109908番リクエスト for 邦昭フィン様
あうん
「疲れた」
ヴェルトマー公爵の執務室で、ヴェルトマー公爵夫人となったフィーが机に突っ伏した。
同室で机の前に座っている彼女の夫はサインしている手を止めて、愛妻の仕草に苦言を呈する。「あのなぁ、倒れるなら私室で倒れてくれよ」
「疲れたのよ。何か文句でもあるわけ」
理解のない夫の言葉に、フィーが机の上にだらしなくへばりつきながら首を横に向ける。
妻から冷たい視線を浴びせられ、アーサーは無意識の内に書類で彼女の視線をガードする。「こっち見なさいよ」
「誰がメドゥーサの目を見るか」
「だったら、文句言わないで」
「でもなぁ、他人の目もあることだし」
「いいじゃない。公妃はお疲れなのよ」
身体を起こそうともしない妻にため息をついて、アーサーは机の上に置かれている呼び鈴に手をやった。
鈴の音を聞いて姿を見せた侍従に休息のための紅茶を申し付け、机の上に広がっている書類を片付ける。
その間も、フィーが体勢を立て直す気配はなかった。「公務で疲れるのはわかるけど、もう少し頑張ってくれよな」
「そりゃあ、アーサーに嫁いだんだから、少しは覚悟してたわよ。でもね、許容範囲外」
フィー自身、シレジア王家の第一王女として生まれている。
王家の責務としての公務も小さい頃から体験しており、多少のことでは根を上げない自信もあった。そのフィーをして、ヴェルトマー公爵夫人としての公務の多さには完全に白旗を挙げるしかなかった。
「まぁ、今は聖戦後ってのもあるからな」
聖戦の終結によってもたらされた政教分離は、公爵家へ公務が降りかかった一因でもある。
それまでは教団幹部が出席していた挨拶にさえ、公爵家の人間が駆り出されている。
それに加えて、暗黒教団下で却下されていた式典等が復活し、その忙しさは通常の倍ほどにも匹敵する。「それにしたって多過ぎるわよ。シレジアじゃ、こんなに多くはなかったわ」
事実、フィーの言うように、ヴェルトマー公爵家の仕事量は尋常ではなかった。
一日三回の会食への出席はもちろんのこと、酷いときには祝賀会を含めて一日五度の会食もあった。これは、ヴェルトマー家の体質にも原因がある。
元々、グランベル帝国には中央集権的な政治色が濃い。
どちらかと言えば地方分権型のシレジア王国に比べて、トップにかかる重圧は凄まじい。その中でも特にヴェルトマー家は、トップダウン式の傾向が強かった。
官僚機構の整っているフリージに比べると、公爵自身が下さなければならない決済の数は倍加する。聖戦中、イシュタルという後継者とヒルダ公爵夫人を外に出してさえ、フリージの基盤は揺るがなかった。
それに対して、アルヴィスというカリスマを失い、同時にアゼルという後継者を失ったヴェルトマーは脆かった。
他家に嫁いでいたヒルダが戻らなければならないほど、強力なリーダーを必要としていたのである。家臣団そのものが劣るわけでは決してないが、国の体制を変えることは容易ではない。
ましてや、アルヴィスにヒルダという強烈な指導者の後任はそれだけでも大変である。「少しずつ変えていくさ」
「大体、どうして美術館の完成式にまで行かなきゃいけないのよ」
「仕方ないだろう。そういうのは公妃の仕事って決まったんだから」
凝っていた首筋を動かしながら、アーサーは気のない返事を返す。
それを聞いたフィーが、烈火のごとく反論を開始する。「そんなの、誰でもいいじゃない」
「俺に文句言うなよ」
場所が変われば、仕事一筋の夫とそれに不満を持つ妻のような会話である。
このような場合の常として、我慢しきれなくなった妻が机を叩いて立ち上がった。「じゃあ、あたしのスペア作って。少しでいいから、公務での出張を減らしてよ」
「妾をもつのは嫌」
「あたしだって嫌よ」
「だったら、我慢しろよ」
「アーサーはサイアスに仕事を押し付けてるじゃない。あたしにも、サイアスみたいなスペア作ってよ」
