44444番リクエスト for 宮内碧依様

アレスの旅立ち


 暖かい日差しが、調理場に立つラケシスの金髪を輝かせていた。

 レンスターへと逃げのびてから、ラケシスは体調を崩すことなく、隠遁生活を送っていた。

 そして、隠遁生活を始めてからは、毎日のように調理場へ立つようになっていた。

 それまでは調理場に立ったことのなかった彼女も、必要に迫られたのである。

 しかし、幸運なことに、ラケシスは料理の面白さに気付いてしまったのである。

「今日はミネストローネにしましょう」

 幼い頃から宮廷に住み、その宮廷料理で鍛えられた舌は確かである。

 それにシレジアでの苦労が加わり、料理の腕はここにきて、確実に上昇の一途を辿っていた。

「ナンナ、外で遊んでいなさい」

 普段はラケシスの背中をついてまわるナンナも、調理中は調理場に入ってはいけないことになっている。

 それだけ、調理場はラケシスの城と化していた。

 宮廷じこみの厳しい躾で育てられたデルムッドも、一度厳しく叱られてからは、その言付けを破らない。

「ははうえ、てがみ」

 そう言ってラケシスのスカートを引っ張ったのは、二歳になったばかりのナンナだった。

 近頃は多くの単語を覚え、誰彼かまわずに会話を吹っかけるようになっている。

「あら、ナンナ。どうしたの、それは」

 入って来たナンナが用事を持っているとわかり、ラケシスは優しい顔でナンナを振り返った。

「ははうえの。おひげのひと」

 ナンナは片手で手紙を渡そうとしながら、もう片方の手では、自分のあごをくるくると触っていた。 

 それを見たラケシスは、調理の手を止めて、ナンナから手紙を受け取った。

「どんな人だった?」

「おひげまっしろ。えとね、うまのしっぽ。うまのしっぽ」

「長いお髭だったのね」

「うんっ」

 我が意を得たりと大きく頷いたナンナに、ラケシスはにっこりと微笑んだ。

「偉いわ、ナンナ」

「ナンナ、えらいの」

「そうよ。じゃあ、偉いナンナにごほうびね」

 そう言うと、ラケシスはサラダ用に切ろうとしていたキュウリを、スティック状に切った。

 ラケシスの手で食べやすいスティック状に切り分けられたキュウリを受け取って、ナンナが手を叩いた。

「キュウリー」

「はい、ナンナ」

「まま、だいすき」

 行儀よくイスに座ってキュウリをかじり始めたナンナを横目に、ラケシスは手紙の封を切った。

 

 レンスター国境付近にて、トラキア竜騎士の一団を発見。

  一個小隊だけでなく、一個大隊の模様。後方部隊に剣士隊を確認。

  装備から判断し、新たな戦争ではなく、捜索隊の可能性あり。

  至急、アレス様のレンスターからの脱出を提言するもの也。      

 

 手紙の内容を読んでから、ラケシスは差出人の名前を確認した。

「……ラインハルトからね。どうやら、本当に危険なようね」

 アレスの母・グラーニェの実家を頼り、アグストリアを離れて四年。

 レンスター城の落城と同時に、ラケシスはアレスと二人の子供達を伴っての隠遁生活に入っていた。

 トラキア王国とフリージ公国に挟まれたこの村は、両国からの干渉を受けずに済む村だった。

 事前に隠遁場所を探し終えていたベオウルフの勧めで居を構え、今までは無事に暮らしていたのだ。

 そこへきての、レンスター旧臣からの書状である。

「これまでか……」

 ラケシスが真剣な表情で思い悩んでいると、ナンナの能天気な声が、母親の意識を娘へと向けさせた。

「まま、ごはん」

「今、御褒美をあげたわ」

「みんな、ごはん。おなかすいた」

 中途半端に食べたせいで、余計に胃が刺激を受けたのだろう。

 幸い、料理の下ごしらえは完了している。

 ラケシスは新たに火を点けながら、ナンナに全員を呼んでくるように告げた。

「はい!」

 元気良く家の外へ飛び出していった愛娘を見ながら、ラケシスは調理の仕上げに取りかかった。

 

 

