湯気が消えぬ間に


 ……コトリ。

 コトリ。

 ……コトリ。

 コトリ。

 駒が盤に当たる音が止んだ。

 手番を渡されたティルテュが、長考に入ったからだった。

「むぅ……こう、かしら」

 コトリ。

 コトリ。

「はぁ」

 ため息とも嘆きともとれる息を漏らして、ティルテュが小さく頬をかんだ。

 幼い頃から考えごとをするときに出てしまう癖のようなものだ。

「こう……だわ」

 コトリ。

「なるほどね」

 コトリ。

「くぅ」

 アゼルの応手に、ティルテュの眉間の皺が増えた。

 先程から唸り声を上げているのはティルテュばかりで、アゼルは一向に表情を変えていない。

 むしろ、目の前で悩むティルテュの表情に見惚れている時間さえあった。

「これはダメね。これも……うぅん」

 伸ばしかけていた手を止めて、ティルテュが再び考え込んだ。

 五手先を読めば、自然と応手の数も限られてくる。

 だが、今のティルテュには選ぶべき選択肢がなかった。

「こうよ」

 コトリ。

 コトリ。

「めぅ」

 妙な唸り声を上げたことにも気付かず、ティルテュが駒に手を伸ばす。

 考慮時間を目一杯に使っているティルテュとは対象的に、アゼルはノータイムで駒を動かしている。

 そのことが余計にティルテュへ重圧を与え続けていた。

「……もぅ」

 眉間に皺を寄せていたティルテュが、静かに駒を置いた。

 アゼルはほんの一瞬だけ躊躇した後、流れるような手付きで駒を進める。

「ふぅ」

 眉間の皺をとりながら、ティルテュが間をおかずに駒を進めかえす。

 決着がついたことを悟ったアゼルは、ティルテュに合わせるようにして駒を動かしていく。

 数手のやりとりが続いた後で、ティルテュのキングはアゼルのナイトに討ち取られた。

「あぁ、また負けたわ」

「ありがとうございました」

 頭を下げて礼を交わした後で、ティルテュが駒の流れを逆再生する。

 アゼルは駒の流れに修正を加えながら、ティルテュの感想戦に付き合っていた。

「この辺の手かしら」

「もう少し後かな。この辺りはまだ形勢微妙だよ」

「この手かしら」

「多分ね」

 問題手となった一手の検討を終えると、アゼルはそばに控えていた侍女を呼んだ。

 ティルテュが幾度も駒を動かしなおしている間に、新しい紅茶を用意させる。

「変ね。これでも強くなったのよ、あたし」

「そうだと思うよ。前ほどの余裕は持てなくなったし」

「それがわかるってことは、まだまだ追いつけてないわね」

「まぁ、そこはね」

 ティルテュの言葉にアゼルが微笑むと、ティルテュが大きく背筋を伸ばした。

 そのままの勢いで背もたれにだらしなくもたれかかる。

「悔しいなぁ」

「僕だって、ティルに負けたくないからね」

「でも、昔はいい勝負だったのに」

「あの頃は覚えたてだったもんね」

 二人がチェスを習い始めた時期は、ほぼ同じ頃だった。

 と言うよりも、チェスを覚えたティルテュがアゼルへ強引に教えたのだ。

 同じぐらいの力量の人間がいれば励みになる。ただそれだけの理由だった。

 始めて一年ぐらいは勝ち負けの続いた二人だったが、ここ数ヶ月はアゼルの連勝が続いている。

「アゼル、何か変なものでも食べてるのよ」

「どうしてそうなるの」

「もしくは、あたしの先生が弱いのかしら」

「先生が怒るよ」

 ティルテュの言葉に苦笑しながら、アゼルは温くなった紅茶に手を伸ばした。

 侍女が新しい紅茶を用意するまでには、もうしばらく時間がかかるだろうという判断だ。

 未だに駒を見つめているティルテュに、アゼルはお茶請けのクッキーを勧めた。

「これ、城下の店で買ったんだけど」

「悪くないわよ。甘さも控えめだし」

「でしょう。最近見つけたんだけど、買いに行ってもらったんだ」

「珍しいわね。アゼル、そういうことに人を使わないのに」

「表通りにはないから、侍従長に怒られたんだ」

「なるほどねぇ。誰が見てるかわからないものね」

 二人がクッキーの話をしている間に、侍女が新しい紅茶を持って入ってくる。

 アゼルのカップとティルテュのカップに紅茶を注いだ後で、侍女は盤面に視線を向けた。

「今日は随分と接戦でしたね」

「あら、途中の盤面を見ただけでわかるのかしら」

 ティルテュの問いかけに、侍女は微笑みながらこう答えた。

「今日の紅茶は、もう湯気が立たないほどでしたから」

 

<了>