきた。
思わず身を引いた俺を待っていたのは、先生のニヤニヤした顔だった。「この程度で慌ててたんじゃ、モテないぞ」
「びっくりしますよ」
「もう少し、こっちの勉強もしとかないとね」
そう言うと、先生は俺の手から取ったチケットをヒラヒラとさせた。
こっちが動揺している間に、抜き取られたらしい。「今度の土曜日の昼にでも行ってみるわ」
「え、あ、はい」
「そこから先は、君次第だからね」
そう言って微笑む先生の顔を、俺は一生忘れないだろう。
たとえこの先、先生の名前を忘れることはあっても。
間違いなく、俺の初恋はここにあった。
<了>