「そうだ、それでいい」

 朽ち始めた牧場の柵を、少年の乗った馬が飛び超えた。

 見事な手綱捌きで馬を操る少年の瞳は、周囲の者が平伏してしまうほど鋭く、また威厳に満ちている。

 その少年の手綱捌きに拍手を送るもう一人の少年の側で、一人の精悍な男が軽く頷いていた。

「まぁ、それくらい乗れりゃ、文句はねぇな」

「……わかった」

 馬の手綱を引き、馬の足を止めた少年は、男の言葉にそれだけ答えると、静かに馬を下りた。

 少年の無愛想さにも気分を害することなく、男は小さく笑って、少年の手から手綱を取り上げた。

「デッド、馬の世話を頼むぞ」

「はい、父上」

 先程まで拍手を送っていたデルムッドが手綱を渡され、笑顔で馬を引っ張っていく。

 デルムッドの後姿にしばし視線をやっていた無愛想な少年は、無言でベオウルフを睨みつけた。

「そう、怖い顔をするな。馬ってのはな、大切にしなくちゃいけねぇが、愛し過ぎても駄目なんだ」

「自分の馬の世話は自分でする」

「お前さんはアグストリアを背負う人間になるんだぜ。他に覚えなきゃならねぇことが多すぎる」

 ベオウルフはそう言うと、アレスに対して肩を竦めた。

「ま、それは俺が教えられることじゃねぇが」

 しかし、アレスから帰ってきた言葉は、軽いものを期待していたベオウルフにとって、予想外のものだった。

「……オレは、強くなれるのか?」

 ややうつむき加減に地面を見つめたまま、アレスが尋ねる。

 子供ながら感情のこもりきらない言葉に、ベオウルフも気軽に答えることはできなかった。

 求めている答えがわからずに黙ったままでいることもできず、ベオウルフはため息と共に言葉をつなぐ。

「……お前さんが強くなりたけりゃ、強くなるさ」

「オレは、強くなりたい。もう二度と、母を殺されたりしたくない」

 低い声で、しかしはっきりと告げたアレスを、ベオウルフは微笑ましく思った。

 彼がアレスの年頃だった頃は、日々を生きるために必死な少年だった。

 たまたま才に恵まれた剣を片手に、賞金稼ぎから傭兵へ。

 自由騎士の称号を得る機会に恵まれ、それなりの自由と名声を手に入れた。

 しかし、本当に守らなければならない存在に出会ったのは、騎士としての最盛期を過ぎ始めた頃。

 守らなければならない者を残して旅に出るには、あまりにも歳と傷を負い過ぎていた。

「お前さんなら、やれるさ」

 小さく呟いたベオウルフは、呟きに気付かなかったらしいアレスを呼びつけた。

「ついて来な。見せたいもんがある」

 そう言って、ベオウルフは馬小屋の隣にある、小さな小屋の中へと入って行った。

 アレスが何も疑わずに小屋へ入ると、まず目に付いたのは、色とりどりの装飾品。

 そのどれも、武器としての応用が利きそうなものばかりであった。

「これは?」

「暗器って呼ばれてるもんだ。髪留めとかに見えるが、その実、立派な刃物だ」

 装飾品に目を奪われているアレスに、簡単な説明を施す。

 そして、ベオウルフは小屋の奥に鎮座されている剣を手にし、剣をアレスへと近付けた。

「この剣は?」

「ミストルティン。お前さんの剣だよ」

「これが……」

 促されるままに聖剣を手にしたアレスは、己の内から沸き上がる力のようなものに震えだす。

 それを少し離れた位置で見ていたベオウルフが、自らの退路のために小屋の外へと移動して行く。

「とうさま!」

 小屋を出るなり目の前に飛び込んできたナンナを受け止めて、ベオウルフは中のアレスへと声をかけた。

「飯だぞ、飯!」

「そう、めしー」

 無邪気にベオウルフの言葉を繰り返す愛娘に、ベオウルフの頬が緩んだ。

 

 

