名字変更、歓迎します


 

 思いもしなかった。
 この歳で、自分の名字が変わるなんて。
 それも、自分のせいではなく、何一つ疑っていなかった親のせいでなんて。

「……いいんだな?」
「早く提出してよ。気が変わらないうちに」
「わかった」

 私は父さんが市役所の窓口に養子縁組の書類を提出するのを見守っていた。
 そして、新しくなった自分の名前を心の中で反芻させる。

 竹崎霞。

 それが今から、私の名前。

 

 

「……ふぁ……シャワーでも浴びよ」

 寝苦しい晩で、目が覚めたらパジャマは汗で肌に貼りついていた。
 とてもこんな状態で寝られやしない。
 自分の部屋で下着姿になって、そのまま風呂場へ直行する。

「誰かいるの?」

 先着がいたみたいで、電灯が点いていた。
 中を覗くと、何故か旅行の準備をしている父さんがいた。

「何してんの?」
「霞か……いや、明日から出張でな」
「そんなの、母さんにやらせなよ。どうせ、暇持て余してんだからさ」
「そう言うわけにもいかなくてな」

 何を遠慮してんのかは知らないけど、迷惑もいいとこ。
 さっさとシャワーを浴びたくて、私は下着姿で風呂場に入って行った。

「おい、風邪引くぞ」
「シャワー浴びるの」
「着替えくらい持って来い」
「そこのタンスの中に……って、何やってんのッ」

 うわ……無茶苦茶。
 いきなり慣れないことするんだから、こう、散らかすだけになるのよ。

「もういいわ。私がしてあげるから、父さんは飲み物でも持って来て」
「す、すまん」
「ほら、さっさと行って。それとも、娘の入浴を覗く?」
「別に見たいとも思わんな」
「さっさと行けッ」

 相変わらずな父さんだ。
 手早く汗を流して、戻って来た父さんから缶ジュースを受け取る。

「甘い物は太っちゃうわ」
「少し太ったくらいが丁度いい」
「何で?」
「胸が足りん」

 ……聞かなかったことにする。

「で、何泊?」
「ん。とりあえず一泊だな」
「カバンは?」
「これだ」

 少し小さ目のリュックを手渡された。
 さっさと準備を終えて、からかい気味に話を振った。

「浮気旅行?」
「……母さんのな」
「嘘ォ」
「本当だ」

 真剣な瞳。
 父さんは決して嘘をつけるような人じゃない。

 そういえば、最近服の種類が増えた。
 外出も増えている。

「考え過ぎじゃない?」

 そう言えば済むことなのに……私は別の言葉を口走っていた。

「明日、文化祭だから私も行く」

 

 

 朝、いつも通りに出勤する父さんを見送って、私は玄関口から叫んだ。

「母さーん、私も行くよー」
「はーい。気をつけなさいよー」
「はーい!」

 家を出て、車の運転席に腰を下ろす。
 トランクに入っている、私と父さんのカバンが無駄になればいいのに。
 いや、きっと無駄なはずだ。

 母さんはいつものように陽気で元気だったし。
 そう思いながらエンジンをかけ、近くの駐車場へ身を隠す。

 後は、ただひたすら待つだけ。

 

 そして、期待はあっさりと裏切られた。
 着飾った母さんが出て来た。
 尾行する父さんから、逐一携帯電話に連絡が来る。

「……本当に浮気してるのかな」

 駅まで先回りして、やって来た父さんを車に乗せる。

「調べてみて良かった」

 父さんの言葉は現実になった。

 絵に描いたような話だ。
 隣街の駅までバスに乗って移動した母は、そこで若い男性の車に乗り込む。
 大学を卒業して間もない感じのする、私の恋人の方が似合う年齢。

「……確かめる?」
「確かめなきゃならん」
「高速道路を使ったら?」
「黙って追いかけるだけだ」

 それ以上何も言えずに、私は助手席に座り続けた。
 運転している父さんも、何も言わなかった。

 

 

「あぁッ、いいっ」
「……もっと、突いてッ」
「……ハァッ…ンッ……はぁっ」

 耳を覆いたくなるような嬌声。
 出してるのはもちろん母。

 モーテルに潜り込むのは簡単だった。
 あんなカップルより、私たちの方がよっぽどそれっぽい。

「……帰ろ」
「そうだな」

 もう、どうでもよかった。
 あんな若い男の下で悶えてる母さんは、私の知ってる母じゃない。

「佐竹の名字、捨てたくなっちゃった」
「捨てるか? 家出なら手伝う」
「ん? それもいいかもね」

 窓を開けて、高速道路に音楽を響かせながら走る。
 雨が降ってくれれば。なんて思っても、降る筈もなかった。

 

 名字を変える為に、祖父の養子になる。
 あんな女の娘でいたくなかった。
 名字を変えたのは、何食わぬ顔で家に居続ける、女へのささやかな反抗。

 

 

「……お久しぶりです」

 久しぶりに潜る部室の扉は、重かった。

 父さんは何事もなく、生活を続けていくように言ってくれた。
 でも、バカな私は部長に話してた。
 そうでもしなきゃ、潰れてしまいそうだったから。

「遅い」
「すいません」

 いつになく、稜人先輩の声が重く感じられる。
 きっと、私の心が重いせいだろう。

「折角のキノコ鍋がなくなるぞ」
「え?」

 間抜けな声を出した私に、頼子ちゃんが御碗を突き出した。

「稜人先輩が準備してくれたの。霞ちゃんの為に」
「先輩」
「作ったのは私」
「部長」

 堪らなくなって、泣き出した私を抱いてくれた阿左美先輩。
 横で相変わらず鍋を食べてる義久君。
 私を抱いてる阿左美先輩の代わりに鍋の面倒を見てる頼子ちゃん。

「名字が変わろうが何しようが、締め切りだけは変えられないからな」

 阿左美先輩の胸を涙で汚す私の頭を、優しく叩いてくれた稜人先輩。

「先輩……」
「今起きてることがネタに思えなくなったら、いつでも来いよ、霞ちゃん」

 少し照れた表情が、もの凄く嬉しい。

 いいな。いいよ。ここって。
 泣いてる場合じゃない!

「大丈夫です! ネタまみれの人生なら締め切りに困らないですし!」

 うん、空元気もでた!

「美味い!」

 鍋も美味い!
 やっぱりここは、最高の文芸部だ!

 

<了>