「別に押し付けてるわけじゃないって」
苦笑しながら、アーサーは扉の開く音に反応する。
侍従の後から入ってきたのは、噂の宰相だった。「廊下にまで聞こえております」
「いいところに来たわね。サイアス、結婚しなさいよ」
「生憎と、相手がおりません」
「見つけてあげる」
「謹んで辞退させていただきます」
口をへの字に曲げた妻に代わり、アーサーは出来上がった書類の束を指し示す。
パラパラと目を通したサイアスが、少し表情を和らげながら詳細な指示を求める。「そっちの案件は全部書類通りに。港湾関係は仕事が細かいな」
「今の責任者はヴェンダレス卿ですね」
「彼か。それだと爵位が褒美ってわけにもいかないな。どうしようか」
「卿には年頃の息子がいたはずです。公が媒酌人を務めるというのでは」
「そうしよう。今度、会った時に言っておくか」
二人のやりとりを聞いていたフィーが、不満そうに口許を尖らせる。
「娘さんをサイアスがもらってやれば」
「残念ながら、卿に娘さんはおりませんよ」
「生ませなさい」
「んな、無茶な」
思わずツッコミを入れたアーサーの声を遮るように、侍従が紅茶とともに入ってくる。
興奮を鎮める作用を持つその香りに、フィーがようやく機嫌を直す。「先にちょうだい」
公妃の言葉に、侍従が躊躇うようにアーサーへ視線を送る。
「やかましいから、先にあげてくれ」
「はい」
紅茶と焼き菓子で機嫌を直しているフィーを他所に置いて、サイアスが小声でアーサーに報告を始める。
「それから、フリージの案件ですが、どうやらリンダ様を呼び戻されたご様子です」
「側近を増やすつもりか、ティニーは」
「いえ……どうもそれだけではないようです。リンダ様の側近ごと、ですから」
「妙な話だな。政敵を抱え込むようなものだぞ。どうするつもりなんだ」
「辞めるつもりなんでしょ」
男二人の会話に、フィーがカップを片手に割り込んでくる。
思わず会話を止めた二人からの視線に、当の公妃は逆に不思議そうな表情で言葉を続けた。「ティニー、結婚するのよ」
「誰と」
「お兄ちゃんに決まってるでしょ」
「聞いてないぞ」
「そりゃ、極秘事項だもん」
その極秘事項をさらりと口にするフィーに、サイアスが眉間を押さえる。
アーサーにしても、妹の結婚話を兄よりも先に義姉に伝えられた不愉快さを隠せない。「何でフィーが知ってるんだよ」
「手紙をもらったの。極秘だから、アーサーにも話さないでって」
「今、話してるじゃないか」
「リンダを呼び戻したってことは、すぐに発表があるわよ。そのとき、アーサーが知らないと怒るでしょ」
「まぁな」
「だから話したの」
いくら侍女長に窘められることの多いフィーでも、そこは王家の育ちである。
自らの握っている情報を流すタイミング等は、肌に叩きこまれていた。「ちょっと待てよ。明日、セティが視察に来るっていうのは」
「まぁ、単純に考えれば報告よね」
フィーの言葉に、アーサーは真面目な表情でサイアスを見つめた。
面倒ごとに巻き込まれたと思いながらも、サイアスもそれを顔に出すようなへまはしない。「サイアス、港湾担当者に言って、港を閉鎖しろ」
「無理です」
頼みにする宰相に却下され、アーサーはフィーの手をつかんだ。
表情は真剣そのものだが、彼を見るフィーの表情は呆れかえっている。「フィー、旅行に行こう」
「やーよ。いい加減、腹をくくりなさい」
「いいじゃん。サービスするよ」
「アーサーのサービスねぇ。ベッドの上でお返しを求められるし」
「変態ですね」
サイアスの冷静な批判にも、アーサーは気にすることなくフィーの手を握りなおす。
呆れたサイアスが無言で退室すると、アーサーは大胆にもフィーの背中へと手をまわした。「ちょっと、人が来たらどうするのよ」
「来ない。サイアスが止めてくれるさ」
「人の妹に白昼堂々と迫るとは、呆れた変態だな」
突如、窓ガラスの割れる音と同時に、聞きたくなかった声が聞こえてくる。