 食後、ラケシスに渡された書状を読み終えたベオウルフは、険しい表情で書状を切り裂いた。

 ナンナとデルムッドを寝かしつけて食堂へと戻ったラケシスが、読めなくなった書状に視線を落とす。

「何も破らなくてもよかったのではありませんこと」

「アレスに読まれてみろ。一人で出て行きかねんぞ、アイツは」

 そう言ったベオウルフは、ラケシスが拾い集めた書状の切れ端に、マッチで火をつけていった。

 食器の上で燃え尽きた書状の灰を見つめながら、ラケシスがベオウルフに相談をもちかける。

「ねぇ、どうすればいいのかしら」

「どうするも何も、時期が悪すぎるぜ。アグストリアの情勢、ここらの情勢。どれをとっても動く時じゃねぇ」

 ベオウルフの指摘どおりだった。

 元々、アグストリアを追われ、グラーニェの実家であるレンスターを頼って落ち延びているのだ。

 その上、そのレンスターが苦境に立たされたからと言って、さらに逃げられる場所などはない。

「でも、このままだとアレスが……」

「暗黒教団の子供狩りが始まってんだ。下手なところに逃げ込めば、その時点で終わりだ」

「でもっ」

 なおも食い下がるラケシスに、ベオウルフは軽く首を横に振った。

「少なくとも、アグストリアの状況がわかるまでは、ここにいるしかないぜ」

「エヴァ達が、必ずオーガヒルを奪っている筈だわ」

「だから、俺が行って見てくる。往復する時間ぐらいは、お前も我慢するんだな」

「そのようなもの、待っていられるわけがないでしょう!」

「待て!」

 ベオウルフの言葉に、ラケムシスの眦が釣り上がった。

 しかし、ベオウルフはラケシスの表情などにお構いなく、食堂の扉を開き、家の外へと飛び出していた。

 急に席を立たれたラケシスが怒りながらもその後を追うと、高らかな嘶きと共に、軽快な音が響きだした。

「え?」

「アレスの野郎、聞いてやがったな」

 ベオウルフの呟きに、ラケシスが慌てて小屋へと向かう。

「まさか、あの子……」

 急いで小屋の中を調べたラケシスは、ミストルティンがないことに気付き、小屋を飛び出した。

 しかし、すぐに厩舎から戻って来たベオウルフの腕の中へと抑えつけられる。

「ミストルティンがないわ!」

「アレスの馬もなくなってやがる」

「どうしましょう!」

 あまりの出来事にパニックになっているラケシスを抑えながら家に戻ると、そこにはデルムッドが立っていた。

 予想していなかった息子の登場に二人が驚いていると、デルムッドが泣きながらラケシスへとすがりついた。

「母上、アレスが、アレスが!」

「アレスがどこに行ったのか、知っているのッ?」

「アグストリアへ帰るって!」

「アグストリアへ帰るですって?」

 デルムッドの言葉を聞いて、ラケシスがベオウルフへとすがるような視線を送る。

 ベオウルフも静かに状況を頭の中で整理すると、ラケシスに泣きついているデルムッドの頭に手を置いた。

「……よく聞いてたな、デッド」

「父上」

 泣き顔のまま上を向いたデルムッドに、ベオウルフは微笑んでみせた。

 デルムッドが鼻をすすりながら涙を止める間に、ラケシスが落ち着いた口調を取り戻していた。

「ベオ」

「アグストリアに行ってくる。アレスを途中で捕まえられれば、一緒にな」

「気を付けて。もしかしたら、貴方にも手配書が……」

「そこまで鈍っちゃいねぇよ。ラケシス、デッドとナンナを頼むぜ」

「ベオ……」

 二人の会話を聞いていたデルムッドが、ラケシスのそばを離れ、ベオウルフへと駆け寄る。

 ベオウルフは、駆け寄ってきた息子を高々と持ち上げた。

「デッド、お前はラケシスの息子だ。ノディオン王家の人間として、恥じることのないようにするんだぜ」

「父上、必ず迎えに来て下さいね」

「あぁ、約束だ。男と男の約束だ」

 抱え上げられながら小指を伸ばしたデルムッドを地面へ下ろし、ベオウルフは自分の小指を絡ませた。

 笑顔で絡まった小指を振ったデルムッドに、見守っていたラケシスも微笑を浮かべる。

「ベオ、元気で」

「アレスのことなら心配ない。あの剣を持つ者は、エルトがきっと守るさ」

「えぇ」

「機をみて、デッドをオイフェのところへ送ってもいいように、できることをしておいてくれや」

「わかりましたわ」

 ラケシスがそう応えると、ベオウルフは小屋の中へと姿を消した。

 ラケシスがナンナを起こしに行く間も与えずに小屋から出てきたベオウルフへ、ラケシスが手を伸ばす。

 伸ばされた手には応えずに、ベオウルフは愛馬へと飛び乗った。

「ベオ、貴方はまだ私に雇われているのよ。それを忘れないで」

「お姫様を悲しませるようなことはしねぇよ。俺も、一応は騎士なんだぜ」

「……そうね。騎士は主君に仕えるものね」

「あぁ。裏切りはしねぇ」

「できる限り、待つわ」

「起きたら、ナンナにも言っとけ。ちょっとの辛抱だってな」

「えぇ」

 ベオウルフの馬に触ろうとするデルムッドを腕の中へ押さえつけて、ラケシスは笑顔を浮かべた。

 それに応えるように、ベオウルフが馬上で親指を立てて笑った。

 馬の蹄の音が小さくなっていくのを、ラケシスとデルムッドの二人はじっとして待っていた。

「……母上、泣いてるのですか?」

 背中に震えを感じたデルムッドが、真っ直ぐに上を見上げた。

 デルムッドの視界では、ラケシスが泣いているかどうかを確認することはできない。

 ただ、長く下ろされた髪が、静かに左右に触れていた。

「デッド、これからは私が乗馬を教えます。貴方も、王家の者として恥じない力を身に付けるのよ」

「はい、母上」

「いい子ね……本当、いい子よ」

 小さく呟いたラケシスの言葉は、デルムッドには聞こえなかった。

 しかし、強く背中へ押さえつけるラケシスの両腕が、デルムッドにラケシスの涙を教えていた。

 

<了>