頼られて


『来て』

 たった二文字のメールを受け取って、俺は部屋を出ることになった。

 一階の台所で夕飯の仕度をしている母さんのところへ行き、これから外出することを告げる。

「母さん、ちょっと出てくるわ」

「あら、もう夕飯よ」

 調理の手を止めた母さんが、濡れていた手を拭きながら振り返ってくる。

 かまわずに台所に入った俺は、炊飯器のタイマーを確かめた。

 タイマーを見ると、あと三分ほどでご飯も炊き上がるようだ。

「悪いけど、おにぎり作ってくれない」

「かまわないけど、どうしたの」

「菊乃が倒れたらしいから、見てくるわ」

「あら、菊乃ちゃんの所に行くのね。だったら、もう少し待ちなさい。夕飯、詰めてあげるから」

「いいよ。甘やかすからこうなるんだから」

「何を言ってるの。菊乃ちゃんの面倒は佳乃に頼まれてるのよ。ほら、お弁当箱」

 日頃は厨房に入られるのを嫌がるわりに、母さんは手伝いを頼んでくる。

 要するに、勝手に色々といじられるのが嫌なだけなんだろう。

 自分の許容範囲内で動かれる分には、扱い易い助手がいてもいいというわけだ。

 母さんに言われるままに弁当箱を取り出し、調理に戻った母さんの後姿を眺める。

 菊乃が母親になるところはまったく想像できないが、それは俺の母さんのせいだろうな。

 母親はしっかりしているべきという認識が、菊乃の母親姿を想像させてくれないんだ。

「菊乃ちゃん、アンタに電話してきたの」

「いや、いつも通りの二文字」

 いくら幼馴染だからといって、あの二文字で理解できると思う性格が怖い。

 今となっては、簡潔すぎるメールも菊乃らしいと思うようになったものだが。

「だったら、部屋の片付けもしてあげなさいよ」

「菊乃のアトリエを片付けるには、一週間泊まり込みだな」

「いいわよ、母さんは」

「そんなに追い出したいか、息子を」

「追い出したいわねぇ。そうすれば、陽彦さんと二人きりだし」

「いい歳して、恥ずかしいと思わないのか」

「思わないわねぇ。アンタ、邪魔だし」

「言い切りますか」

 息子を邪魔と断言する母親がどこにいる。

 菊乃といい、母さんといい、俺には女運がないらしい。

「ほら、アンタの分もお弁当に詰めてあげたから」

「むこうで食ってこいと」

「冷めちゃうでしょ。温かいうちに食べて欲しいもの」

「わかったよ。それじゃ、行ってきます」

「菊乃ちゃん、具合が悪かったらこっちに連れて来なさいね」

 こうして、妙に嬉しそうな母さんに送られて、俺は夕食前に出掛けることになった。

 

 

 

 二つの弁当箱を手に提げて、歩いて二分ほどの菊乃の家へ向かう。

 スープの冷めない距離というより、まさしく同じ町内に住んでいる。

 幼稚園から高校までは当然のように同じ学校に通っていたが、大学に入ってからは別々だ。

 菊乃は絵を描きたくて芸大に進んだし、俺は俺で普通の大学に進んだ。

「まったく……いつまでも扱き使いやがって」

 普通なら接点がなくなっているような間柄だろう。

 だが、菊乃の両親が海外出張になったところから話がややこしくなった。

 同じ町内で同じ学年の子供がいるとなれば、当然のように母親同士は仲良くなる。

 芸大に合格した菊乃を置いていくに当たって、母さんに面倒を見てくれるよう頼んだらしい。

 母さんも人がいいから、佳乃おばさんの頼みを二つ返事で受け入れたらしい。

 菊乃はそれをいいことに、俺を丁稚のごとく呼び出すようになった。

「菊乃、入るぞ」

 郵便受けに隠されている合鍵を使って、菊乃の家に上がりこむ。

 ご近所さんに見られれば誤解ものだが、さすがに俺たちの家の関係は知れ渡っているからな。

「菊乃、どこだ」

 家の中に入れば、油絵の具の匂いが鼻につく。

 菊乃のアトリエと称されているこの家は、完全に菊乃以外の人間が住めなくなっているに違いない。

「菊乃、返事くらいしろ」

 あの二文字のメールが来たってことは、かなり切羽詰った状況の筈だ。

 作品を描いている間は飲まず食わずでも気にしない人間だから性質が悪い。

「うぁ」

「そこか」

 猫の鳴き声のような言葉を聞きとって、俺は二階へ続く階段に足を踏み入れた。

 埃が舞い上がるほど掃除をしていないこの階段には、人の通った気配がまったくない。

 一体、どれだけの間、菊乃は一階に下りてないんだろう。不安になるな。

「母さんの弁当だぞ」

 餌付けしているような感覚になりそうだが、その感覚は間違ってないだろう。

 かすかな物音を頼りに、弁当を提灯代わりに提げて秘境を進んでいく。

「菊乃、生きてるなら返事しろ」

 生きてなければメールも送ってこれないわけだが、どうにもこの静けさは不安になる。

 毎回のこととはいえ、ここまで静かすぎると幽霊屋敷を進んでいるような錯覚に陥る。

「菊乃、開けるぞ」

 菊乃のアトリエと書かれている扉を通り過ぎて、隣の部屋を開ける。

 ここは菊乃の父さんが使っていた部屋で、ここには大きめのベッドがある。

 菊乃の部屋は画材などで完全にアトリエと化してしまっているから、いるとすればこの部屋だ。

 扉を開けると、カップラーメンの強烈な臭いが鼻を襲ってきた。

 カーテンを開け、窓を全開にする。

 停滞していた空気が巻き上がり、異臭を更に強烈なものへと変える。

 だが、これは部屋を正常に戻すために必要な儀式だ。

「菊乃……か」

 床の上に脱ぎ散らかされた服にも、まったく欲情は湧いてこない。

 絵の具で無造作に着色されてしまった服に欲情したなら、それはもう変態だ。

 人の汗を染み込ませた服ならその手のマニアに売れるだろうが、この服だけは売れないだろう。

 これは洗濯機というよりは廃棄処分だな。あとでゴミ袋にぶち込んでやる。

「……えい」

 ベッドの上のふくらみをつつくと、わずかに反応が帰ってくる。

 寝ぼけて身じろいだだけだろうが、とにかく生存者一名確認だ。

「先に風呂を沸かすか」

 弁当の袋を持ったまま、この家で唯一残されているであろう聖域に移動する。

 菊乃のこだわりらしいが、一階の和室だけは何があっても汚されていない。

 綺麗なままのちゃぶ台の上に弁当の入った袋を置いて、俺は服を着替えた。

 この家を掃除するためには、半袖半ズボンでなければ不可能だ。

 緊急用に置いてある俺の掃除専用服に着替えて、まずは風呂場に突撃する。

「む……使ってないな」

 シャワーを使った形跡はあるものの、浴槽はまったく汚れていない。

「軽く流すだけにしておくか」

 軽く水を流す程度で、浴槽にお湯を張り始める。

 洗い場はデッキブラシと洗剤を使ってシャカシャカと洗う程度でいいだろう。

「次は台所だな」

 何日かは自炊をしているらしいので、多少は使った形跡がある。

 俺が来るたびに口喧しく言っているせいで、生ゴミの類もしっかりと処理はしてある。

 ただ、山のように積み上げられた食器は、洗剤の泡ですべて片付けなくてはならない。

「スポンジも補充しないとな」

 前回に買い置きしていたスポンジは、そろそろなくなり始めている。

 洗剤の類はまったく使ってないのに、スポンジだけは消費が早い。

 多分、画材と化しているのだろう。

 

 たっぷり三十分ほどはかかって食器を洗い終えると、背後に人の気配を感じた。

 どうやら、菊乃が起きてきたらしい。

「龍彦……遅い」

「服着ろよ、バカッ」

 振り向いた視界に入ってきた裸体に、慌てて背中を向ける。

 このバカは自分が女で、俺が男であることを忘却しているらしい。

「めんどい」

「服ぐらい着てくれ」

「家だからいい」

「よくないッ」

 流行の腐女子の生態にだって、服ぐらいは着ていると書いてあったぞ。

 ブラはしていないらしいが、スウェットぐらいは着ているらしいからな。

 それを考えると、菊乃は腐女子よりも退化した人間……動物らしい。

「飯」

「先に身支度しろ」

「や」

「俺がいる」

「帰れ」

「殴るぞ」

 洗い終えた食器を乾燥台に並べ終えたところで、意を決して振り返る。

「……疲れた」

 菊乃は全裸でぐったりと柱にもたれかかっていた。

 さすがの男子大学生も、この姿に欲情することはない。

「立てるか」

「無理」

「まず、風呂入ろう、な」

 俺がそう言うと、少し微笑みながら腕を伸ばしてくる。

 完全に甘えたモードに入ってるようだが、ちょっぴり嬉しくなる。

 このまま襲いたくなるが、それだけは絶対に我慢だ。

「持ち上げるぞ」

「ん」

 なるべく裸を見ないように、背中に菊乃を背負う。

 本当に体重の軽い菊乃だが、さすがに成人女性を背負うのは骨が折れる。

 ましてや半分意識のないような状態だから、気を抜くと引きずりそうになってしまう。

「寝るなよ」

「ん」

 以前、背負った状態で眠られたことがあった。

 何でも、人の背中には眠りに誘う魔力があるらしい。

「ほら、一人で入れるな」

「ん」

 風呂場に立たせると、菊乃はそのまま浴室へ入っていく。

 ある意味、究極の風呂スタイルかもしれない。

 

 次にすることと言えば、菊乃が風呂に入っている間に寝室を片付けることだ。

 これをしておかないと、菊乃はあの汚い部屋で眠ることになるからだ。

「俺は家政夫か」

 自虐的に呟きながら、猛然と寝室を処理していく。

 脱ぎ散らかされていた服は全部ゴミ袋に放り込み、ゴミはゴミ箱へ処理する。

 最初は下着を手に取ることもためらっていたが、もはや何の感情も湧いてこない。

 湧いてはいけないのだ、絶対に。

「うわ、もったいねぇ」

 このブラ、シルクって書いてあるぞ。シルクって高くないのか。

 絵の具まみれになってるってことは、下着姿で絵を描いてるのか、菊乃は。

 危ない想像をしかけて、慌てて手にしていたものをゴミ袋へ放り込む。

 焼却処分だ、焼却。俺は危ない人間じゃないぞ。

「シーツは洗濯だな」

 シーツを剥ぎ取って、枕カバーも剥ぎ取って、布団のカバーも剥ぎ取る。

 服の洗濯物がない分、これだけやっても洗濯機の余裕はあるだろう。

 今は自分で洗濯槽すら掃除する万能洗濯機に投げ込んで、スイッチを入れる。

 乾燥機はないが、明日からの菊乃なら干すくらいはしてくれるだろう。

「ルーラーラー、宇宙の風に乗ーるぅ」

 調子外れの鼻歌が聞こえてくる。

 どうやら、少しは元気になってきたようだ。

 冷蔵庫の中身はほとんど残ってないが、そこも掃除しておいてやろう。

 お茶も沸かしておいてやったほうがいいよな。

 

 

 

 冷蔵庫を片付けて、ちょうど俺も服を着替え終わった頃だった。

「龍彦、和室に行っててー」

「わかったよ」

 風呂場から、菊乃が声を張り上げてきた。

 声の張り具合からして、もう元気になってるようだ。

 あとは母さんの弁当を食べれば大丈夫だろう。

 それを考えると、焼肉というチョイスはかなりタイミングがいい。

 さすがに長い付き合いだからな。母さんは菊乃のペースも把握してるのかもしれない。

「絶対、出て来ないでねー」

「はいはい」

 バタバタと二階へ駆け上がる足音が聞こえてくる。

 菊乃、裸で移動してるのかな。

 いやいや、変なことを考えるな。

「お茶、沸いたから止めにいくぞー」

「いいよー」

 菊乃に許可を取って、台所へと戻る。

 グラスに氷を三個ほど入れて、出来立てのお茶を注ぐ。

 氷の弾ける小気味よい音がして、俺は二人分のグラスを持って和室へ戻った。

「ありがと」

「着替えたのか」

 柄物のワンピースを着て座っている姿は、贔屓目ありで可愛らしい。

 絵の具に染まった服を着て、飯も食わずに絵を描いているときとは別人のようだ。

「さすがに、絵を描くときの格好だと龍彦に悪いし」

「すっぴんだな」

「化粧まではね。お風呂入ったところだし」

「それ、飯な」

「おばさんにありがとうって言いに行くね」

「後でいいから、まずは食えよ」

「それじゃ、遠慮なくいただきます」

 勢いよく手を合わせた菊乃が、貪るように弁当を平らげていく。

 俺と同じぐらいの量が入っているが、まったく食べるペースは衰えない。

「よく食うな」

「食べないともたないって」

「完成したのか」

「うん。締め切りまであと三日かな」

「余裕あるじゃないか」

「明後日に車、お願い。大学まで運ぶから」

「明後日か。三限目まで講義だな」

「龍彦が帰ってからでいいよ。夕飯、おごってあげる」

 足代は飯代でということらしい。

 別に不満はないが、どう考えても飯代の方が高いだろう。

「お前、仕送りだろ」

「この間、絵が売れたの。だから、ちょっとリッチ」

 そういえば、何か展覧会に出したとか言ってたな。

 絵の値段はわからないけれど、少なくともバイト代と同額ということはないだろう。

「画材に使えよ」

「画材は仕送りから出るし。ほら、お世話にもなってるし」

「なら、母さんにおごってやれよ」

「感謝はしてるけど、龍彦がいなかったら頼ってないよ」

 どうして女ってのは、こうも他人の心をくすぐるのが上手いんだ。

 これで折れない男がいるなら、そんな奴は男じゃない。

「……わかったよ」

「ありがとう」

 それからはしばらく無言だった。

 どちらかというと食べることに専念しあったからだが。

 ほぼ同じくらいに食べ終わった俺たちは、示しあうようにして立ち上がった。

「行こうか」

「あぁ」

 菊乃の家を出たところで、俺たちの目の前を宅配ピザのバイクが通り過ぎていく。

 道路脇に重なるようにしてバイクを避けた俺たちは、排気ガスが立ち消えるのを待って歩き始めた。

「あんまり、無茶するなよ」

「龍彦がいると思うと、ついつい限界までやっちゃうのよね」

「倒れたら洒落じゃすまないぞ」

「仕方ないよ。絵を描いてるときにセーブなんてしてたら、納得できないもの」

 そう言われると、俺に返す言葉はない。

 限界までやり続けることがあるなんて、羨ましいと思いこそすれ、馬鹿らしいとは思わない。

 すべてを忘れて没頭するからこそ、菊乃の絵は輝いているのだろう。

「無理だと思ったら、すぐに言うんだぞ」

「ありがと」

 そっと触れてきた手を握り返して、俺たち二人は俺の家へと歩き出す。

 ほんの少しの遠回りをしながら。

 

 

<了>