勤労感謝用特別緊急企画

禁区


「……ごめん」

「謝るくらいなら、最初から風邪なんかひかないでよ。面倒臭いったらありゃしない」

 そう言って、健のお茶碗に炊きたてのご飯をよそってやる。

 まったく、そろそろお粥というものを食べられるようになってもいいんじゃないのかね。

「別にいいのに」

「一人でご飯食べる? そう言って、この三日間何も食べてないんでしょ」

「……食べるよ」

 不機嫌そうにそう呟いて、思いっきり咳き込んだ。

 低い声を出せば喉にくるっていうのに、いつまで経っても成長の跡が見られないわね。

「ほら、大丈夫?」

「コボッ」

 気管支に入っちゃったらしい。

 咳の音が変だ。

「まったく、無茶し過ぎるからよ。今日のバイト、全部休みの連絡入れたんだろうね?」

「うぅ……それはしました」

 ようやく落ち着いた健は、涙目だ。

 ここ数日何も食べていないので、元々華奢な身体が貧弱に映る。

 頬の下に微かな陰が落ちているのは、もはや愛敬にもならない。

「ほら、卵焼きと味噌汁くらいは食べられるだろ」

「サンキュ」

 咳をしながら、身体を丸めて数日振りの食事を食べる健は、いかにも頼りない。

 これで一端の大学生だと言うのだから、世の中、体力がなくてもやっていけるものらしい。

「この卵焼き、砂糖入れた?」

「あぁ。健、砂糖入れたの好きだったでしょ」

「うん」

 そのまま無言で食べ続ける健を、私は頬杖をついて眺めていた。

 特にそうする必要はなかったけど、見ていないとなんか不安だった。

 昔からそうなんだ。

 別に無茶する奴じゃないんだけど、監視していないととんでもないことをしでかしそうな奴。

 それが、隣に住んでいただけ。

「……ワカメ、戻しきってない」

「黙って食え」

 そう言えば、ワカメを水に晒した時間が短かったかな。

 急いで食わせなきゃって思ってたから、味噌汁の中に入れれば元に戻ると計算してたんだけど。

 文句が言えるようになったのは、元気になった証拠だろう。

 少なくとも、健はそうだ。

「ごちそうさまでした」

「はい、お粗末様でした。とりあえず食器だけは片付けとくから、しっかり寝てなさいよ」

「別にいいって。帰ったら母さんがやるよ」

「そのお母様に悲しい誤解させないように、しっかり洗っといてあげる」

 まぁ、本音を言えば痕跡を残す残さないの話じゃないけど。

 健に彼女がいないことぐらい、知り過ぎているぐらい知り過ぎているから。

 食器をお盆の上に載せて、健を一睨みする。

「……大人しく寝てます」

「よろしい」

 最後に念を押すのを忘れると、どうにも不安だ。

 少しでも身体が動き出すと、じっとしていられない性質だから。

 だからなかなか病気も治らないんだ。

 

 

 食器についた泡を洗い落とす水が冷たい。

 自分の吐く息が白くなるほど寒くはないけど、もうすぐそこまで冬が来てるんだなと思う。

 ……良紀にフラれたの、結構ショックなのかな。

 自分では全然ショックじゃないって思ってたんだけど。

「そう言えば、あのチケット、どうしようかな」

 良紀と二人で行くつもりだった、少し郊外にある小さな美術館の入場券。

 友達に言われて買った。美術館の回りの並木道が素敵だって。

 別れてから一緒に行けるほど、私も恥知らずな女じゃない。

「くそぅ、手切れ金にチケット代も足してやりゃよかった」

 洗い終えた食器を水切り台に載せて、布巾で手を拭く。

 ここの台所も使い慣れたもんだと、自分でも思う。昔はここでクッキーも焼いたっけ。

「クッキーかぁ……もう焼く気にもなんないね」

 昔も今も、彼氏には焼いてやった。

 考えれば、健には一枚もやらなかったっけ。迷惑なお姉さんだったかな。

「さて、そろそろ夕飯作るか」

 今日は大学に行く気もしない。

 一日全部、お休みだ。

 大根の煮付けでも作ろう。あれは冷えても美味しいから。

「……買い物行かなきゃ。財布、借りるよ」

 勝手知ったる他人の家。

 もちろん財布の場所なんて、目を瞑っていても大丈夫。

 財布ごと持ち出して、二階の健に声をかける。

「もう行くけどさ、しっかり寝ときなよー」

「あー」

 小さな返事が聞こえて、思わず笑っちゃった。

 私って、結構お姉さんじゃない?

「さて、どこが安売りかなんか知らないけど、とりあえずスーパー行くか」

 少し早めに出してコートのポケットに手を突っ込んで、少しだけ後悔する。

 もう、禁区……かも。

 これ以上進んじゃったら、束縛しかねない。

 踏み入っちゃいけない境界線に入り込んでるかもね。

「心配性なのかな、私」

 自分がやりたいから、全部それでいいってわけじゃないけどね。

「はぁ、早く彼氏作んないとな。独り言多くなっちゃうわ」

 独り言の多い女ってのは寂しい。

 良紀の代わりじゃないけど、愚痴の聞いてくれる友達から昇格させるとしますかね。

 そんな友達、いるわけないけどさ。

「健に彼女がいたらな……戻る場所なくならないとダメなのかも」

 だけど、健から離れろって言われるまでは、このまま。

 私からサヨナラを言わせるなんて、それはできない相談ね。

 

<了>