伊賀忍法伝

法の章


 

 

 初夏の匂いが漂い、その厳しさがそろそろ増してくるであろう日差しが、森林に捕まりながら緑色の光と匂いを漂わせ、その深い森を、汚れ無き自然の息吹が支配していた。
 雑草が生い茂る地面にも、昆虫や虫達が生命の息吹をその小さな身体から発散させ、蟷螂(カマキリ)が飛蝗(バッタ)を捕まえ、蜥蜴(コオロギ)が小さな虫を捕まえている。
 この世界で数多くの食物連鎖が、今も行なわれている。
 その自然の宝庫の場所に、一人の若者が崖から降りてきた。
  忍び装束姿で、一人の小柄な少女を両手で自分の胸に抱きしめながら、地面に着地した後、すぐさま疾走する。
 少女を抱えているとは思えぬほどの疾さで、その伊賀の若者、夜叉丸は恋人の蛍火を抱きかかえ、森の奥へと走っていく。
 「蛍火!蛍火!」
 彼女を抱きながら走り、気を失っている彼女に語る。
 蛍火は小さいがふくよかな唇から、微かに息を吸ったり吐いたりしていて、夜叉丸は安堵の息を漏らした。
 だが、普通の少女なら、あの崖を転がり落ちた時点で死んでいる。
 蛍火は、可憐な少女に見えるが、伊賀のくノ一、女忍者だ。受身や衝撃を和らげる術は心得ており、気を失いながらも無意識にその術を使い、掠り傷を身体中に作りはしたが、致命的な傷は無い。
 夜叉丸は敵から隠れなくてはいけなかった。
 自分の黒紐は失い、そして蛍火は気を失っている。
 このままでは不利だ。とにかく、隠れて反撃の機会を待たねばならない。
 その頃、夜叉丸が着地した場所で、崖から『蛇身化』し、全身をくねらせながら、崖を転がるように降りてきた大蛇坊が、そして水を板にしてサーフボードの様に崖を下ってきた水魔坊の二人が降りてきた。
 「素早い!どこに行きやがった?!」
 水魔坊が叫び、大蛇坊が周囲を見渡し、近くの大木に絡まりながら登っていく。
 首から下が倍に細長く伸び、蛇の様に身体をくねらせる『蛇身化』。
 この異形の忍法を武器に、大蛇坊は生い茂る木々の上に消えた。
 水魔坊も細長い四肢を巧みに動かし、木々の上に飛んだ。
 その二人の追っ手に気付きながらも、夜叉丸は恋人を抱きかかえ、滝へと向かった。
 あそこに『ぬしさま』がいる。
 夜叉丸はそれが蛍火の強力な武器になると信じている。
 今の自分は忍法を失っている今、自慢の敏捷性と跳躍力で勝負するしかないのだ。
 「……や、夜叉丸…どの」
 自分の胸から、恋人の小さな声が聞こえた。
 「蛍火!」
 蛍火は力なく笑い、夜叉丸の胸に顔を埋め、小さな声で、
 「そちらに大岩があります。……その大岩の横にそびえ立つ大木の根元に隠れるのに相応しい洞穴があります」
 「そうか、分かった」
 夜叉丸は微笑し、一気に疾走した。

 

 

 筑摩小四郎と、鬼頭双之助が着地した。
 「夜叉丸、蛍火!」
 荒武者の風格漂わせる小四郎が叫ぶと、剣豪の印象を与える双之助が、
 「落ち着け、小四郎。夜叉丸の事だ。『ぬしさま』の住む滝にいったであろう。急ぐぞ!」
 「承知!」
 二人の若い忍者が滝に向かって走った後、暫くして修羅坊が降り立った。
 「双之助!どこだ!」
 修羅坊は叫び、疾走していく。
 その後に、針鼠坊が四肢を大の字に広げ、腹ばいに状態で回転しながら空中からゆっくりと降り立ち、その背中に乗っていた覇王坊も針鼠坊が着地寸前に、飛び降りて着地した。
 「…ううむ、年かの、目が少し回ったわ」
 「覇王坊様。全員が北へ走りました」
 「…うむ、しかし、紀州も山国だと思っていたが、この伊賀も凄まじいな」
 密林の様なこの奥地で覇王坊はふと感心したように呟く。
 「覇王坊様。これではまるで鬼や天狗が出てきそうですな」
 「心配するな、儂等は天狗より鬼より強い!」
 覇王坊の笑みに、力士の様な肥満力の偉丈夫な身体の針鼠坊が笑い、二人は同時に疾走した。
 その頃には、大蛇坊と水魔坊が大岩の上を通り過ぎていた。
 その大岩の横の大木の根元で、抉れて窪んだ洞穴に、夜叉丸と蛍火がいた。
 かなりの奥まで『く』の字に曲がり、奥は外からは全く見えない場所だ。
 痛みを感じながらも蛍火は身体を徐々に覚醒させていき、
 「夜叉丸どの。…ありがとうございます、助けていただいて…」
 今の蛍火の瞳は、忍びではなく、恋する乙女の瞳だ。
 清楚で、柔らかい情熱的な眼差しで夜叉丸を見ている。
 夜叉丸は、頬を少し紅に染めながらも、不敵に笑い、蛍火を抱き寄せた。
 「気にするな、俺がお前を助けるのに理由はいらねえ」
 二人は頬を染めながらも、互いの身を寄せ合い、暫くはそのままでいた。
 恋人としての優しくも、甘美な時間。
 だが、二人は伊賀忍者だ。すぐに、伊賀忍者の眼差しに戻り、
 「蛍火、『ぬしさま』の縄張りは近いのか?」
 「いえ、もう少しです。急ぎましょう」
 そのとき、自分の肩を抱き寄せる夜叉丸の腕の手甲に、夜叉丸の自慢の黒紐が巻き付いていないのに気付き、
 「…夜叉丸どの?…黒紐は」
 「大蛇坊の奴に潰された」
 苦々しそうに呟く夜叉丸を見て、蛍火はすぐに決意を固めた。
 蛍火は小柄な肢体をすくっと伸ばして立ち上がり、左腕で日本人形の様な自分の髪の毛を背中の首筋でまとめて、右手の小刀でざっくりと切り落としたのだ。
 「!」
 これには夜叉丸も驚きの声を漏らした。
 恋人の、蛍火の綺麗な日本人形の髪の毛が今は彼女の左腕に束ねられ、強引に切り落としたためか、少し痛みを感じたのを顔に浮き出しながらも、夜叉丸に優しい笑みを浮かべている。
 夜叉丸ははっとした。
 そう、自分の忍法の『黒紐』は、敵を薙ぎ払い、斬り、絡める万能の紐。
 その黒縄の紐は、独自の結い方で、『女の髪』を繋ぎ、獣脂を染み込ませる……
 「夜叉丸どの、私の髪をお使いくださいませ」
 日本人形の様な美しい髪型は今、整えの悪いおかっぱ髪になってしまったが、それでも、その緑光の日差しを浴びて立つ蛍火の姿は、夜叉丸にとって今まで見てきたどんな蛍火よりも美しく、神秘的に見えたのだ。
 「ここは獣も多く、獣脂もすぐに獲れます」
 「蛍火……、黒縄の紐は、結う刻は長い」
 「それまで、私が夜叉丸どのを、お守りいたします」
 柔らかい、清楚な可憐な表情と声で、蛍火は夜叉丸に自分の髪の毛を渡そうとする。
 「…、良いのか?女にとって髪の毛は命より大事なんだろう」
 すると、蛍火は微笑しながら首を横に振りながら、柔らかいが、はっきりと、
 「はい、でも、その命より大事な髪の毛よりも、私にとっては夜叉丸どのの方が、大事です」
 ……夜叉丸は、今は伊賀の忍者としてではなく、恋する少年の気持ちになっていた。
 だが、今は蛍火を力いっぱい抱きしめたい気持ちを押さえた。
 そう、今は抱きしめるより、その蛍火の髪の毛を、大事に受け取る事が、彼女への愛へ答える事なのだ。
 夜叉丸は、黙って、そして、力強く頷き、彼女の髪の毛の束を受け取った。
 「すまない、蛍火」
 蛍火の見事な黒髪の束が自分の手に握り締められた。
 何度も抱きたい、何度も触りたかった彼女の髪を受け止め、夜叉丸はそれを髪の毛一本も落とさず、大事に使い、自分の黒縄の紐にする事を誓った。
 「夜叉丸どの。私は獣脂になる獣を捕まえてきます」

 

 

 鬼頭双之助が、意識を鬼頭双次郎に変え、木々の上に飛び移りながら、双飛短剣を巧みに扱っていた。
 紐につながれた二本の短剣が宙を切り裂き、修羅坊に襲い掛かる。
 修羅坊も、木々を飛び移りながら、十手でそれを弾き返し、十手を口に咥え、隠し持っていた小石を掌に持ち、双次郎に向けて一気に音速を超えた動きで小石を飛び立たせた。
 「根来忍法、『雷竜弾』」
 双次郎は大木の背後に隠れ、近くの枝が音速を超えて飛んで来た小石で吹き飛ばされた後、轟音が響いた。
 それを隠れながら双次郎が、
 「なんだ、雷みたいに後から音が来た?」
 「落ち着け、威力は落ちている。足場がしっかりしていないと威力は半減するようだ」
 同じ口から、双之助が呟くと、再び双次郎が、
 「半減しても、あれを喰らったら死ぬよ」
 その近くで針鼠坊が、双次郎に髪の毛を針金に変化させ、飛ばしてくる。
 それを双次郎は、更に上に跳躍し、この大きな杉の木の頂に登りつめた。

 その杉の木の下で、小四郎が、覇王坊と戦っていた。
 覇王坊は錫状を回転させながら襲い、小四郎は大鎌で弾き返しながら、戦っている。
 老獪な動きで戦う覇王坊に対し、小四郎の動きは、若々しく、生命力に漲っている。
 「小僧、やるな!」
 「根来の山猿如き!」
 小四郎は不敵に笑い、口先を尖らせた。
 その瞬間、覇王坊は、疾風迅雷の動きで背後に飛び、彼の顔があった空間が甲高い弾ける音がした。
 距離が開いた瞬間、小四郎は続けて口先を尖らせ、息を吸い続ける。
 覇王坊は老人と思えぬほどの瞬発力を見せて、横へ、森の中へと飛んでいく。
 その彼の通り過ぎた後で、雑草が弾け、大木が砕けていく。
 そして大木の背後を通り抜けた瞬間、覇王坊は円盤状の手裏剣を投げつけてきた。
 旋回しながら、違う軌道を取りながら別々に小四郎に襲い掛かる。
 小四郎はそれを大鎌で連続して弾き返したが、それでも円盤は再び覇王坊の手に戻り、再び時間を置いて投げつけてきた。
 「忍法『円盤返し』!」
 「垢抜けないぜ、さすがは爺だぜぇ!」
 小四郎が叫ぶ。
 全身を一度、凝縮させるように縮込ませた後、一気に全身のバネを利かせて飛び上がった。
 その小四郎の後を追いかけるように、円盤が後を追いかける。
 獲物を定めた鷹の如く、二匹の無機質の鷹が高速回転しながら小四郎に襲い、その刃の羽根が、小四郎の生き血を啜ろうとせまってきた。
 だが、小四郎は笑いながら、それを大鎌で弾き返し、空中で攻撃態勢を整え、口先を尖らせて覇王坊に向かって息を吸った。
 覇王坊は、それを躱して両手で投げた円盤を戻し、両手に掴みながら疾走する。
 老人とは思えぬ動きで小四郎に近付く。
 錫状を構え、柄の尖った先端を小四郎に向けて突進する。
 小四郎も大鎌を片手で構え大きく振りかざした。

 

 

 この大木の根元の洞穴で、夜叉丸が蛍火の髪の毛を結い始めた。
 それを独自の方法で結い、先ほど捕まえた猪を殺して、その脂肪を取り出し、その髪の毛に塗っていく。
 この技は、伝授した者だけが、結い方を知り、それを武器とする。
 蛍火の髪の毛を大事に結い、自分の武器へと変える夜叉丸。
 今まで何度も黒縄の紐を結ってきたが、今回ほど、大切に使わねばと思わずにいられないことはなかった。
 この髪の毛一本一本が愛しく、大切な女性が渡してくれた、……ドジな俺がたった一人の敵に奪われた黒縄の紐を、蛍火が何のためらいも無く、髪の毛を切り落としてくれたのだ。
 今は、早く黒縄の紐を復活させる事が、彼女への気持ちに応えることだ。
 その洞穴の入り口で、数十匹の蜘蛛が洞穴の前で洗練された組織的な動きで大きな巣を完成させた。
 普通、蜘蛛はひとつの巣を作るのに八時間かかる。
 だが、その蜘蛛を操り、数十匹の蜘蛛を使って大きな巣穴を完成させたのは蛍火であった。
 背中まで流れていた黒髪は、今はおかっぱの髪となっている。
 数十匹使えば、三十分ほどで、組織的に動かし、巣を作らせた。
 これで根来忍法僧が通っても、この中で夜叉丸が黒縄の紐を作る作業をしているとは思えないだろう。
 蜘蛛達は、立ち去り、一匹の蜘蛛だけがそこに残った。
 彼女は、ここにいれば、夜叉丸の存在も知られると思い、この場を立ち去った。
 夜叉丸が黒縄の紐を完成させるまで、時間を稼ぐのだ。
 だが、蛍火は、その可憐な表情を不気味に笑わせた。
 (しかし、私には根来僧を倒せる忍法がある)
 彼女は、そのまま、奈落滝へと走っていく。
 暫くすると、彼女は背後から殺気を感じた。
 振り向くと、両腕の無い痩身長身の根来忍法僧が迫ってきた。
 大蛇坊だ!
 「いたぞ!小娘だ!」
 大蛇坊は叫び、『海鳴り』を使って仲間に伝え、走りながら『蛇身化』を始めた。
 首から下の肉体が飴細工の様に伸びだし、倍近く伸び、歪曲しながら地面に伏せて、蛇の様に身をくねらせて蛍火に迫ってきた。
 蛍火は、印を結び、周囲から蝶の大群を呼び寄せる。
 胡蝶乱舞。
 色彩豊かな蝶の大群が周囲を囲み、彼女の周りで枯葉の如く舞い踊る。
 大蛇坊は、唾液を飛ばすが、蝶が盾となり、彼女の身を守りながら、上空から大量の燐粉が大蛇坊に降り注がれる。
 「おのれぇ!」
 大蛇坊は、その不快感に耐えながらも、近くの大木に身体を巻きつけて登っていく。
 「逃がさぬ、大蛇坊!」
 先ほど、尻尾で叩き落された恨みを晴らす為に、蝶を撒き散らした後、両手から毒蛇を二匹放った。
 「お行き!奴を毒殺するのよ!」
 大蛇坊の後を追いかけて二匹の毒蛇が追いかける。
 それを大蛇坊が毒の唾液で跳ね除け、上半身をくねらせてバネの様に全身をくねらせて大木から滑空し、違う木に飛び移り、その気に身体を巻きつけて再び移動する。
 その異様な動きと奇怪な行動には、さすがの蛍火も眉をひそめずに居られない。
 「雨夜陣五郎どのより奇怪な」

 その名前は伊賀の中忍の男である。
 水死体の様に膨れた青ざめた肌と、苔が生えたような肌が特徴の男で、全身がナメクジの様な男で、事実、塩に触れると、身体が溶け出し、軟体化する。
 だが、人間の高等な意識は残っており、ナメクジとなった身体で天井を這い、壁を這いながら、口に咥えている小刀で暗殺する、暗殺専門の忍者だ。

 そのナメクジ人間が居たのなら、この大蛇人間もいたのだ。
 しかも蛇は、木に巻きついていると中々見えない。
 しかも移動するのにも音を立てないし、気配すら感じさせない。
 彼女は、身の危険を感じ、蝶の群を自分の周囲に飛び散らせ、走り出した。
 行く場所は奈落滝。
 疾走する彼女に気付き、大蛇坊も気配を絶ちながら追いかける。
 追いかけるのは簡単だ。彼女の周囲には蝶が飛び待っている。
 その蝶の群を追いかければ良いのだ。
 蝶の大群が渦となり彼女を守りながら乱舞し、木々の上に絡みながら大蛇坊が追いかける。
 その追いかけている大蛇坊が突然叫んだ。
 「しまった!騙された!」
 大蛇坊が全身をくねらせてバネの様に跳躍し、地面に降り立ち、両腕の無い人間の姿に戻った。
 そして蝶の群を見ると、それは本当の蝶の群であり、中に彼女は居なかったのだ。
 逆三角形の、濁った眼差しを激怒させ、大蛇坊は周囲を見渡す。
 蝶の群を操り、何時の間にか蛍火は消えうせ、別の場所に移動したのだ。

 それでは、彼女はどこに移動したのだろうか?
 実は既に、奈落滝に来ていたのだ。

 

 

 標高差三〇mの滝が、飛沫と虹を描き、周囲の岩肌に苔とぬめりを与え続けている。
 楕円形の滝壷は、岩肌に囲まれ、南へ流れていき、そこにわずかな砂浜があり、彼女はそこに立っていた。
 岩肌の周囲は鬱蒼とした高い木々に囲まれ、その木々の根元は雑草に覆われており、彼女は自分の来た方向へ向きなおし、片膝を付いて座り、印を結びだす。
 だが、蝶は来なかった。蟻や蜂も来なかった。
 それでも彼女は印を結び念じ続ける。
 彼女の背後の滝は轟音を響かせて大量の水が流れ落ち、その大きな滝壷の水面にはトンボや虫が飛び交っているが、蛍火に操られている様子はない。
 いや、むしろ、突然虫たちは飛び散った。
 水面から虫が逃げ去り、その水面が揺れ動いている。
 おそらく人間には気付かないであろう。死んだ王虎獣蔵なら、その微かな変化に気付いたであろうが。
 その時、蛍火の印を結んでいる正面の木々の枝に、絡まりながら大蛇坊が近付いてきた。
 大蛇坊は、蛍火に気付き、シュー、シューと、蛇の威嚇音の様な音を喉から響かせ蛍火を睨む。
 「小娘!覚悟しろ!」
 大蛇坊は、彼女の恐ろしさを充分知っている。
 蟲を操り、蛇を操る恐るべき忍法の使い手。
 だが、蝶をいくら集めたところで、自分の敵ではない。
 それに、『蛇身化』している時、自分の肉体は、鱗の様に肌が硬くなり、蜂を呼んだところで、蜂程度の針なら通らない。
 大蛇坊は、一気に勝負を決める事にした。
 この上から一気に彼女に向かって飛び降り、逃げられない至近距離で、あの可憐な顔に毒の唾液を吐いてやる。
 そうだ、印を結んで何の蟲を呼ぶ気か知らぬが、あのように腰を下ろしていれば、素早い動きは無理だ!
 大蛇坊は勝利を確信し、『蛇身化』した身体をバネの様に丸めて、全身の筋肉を使って一気に飛翔した!
 首から下が倍に細長く伸びたまさしく人間大蛇が跳躍し、その顔を彼女に向けて、全身を伸ばして口をあけて、蛍火に襲い掛かる。
 蛍火は逃げずに印を結び続けた。

 (よし、勝った!)
 大蛇坊が確信し、毒の唾液を飛ばそうとした瞬間、彼女の背後の滝壷が爆発した!
 いや、爆発したというのはたとえだが、そのたとえが相応しいほど水飛沫をあげて、その水飛沫の中から、巨大な『牙』が大蛇坊にせまった!
 「何!」
 勝利を確信した大蛇坊が、突然自分に襲い掛かる『牙の群』に驚いたとき、その牙の群が、大蛇坊の胴体に噛み付いたのだ。
 その瞬間、大蛇坊が悲鳴をあげた。

 蛍火は印を結びながら大量の汗を掻いている。
 疲労の色が顔にも浮んでいる。
 それほど、この『牙の大群』を操るのは大変なのだ。
 その牙の群は、その恐ろしいほど大きな口の中にあり、その口が大蛇坊に噛み付いたのだ。
 巨大な頭に、その頭の大きさのまま、寸胴の長い白銀の鱗に覆われた巨大生物!
 何と言う事だ!根来の人間大蛇に噛み付いているのは、本物の大蛇であった!
 一〇mはあろうかと言う巨大な大蛇で、白蛇だ。
 その威圧感と白銀の鱗は、畏怖すべき美に満ちている。
 白蛇は神の使いと言われるが、まさしくこの大蛇は神の使い、いや、神、しかも魔神そのものの存在であった!
 これほど巨大な蛇が居るのかと思われがちだが、実際に世界には一〇mを超える蛇がたまに見つかる。
 また日本でも四国の剣山を含め、想像を絶する大蛇の目撃情報は存在する。
 その巨大な蛇が、今ここに現れ、全身全霊の力を持って蛍火が操っているのだ。
 その巨大な白蛇が口に咥えた大蛇坊を振り回して地面に叩き付けた。
 大蛇坊は胴体から大量の血を噴出しながらも、全身をくねらせ、逃げようとしたが、その瞬間には白蛇がその巨大な口を、大蛇坊の尻尾と化した足を咥えたのだ。
 「うわあああぉぉっぉ!」
 大蛇坊が叫ぶ。 
 だが、それに関係なく、白蛇が徐々に徐々に、大蛇坊の肉体を呑み込んでいく。
 大蛇坊の腰まで呑み込まれた時、大蛇坊は残った肉体で白蛇の首に巻きついた。
 その顔に巻きつきながら呑み込まれるのを防ごうとした。
 だが、彼の巻きつく力より、白蛇の呑み込む力の方が強力であり、その巻きつく力が弱まり、徐々に大蛇坊が呑み込まれていく。
 その身体に牙が食い込み、牙で押さえつけられ、生暖かい口内に大蛇坊が吸い込まれていく。
 大蛇の口内の生暖かい筋肉が、唾液が、強引に大蛇坊を胃袋へ流していく。
 「お、お、おのれぇ!」
 大蛇坊が叫んだとき、その白蛇の口から大蛇坊の首がのぞくだけであった。
 その顔はさすがに恐怖に歪んでいた。
 伊賀者程ではないが、根来忍者も息を長時間止めれる。
 だが、それは生き地獄が続く事になってしまう。
 大蛇に飲み込まれて胃袋の中で、徐々に溶かされて行く自分を味わうのだ。
 巨大な白蛇の口が閉まり、首から胴体に向かって人間大の膨らんだ身体が落ちていく。
 胃袋に流されていっているのだ。

 大蛇坊はおそらくこの本物の大蛇の中で叫んでいるであろう。
 だが、それは外には届かない。
 何故なら、肉体ごと、叫び声も呑み込まれてしまったのだ。

 

 

 印を結んでいた蛍火が印を解いた瞬間、地面に両手を付いて大きく息を乱した。
 この巨大な白蛇を操るのは、それほど大変なのだ。
 巨大な白蛇は大きく膨れた腹を引きづりながら、滝壺に戻る。
 一度蛍火に目をやったが、興味無さ気であった。
 操るのは解けて、白蛇は自由意志になったのだが、蛇は本来小食である。
 わずかな食料で、一月近く生きていける。
 巨大とは言え、人間を食べたのだ。食欲は満たされた以上、これ以上野生の本能が、食欲を満たす必要はないと判断したのだ。
 息を乱しながら、蛍火は、巨大な大蛇を見上げ、静かに笑った。
 「『ぬしさま』」
 『ぬしさま』と呼ばれた白銀の鱗に覆われた大蛇は、そのまま水面を泳ぎ、底に消えていく。
 彼女は胸元から、白銀の巨大な鱗を取り出した。
 「『ぬしさま』。あなたのこの鱗の霊力は、私の忍法に大いに役立っています」
 苦しそうに立ち上がり、そこで消え行く白蛇に頭を下げて感謝した。
 そう、彼女の蟲を操る忍法は、あの巨大な白蛇の鱗を必要とする。
 だからこそ、彼女はその鱗を取るために、一度『ぬしさま』に会っていたのだ。

 ……こうして、根来忍法僧の、怪異なる大蛇坊は、蛍火の操る本物の大蛇によって斃されてしまったのだ。
 ああ、怪僧大蛇坊の最期は余りにも怪奇的で、恐怖そのものであった。
 だが、蛍火も、その場で力なく倒れてしまった。
 どうやら精神力を使い果たしてしまったようだ。
 この無防備な彼女を最初に見つけるのは仲間の伊賀忍者か、それとも敵の根来忍法僧か?
 その頃夜叉丸は、蛍火を信じて、黒縄の紐を結う事に専念していた。
 彼女の愛を信じ、彼女の全てを信じて、全身全霊の精神力を、結う事に専念させた。
 その彼のいる根元の洞穴の前を、水魔坊が疾走しながらやってきた。
 当然、夜叉丸が奥にいる洞穴は気になったが、入り口全体が蜘蛛の巣だらけであり、とても人が入っているとは思えず、水魔坊はそのままそこを通り過ぎていった。

 

 

 鬼頭双之助、筑摩小四郎の二人は、覇王坊、修羅坊、針鼠坊の三人と対立していた。
 だが、この鬱蒼とした密林の中では視界が悪く、どうも相手を発見しにくく、根本的に五人は精確な目測を必要とする忍法使いが多いので、決定打に欠ける争いが続いていた。
 ただ一人、鬼頭双之助は忍法と言うよりは、特異体質の技である。
 一人の肉体に、二人分の精神が宿るこの肉体は、忍法と言うよりは、突然変異のミュータントとも言うべき存在であろう。
 むしろ、双子とは言っているが、二重人格者なのかも知れない。
 だが、それでも、彼は間違いなく強かった。
 兄の双之助の時には、接近戦では無敵の剣術を誇った。
 さすがの老獪な覇王坊も、その剣術に押されていて、俊敏な忍者でなかったら、自分は既に何回か殺されていると思った。
 そして離れれば、鬼頭双次郎だ。
 的確な手裏剣と、双飛短剣の技は、数多くの傷を与えられている。
 それは修羅坊や針鼠坊も同じであった。

 (こいつは、強敵だ。ここで斃さねば、こいつは一〇年もすれば伊賀の重鎮となり、根来だけでなく、甲賀や風魔にも畏怖すべき敵となりかねない)
 覇王坊は、『海鳴り』を使って仲間に伝えた。
 「あの剣術使いは儂がやる。儂と彼奴から離れろ」
 その瞬間、修羅坊と針鼠坊が、筑摩小四郎に二人から離れるように誘導しながらここから離れていった。
 だが、この筑摩小四郎も、中々の強敵であり、根来の優秀な忍法僧である修羅坊と針鼠坊だからこそ、離す事が出来たのであろう。
 その密林の中、覇王坊は錫状の先端を投げ捨て、そこから先端の尖った槍先を引き出し、槍に変えた。
 その槍を巧みに回転させ、剣を持って迫ってくる双之助と向かい合い、間合いを取り合う。
 双之助も、両手で剣を持ち、顔の横に構え、俗に言う八双の構えを取り、鷹の様に鋭い眼光を向ける。
 「宝蔵院の槍術か?」
 「いかにも」
 老獪と若き忍者が、お互いの距離を保ちながらにらみ合う。
 その瞬間、覇王坊が槍を突いてきた。
 間合いはさすがに槍が長い!
 その突きは双之助の膝を狙ったものだが、双之助はそれを跳躍で躱したが、軽い跳躍であり、すぐさま足でその槍の竿を踏みにじった。
 右足で力強く地面に踏みつけると、覇王坊は、その勢いで肩に違和感を感じながらも引き抜こうとしたが、その双之助の脚力は凄まじく、踏みにじった槍が微動すらしなかった。
 「何!」
 その瞬間、その足を軸足に、双之助が抜刀し、覇王坊に斬りかかった。
 あの雷神坊を一瞬に袈裟斬りにした電光石火の抜き打ちだ。
 これにはさすがの覇王坊も驚いたが、槍に執着せず、手を離して後方に飛び、腰に差していた山刀を抜いた。
 その瞬間、双之助が上段の構えから一気に覇王坊の頭上に刀を振り下ろしてきた。
 それを覇王坊は横に躱し、反撃をしようとした瞬間、彼の老獪な本能が、勝手に反応し、山刀を両手で構え、下から昇竜の如く上がってきた先ほど振り下ろされたばかりの双之助の刀を防いだ!
 下からいきなり上がってきたはずの剣戟でありながらも、その威力は凄まじく、覇王坊の手がしびれている。
 (化け物め)
 そう思いながらも、双之助の目を見ながら、
 「貴様、……巌流か?」
 「そうだ」
 巌流とは、あの天才剣士、佐々木小次郎が使った剣術である。
 抜刀を得意とし、その電光石火の抜き打ちは神業とも言える。
 そして、先ほど強烈な上段からの攻撃の後、振り下ろされた剣を再び逆に斬りあげて、一撃目と変わらぬ速度で振り上げる慣性の法則と人知を超えた動き。
 ありえぬ訳ではない。
 その一撃目と、その後に返す勢いで斬り返すこの技は実際する!
 そう、それこそがあの天才・佐々木小次郎が得意とした『秘剣燕返し』!
 覇王坊は冷汗を掻きながらも、この天才的剣術の若者に思わず賞賛した。
 「天才だな。…だが、惜しむべき事は、忍者に生まれた事よ」
 「確かに」
 双之助が再び斬りかかった。
 覇王坊は老人とは思えぬ動きで後方に一気に飛びながら円盤型の手裏剣を抜き、自分の左右に投げつけた。
 右に飛んだ円盤が、天空に弧を描きながら双之助の頭上から襲いかかり、左に飛んだ円盤は低空飛行で双之助の背後に回り、そこから襲い、そして覇王坊は一気に山刀で正面から斬りかっかった。
 三方向からの同時攻撃。単体で行なえる奇想天外な業だ。
 だが、双之助は慌てず、太刀を一撃覇王坊に振るった。
 届かない位置だが、これは威嚇であり、覇王坊を近づけない為の偽装であり、次の返す刀の電光石火の二撃目の地から空に振りかざす剣が、本物だ。
 最初の一撃で、覇王坊は、動きが鈍り構える。
 それを取らせるのが目的であり、その瞬間、その二撃目の振りかざしと同時に上半身をひねりながら、後方から、頭上から襲ってきた円盤を同時に叩き落したのだ。
 円盤は叩き落されながらも、自分の意思を持つかの様に、覇王坊の手に戻る。 
 だが、その覇王坊の額には一筋の冷汗が流れて、片眉をあげて、こわばらせながら、
 「…、化け物め」
 その二人の場所に強い風が吹いた。
 その瞬間、風に乗るように覇王坊が飛んだ。
 それと同時に、双之助も双次郎に切り替え、その身軽な動きで追いかける。
 双次郎の腕から次々と手裏剣が放たれて、覇王坊はそれを躱しながら、周囲を見渡し、反撃の体勢を整える。
 その瞬間、双飛短剣が覇王坊に襲ってきた。
 紐に繋がった二本の短剣が、覇王坊に時間差をおいて攻撃してきて、それを覇王坊は巧みに躱しながら、
 (ううむ、彼奴め。飛び抜けた技は無いが、抜け目がないわえ)
 そう思いながらも、双次郎は落ち着いて立ち向かえば勝てると判断した。
 その瞬間、覇王坊は双次郎の気配を見失った。
 (何?)
 覇王坊は立ち止まり、周囲を見渡すが、この鳥獣の声が響く密林で、確かに双次郎の気配を感じなくなってしまったのだ。
 視界の悪い木々と雑草が生い茂る中、気配はおろか視界にも入らない。
 覇王坊は生い茂る雑草の中に身を潜め、相手の動きを待った。
 暫くの人の気配が消えた密林で、猿の鳴き声や鳥のさえずりが聞こえる。
 (……誘っているな、若造め)
 根来忍法僧の中でも、上忍である覇王坊は小僧に舐められた気分になる不快になる。
 (だが、空気の流れを読め。そこに敵はいる筈だ)
 覇王坊は葉音も立てずに雑草からゆっくりと出てきて、空気の流れを感じながら気配と息を止めて移動する。
 感じる、空気の流れが木々を通り抜け、生物の存在を感じるが、人間の大きさは感じられない。
 だが、近くに微妙に空気の流れが速くなるところを感じた。
 そちらを見ると、小さな洞穴があり、そこから空気が洞穴に向かって流れているのを感じた。
 空気は暖かいところから冷たい方向へ流れる。
 と、するとあの洞穴は地下の空洞に通じているのだろうか。
 その瞬間、洞穴から二本の手裏剣が飛び出し、覇王坊に襲い掛かった。
 「!」
 覇王坊は不意を討たれてしまい、一本目は躱したが、二本目は左肩にくらってしまい、その刃が肉に食い込み、覇王坊はうめきながらも身を伏せた。
 すると再び手裏剣が洞穴から飛び出し、自分に襲ってくる。
 (こやつ!空気が流れてくるので、儂の匂いで位置を確認しているな!)
 覇王坊は、後方に飛び、円盤状の手裏剣を投げつけた。
 だが、円盤は洞穴に入った後は、制御を失い、地面に失速し、そのまま転がり、双次郎のいる場所まで転がった。
 その洞穴の中で、外の光を見ながら、双次郎がいた。
 光の微妙な揺れ、匂いで確実に覇王坊の位置を掴み、攻撃しているのだ。
 風がこちらに向かって流れてきている。それだけ敵の匂いがはっきりと分かる。
 (次はこの猛毒を塗った手裏剣で止めを刺してやる)
 双次郎は勝利を確信した。
 その瞬間、光が遮られた。人型にである。
 目の前に覇王坊が立ったのだ。
 双次郎は手裏剣を投げようとした瞬間であった。
 悪臭が空洞を支配し、それが双次郎の鼻を、口から体内に進入し、体内に凶悪な悪寒と脱力感と嘔吐感が彼を襲った。
 双次郎の顔がどす黒く変色し、皮膚が干からびたように水分が減っていく。
 「うぐわぁ!」
 双次郎が喉を抑え、血反吐を吐いた後、今度は双之助の声が漏れた。
 「ど、毒か!?」
 だが、双次郎は答えれず、双之助も聞き直せなかった。
 何故なら二人の意識が共有する肉体は、恐ろしい病魔によって、死滅したのだ。
 空洞の入り口のところで、肺の空気をすべて吐き出した覇王坊が、その子供の様に小柄な老体を揺らしながら笑った。
 「策に溺れたの。風下に立ったのが運の突きよ。……儂の忍法、『黒死疫』。貴様等の上役、薬師寺天膳をも葬った忍法じゃて」
 そう、地下の空洞にすべて流れるので周囲に影響は全く無いので、覇王坊は使う事を決心したのだ。
 こうして覇王坊は、単独で薬師寺天膳に続き、伊賀の若手でも屈指の鬼頭双之助、双次郎をも斃したのだ。

 伊賀者。残り、筑摩小四郎。夜叉丸。蛍火。紅雪の四人。
 根来者。残り、覇王坊。修羅坊。水魔坊。針鼠坊の四人。

 

 

 小四郎は、大鎌を構えながら、この木々が乱立する森を走った。
 左には力士の様な針鼠坊が、小四郎に負けぬ脚力を見せて並走し、鉄の六尺棒を構えている。
 右には、修羅坊が十手を両手に持ちながら、同じく並走している。
 しかし、小四郎は微笑すらし、いかに料理してやるかを考えている。
 その瞬間、小四郎が天空に跳躍した。
 伊賀の若手でも、夜叉丸と小四郎の跳躍力は驚異的で、死んだ王虎・獣蔵と並んで、三羽烏とも呼ばれた程だ。
 この跳躍力には、さすがの根来忍法僧達も驚き、修羅坊が大木の瘤を利用して、木々の頂点に疾走し、針鼠坊も、負けずと跳躍した。
 小四郎は怪鳥のように飛び、近くの木を蹴り、その反動で針鼠坊に向かって直進する。
 「何!」
 針鼠坊が、六尺棒で反撃に転じ、小四郎は大鎌を振りかざした。
 空中で、二人はぶつかり、針鼠坊は、バランスを失いながらも、近くの枝に捕まり、そのまま回転して枝の上に着地する。
 小四郎も、その近くの枝に待機し、息を吸った。
 すると、針鼠坊の足元の枝の根元が破裂し、枝が砕けて針鼠坊はそのまま落下していく。
 「おのれ!」
 だが、針鼠坊も忍者だ。六尺棒の尖った先端を力強く近くの大木に打ち込み、ブレーキをかけて停止し、そのまま六尺棒の上で回転しながら、その反動で小四郎に向かって飛んだ。
 そして頭を彼に向け、髪の毛を針金に変えて、一気に小四郎に飛ばした。
 小四郎は再び、口を尖らせ、飛んでくる針金の雨に向かって『鎌鼬(カマイタチ)』を放つと、針金の雨は全て砕け散り、小四郎も飛んだ。
 その時に修羅坊がやってきて。地上から小石を掌に乗せて、小四郎に向けて、一気に足を地面に叩きつけて、小石が轟音を唸らせて小四郎に襲い掛かる。
 物体が音速を超えた時に出る衝撃波の轟音。俗にソニック・ブームと呼ばれる音はそれだけでも破壊力を示し、周囲の草花をなぎ払い、枝をも切り払う。
 だが、飛んでいる小四郎には狙いが上手く定まらず、小四郎の後方を通り抜けた。
 その瞬間に小四郎と針鼠坊がぶつかり、二人は絡み合いながら地面に落下していく。
 「針鼠坊!」
 修羅坊は二人の落ちた方へ疾走し、その背の高い葦が生い茂る小さな沼の場所までたどり着いた。
 鬱蒼とした葦の傍では、蛇がうろつき、蛙を狙っている。 
 人間の存在を知らないのか、蛇も蛙も人を恐れる様子は無い。
 「針鼠坊どこだ!?」
 修羅坊が叫ぶと、葦と水面の境界線から、針鼠坊が水面を揺らしながら飛び上がり、『針地獄』を葦に向かって放った。
 「修羅坊!奴は葦の中に隠れている!」
 「気をつけろ!奴の忍法は距離を選ばぬし、破壊力がある!」
 二人の根来忍法僧が慎重に、葦の密集した場所を挟むように取り囲み、修羅坊は掌に砂利を乗せて構える。
 ここでは、大量の物体を放ったほうが有利と見たのである。
 葦の中から蛙の鳴き声が響き、それが二人の耳に不快な気分を与える。
 慎重に耳を澄ましているのに、この蛙の声は邪魔である。
 青大将が、シマヘビが水面を泳ぎ、小魚を襲い、蛙を襲う。
 またハスと呼ばれるへの字口の魚が、その口を開けて水面で小魚を襲って食べている。
 では、根来と伊賀。喰われるのはどっちだ?
 修羅坊はそう考えながらも掌を葦に向ける。
 針鼠坊も、六尺棒を構え、周囲に耳を澄まし、六尺棒でも、『針地獄』でも攻撃できる体勢を整え、周囲に意識を集中させる。

 背後で、水音がした。
 すぐに振り向くと、鯉であった。
 どうやらこの沼は、川と通じているらしく、魚影は豊富だ。
 鯉は一匹ではなく群で動き、針鼠坊の背後を横切っていく。
 「ふん」
 針鼠坊は自嘲しながら前を向きなおした。
 その瞬間、鯉の群の奥から大鎌の刃が浮かび上がった。
 その刃がサメの背鰭のように水面を斬り、針鼠坊に近付く。
 水飛沫が巻き起こった!
 筑摩小四郎だ!
 その針鼠坊の背後に一気に現れ、大鎌を振りかざした。
 水飛沫の音に気付き、振り向く針鼠坊だが、既に遅く、大鎌が針鼠坊の首に深く切り裂き、首から大量の血が噴出し、針鼠坊は、驚いたように両目を極限にまで開け、そのまま倒れていく。
 「たとえ冗談でも姫様を汚そうと考えた者は、この俺が絶対に許さない!」
 小四郎が叫び、息も絶え絶えに崩れ落ちる針鼠坊の顔に向かって息を吸った。
 その瞬間に、針鼠坊の頭は石榴の如く砕け散り、眼球が飛び出し、頭蓋骨は割れ砕け、あらゆる人間の肉の器官が水面に飛び散った。
 その飛び散った肉片が水面に落ち、魚達が、蛙が、肉食の魚や昆虫が集まってきた。
 「後、一人!」
 小四郎はそのまま水面に消え、再び葦に消え去ろうとした瞬間、砂利の魔弾が豪雨となりて小四郎を襲った!
 「くっ!」
 小四郎はすぐに沼の底に潜っていく。
 だが、砂利の二つが小四郎の左肩に命中し、骨にまで食い込み、激痛を感じながらも、血を流しながら潜った。
 水面では、修羅坊が、その名前の通り修羅の貌となり、激怒していた。
 「おのれ!筑摩小四郎!」
 斃された仲間の針鼠坊は、首から上が無く、無残な肢体を晒している。
 その屍を抱き上げ、地上にあげ、沼の湖面に浮んで来る血筋を見て、歯を食いしばり、
 「許せ、針鼠坊。お前の屍をこのまま置いておく事は忍びぬが、奴を生かしておくのはもっと忍びぬわえ!」
 叫ぶと同時に修羅坊が飛んだ!
 そのまま血筋の浮ぶ湖面を追いかけていった。

 

 

 水魔坊は、何度も道を彷徨い、『海鳴り』を使って連絡を取るが、どうも大蛇坊との連絡が取れないのに疑問を感じながらも、大岩の上に降り立った。
 昆虫の様に長い四肢を使って着地し、周囲を見渡す。
 「ううむ、やはり水の傍に行こう。俺の忍法は水が無いと役に立たぬゆえ」
 水魔坊は、そのまま近くの大木に降り立ち、疾走する。
 その大木の根元の洞穴は、二度ほど水魔坊は見ており、入口に蜘蛛の巣が張っていたので、気にせずに通り過ぎていた。
 だから、水魔坊は見落としていた。

 ……蜘蛛の巣が取り払われていた事に。

 

 

 水魔坊は川沿いに出て、上流へと向かった。
 渓流の流れの早い水を途中で救い、両手に粘土の様に絡めて疾走し、渓流の川からのぞく岩の上を飛び跳ねながら滝へと向かう。
 川の流れが少しづつ緩やかになり、木々を抜けると、そこに楕円形の滝壺が見え、落差の激しい滝が見えた。
 「ここは、良い。俺の忍法が全開で使える」
 そののっぺりとした細い目を笑わせ、周囲を見渡すと、女が一人倒れていた。
 「あれは!」
 そう、敵の一人。確か蛍火と言う女だ。
 髪の毛が短くなっているが、それはどうでも良い。
 何故此処で気を失っているのかもどうでも良い。
 敵がいる!
 それが、水魔坊の闘争本能を最大限にし、両腕に溜めた粘土と化した水を振り回し、太い縄状に伸ばしていく。
 蛍火はまだ気を失っていた。
 蛇や蟲を操る忍法は、精神力をそれほど消費するわけではない。
 ただ、もはや怪物的であり、神話的な、霊力の付いた大蛇を操ったこと自体が、相当の精神力を必要としたのだ。
 「喰らえ、根来忍法『水粘土』!
 水魔坊が両腕の水の塊を放った。
 縄状に伸びた水が飛び散り、数百の礫となり、倒れている蛍火に次々と命中した。 
 その衝撃で蛍火は目覚めた。
 だが、既に遅く、ニカワの様に粘りのある水が、次々と肢体に密着し、彼女の動きを封じ込める。 
 立ち上がったが、水は更に襲い、彼女を近くの岩場にまで吹き飛ばし、そこに更に水粘土がