ブルー・ムーン
「おはよう、アーサー」
「あぁ……おはよう」
他人が同じベッドに寝ていることに慣れたと言えば嘘になる。
それでも、どうにか表情に出さずにいられるようにはなったらしい。
ただ単に表情を消せるようになったというほうが正しいか。そんな俺の心のうちを知らないで、ラクチェは笑顔で俺の髪に触れた。
髪に触れるのが好きだと言っていたが、それは彼女が短髪であることと関係があるのかもしれない。「今日もいい天気よ」
「そう」
ラクチェがベッドを抜け出して、窓のカーテンを全開にする。
朝の日差しが眩しくて、俺は思わず腕で光を遮った。「まだ、眠いの」
「いや、眩しかったから」
「そう。私は鍛錬に行ってくるけど、アーサーはどうするの」
寝巻きを脱ぎ始めたラクチェから視線をそらして、俺は軽く欠伸をかみ殺した。
早朝から鍛錬に励むらしいラクチェに付き合う必要はないが、二度寝するのも気が引ける。「適当に目を覚ませておく」
「そう。それじゃ、行ってくるわね」
立てかけてあった剣を提げて、ラクチェが部屋を出て行った。
同じ部屋で過ごすようになって、そろそろ一ヶ月といったところか。
ようやくラクチェの生活パターンも把握できるようになって、俺の生活リズムも定まってきた。「朝、か」
まだ日が昇って間もない時間だ。
魔道士という人種は夜行性が多く、必要以上の早起きはしない。
意図しない寝不足は、研究の妨げにしかならないからだ。
寝食を忘れて研究に没頭する時のために、日頃の睡眠は欠かせない。放浪暮らしが長かった俺だって、そこは一般的な魔道士と同じだ。
「さて、起きるとするか」
身体を動かし、異常がないことを確認する。
同じベッドで寝始めた頃は身体の節々が固くなっていたが、今はその傾向も少なくなってきた。
人間とはつくづく慣れの生物であるらしい。「……早いな」
イザークの幹部兵士たちだろう。
早朝から列をなすようにして城内を走っている姿が窓の外に見える。目を凝らしてみると、ラクチェもその中にいるようだ。
隣にいるスカサハもよく目立つ方だから、おそらく間違いない。「真似はできないな」
ラクチェにしてもスカサハにしても、イザーク人は早寝早起きの人種らしい。
日が昇ると同時に目を覚まし、日付が変わる遥か手前で眠りにつく。
およそ生物として理想的な生活を美徳とする、まさに剣士の国の住人だ。それに比べて、俺のような魔道士は昼まで寝ている者も少なくない。
大体、必要がなければ部屋から出ることすら面倒に感じる。
ある魔術師などは、自宅の書庫のすぐ隣の部屋で毎日を過ごすらしい。
それを考えれば、俺は比較的能動的な魔道士だろう。「水が切れたな」
部屋の水差しの中の水がなくなっていた。
朝一番は喉が渇くからと、就寝前には多めに継ぎ足しておくのだが。
今日はラクチェがいつもより多めに喉を潤していたらしい。「体調を崩したかな」
計測しているわけではないが、何かの変調の兆しではあるだろう。
それとなくスカサハ辺りに尋ねておいたほうがいいかもしれない。「随分と優しくなったものだな、アーサー」
自嘲気味に、口に出してみる。
他人を気にするようになるのは、成長といえるのだろうか。
あのお節介な天馬騎士に聞いてみれば、笑顔で肯いてくれそうだ。「朝食の支度をするか」
空の水差しを手に、部屋を出る。
周囲の部屋は、まだ人の動き出した気配はない。
この辺りは解放軍の中でも幹部の人間が割り当てられている。
こんな早朝から動き出しているのはイザーク組と真面目な人間ぐらいだ。「おはようございます、アーサー様」
「おはよう。水をくれないか」
「はい」
厨房へ行く途中らしかった侍女に水差しを渡して、俺はそのまま厨房の方へ歩き続けた。
まだ厨房も動き出してはいないらしく、まだこの辺りの空気も停滞したままだ。当番らしい侍女や兵士たちがぞろぞろと集まってくる。
顔見知りの人間にだけ会釈をして、俺は食堂の隅に腰を下ろした。「おや、アーサーか」
「あぁ。早いな、オイフェさん」
「喉が渇いてね」
「同じ理由だよ。今日は乾燥しているのか」
「どうだろうか。天候が変わるのかもしれないな」
他の部屋の人間も異変を感じているのなら、天候そのものが変化した可能性が高い。
特にラクチェだけが変調をきたしているのではなさそうだ。「ところで、どうだね」
「何が聞きたい」
「いや、ラクチェとの生活はどうかと思ってね」
「下世話だな、オイフェさん」
俺がそう言うと、解放軍の宰相はバツが悪そうに顔をしかめた。
「誤解をさせたなら謝ろう。だが、あの娘はクセが強くてね」
「ティルナノグで一緒に暮らしていたんだったな」
「あぁ。スカサハと違い、クセの強い娘だと感じていてね」
「今のところ、特に問題はない。朝、早起きするのには慣れなかったが」
「イザークの人たちの朝は早いからね」
そう言うと、オイフェさんは表情を緩めた。
その意味を理解するより先に、先程の侍女が水差しを持ってやってきた。「アーサー様、お待たせいたしました」
「あぁ、助かった」
水差しを受け取り、渇きを覚えていた喉を潤す。
飲み終えて口許を拭うと、オイフェさんが俺を見て苦笑していた。「気温が上がっているようだな」
「かもしれない。この地方の気候の資料はあるのか」
「後で調べさせる。多少、見直さなければならないことが出てくるかもしれないな」
「資料さえあれば、後は任せてもらってかまわない」
「頼むことにしよう。では、失礼するよ」
少し、長く話をし過ぎていたようだ。
厨房が本格的に動き始め、俺は水差しを手に立ち上がった。そろそろ朝の鍛錬を終えたラクチェが部屋に戻ってくるはずだ。
そのときに水差しがなければ困るかもしれない。「甘くなったな、俺も」
部屋に戻りながら、ついつい窓の外を見てしまう。
思考の外で、ラクチェの姿を探しているのかもしれない。
まるで寂しい動物が仲間を求め合っているようだ。部屋に戻ると、ラクチェが汗を拭いながら俺を待っていた。
「水、飲むだろう」
「あら、ありがとう」
俺から水差しを受け取り、ラクチェが喉を鳴らす。
見たところ健康そうだ。
どうやら今朝の疑問の答えは、気候の変化で正解のようだ。「ねぇ、アーサー」
「何か」
「昨日の夜のことなんだけど」
「何かあったのか」
「うん。アーサーがさ、ちょっと苦しそうだったの」
「覚えがない」
昨日の夜は、確かにラクチェよりも先に寝ていたのかもしれない。
いつもならラクチェの寝息を聞くことが多いのだが、昨日はその記憶がない。
もっとも、寝る直前の記憶などあやふやなものだが。「悪い夢でも見てたのかなぁって」
「多分。夢なら、そのうち覚める」
「何か不安なことがあったら話してね。その……恋人なんだしさ」
「その時があれば」
「うん。頼ってよね」
少しはにかんだ表情は、本当に可愛らしいと思う。
思わず手を伸ばしてみたくなるほどには。差し出した手をおずおずと握り返してくるラクチェを見ていると、とても戦女神とは思えない。
どこにでもいる女の子だ。それも、どちらかと言えば気弱で、恥ずかしがり屋の。「可愛いな」
「アーサー……恥ずかしいから」
「別に誰も見てやしないよ」
「でも」
恥らう姿を楽しみすぎると、鉄拳が飛んできそうな気がして怖い。
それでも心行くまで堪能したいと本能が告げる。俺は本能の誘惑に負けて、ラクチェの頬を撫でていた。
かすかな抵抗を見せているようで上から指を重ねてくるラクチェが、たまらなくいとおしくなる。「ねぇ……ちょっと」
「朝ご飯の時間は守るよ」
腰の剣を外して、そばに抱き寄せる。
身体をそらせたラクチェにかぶさるように、ラクチェの口をふさぐ。「おはよう、ラクチェ」
「お、おはよう」
我慢しろなんて、無理な相談だ。
<了>