恐る恐る振り返ったアーサーの目に映ったのは、何故か窓枠に仁王立ちしているシレジア王の姿だった。「……ここ、三階だぞ。変態王子」
「君のような真正の変態に言われたくはないな」
「いや、お前の方が変だろ」
「人の妹にロウであんなことや、ロープでそんなことまでするような変態が」
「いや、しないって」
「フィー、離縁するならいつでもいいぞ」
「あ、うん。その予定はないわ」
ハッキリとそう言ってくれたフィーに胸を撫で下ろしつつ、アーサーは当然な疑問を口にする。
「というか、お前、明日に来る予定だろ」
「休暇も含めて、昨日に着いた」
「暇なのか」
「いや、単に風の向きがよくてな」
「そうかよ。まぁ、そんなとこに立ってずに、俺たちの部屋に行こうぜ」
「そうだな。窓の修理費はツケといてくれ」
そう言うと、セティは何事もなかったかのように窓枠から下りると、貴公子然とした表情をまとう。
その変わり身の早さに呆れながら、アーサーは妻と義兄を連れて私邸へと向かうことにした。
私邸での会食の後、人払いを済ませ、アーサーとフィーはセティと向きあっていた。
用意させた紅茶で口を湿らせると、セティが改まって頭を下げる。「本来ならばティニーと二人で挨拶に来なければならないが、事情があって私一人になってしまった」
「お前が妙なところに入ってきたからな」
「もぅ、茶化さないの」
セティの視察の翌日に、アーサーとティニーは意見交換会という形で会う約束になっていた。
本来ならば、セティとティニーがその場で揃ったときに、婚約の報告がなされる予定だった。「単刀直入に言おう。ティニーと結婚したい」
「勝手にしろ」
「まぁ、君が文句を言える立場でないことは私もわかる」
「だったら、何も聞かなくてもわかるだろう」
「だが、君が納得したという言質が欲しい」
包み隠さずに要求を突きつけるセティに、アーサーは大きくため息をついた。
先に妹を奪った立場上、アーサーに反対できる素地はない。「ティニーを泣かせるようなことがあれば、容赦はしない」
「約束しよう。生涯をかけて、彼女を守ると」
「なら、これで話は終わりだな。部屋を用意してあるから、そっちで眠ってくれ」
「あぁ……随分とあっさり引き下がったな」
「疲れてるんだよ。さっさと二人きりにさせろ」
心底疲れた表情を見せるアーサーに、フィーがセティを睨む。
一瞬、セティの眦が上がるが、最後には視線を外して立ち上がった。「わかった。詳しい話は明日以降ということで」
「そうしてくれ。部屋はその辺の奴に聞いてくれや」
「わかった。ゆっくりさせてもらおう」
セティが退室し、二人きりになると、フィーがアーサーの肩を叩いた。
「お疲れ様」
「セティの奴、確信犯的に早く来やがったな」
「その辺はお父様に似てるからね。嫌味なのよ、親子して」
「フィー、お願い」
アーサーの求めに応じて、フィーが正面からアーサーを抱きしめる。
「甘えんぼなんだから」
「フィーには甘えたくなるんだよ。柔らかいじゃん」
「お兄ちゃんが見たら、血相変えて怒鳴り込んでくるかも」
「やだね。誰にも邪魔させるかよ」
そう言うと、アーサーはしっかりと腕をまわし、フィーを密着させた。
「もっと、二人きりでいれたらいいのにね」
アーサーの髪を撫でながら、フィーが軽くハミングを始める。
まるで子守唄のようなフィーの声に、アーサーはフィーを胸の前で抱えて立ち上がった。「邪魔が入らないところに行こう」
「この体勢で」
しっかりとアーサーの首に腕をまわしておきながら、フィーがクスリと笑う。
「見られても構わないさ」
「落とさずに行けたら、サービスしてあげるわ」
「張り切っちゃうよ、俺」
フィーが首を伸ばして、アーサーの首筋をついばむ。
少し足早になりながら、アーサーはお姫様抱っこした妻を落とさないように運んでいく。部屋までの距離は百メートルもないだろう。
彼の幸せは、すぐそこにある。
<了>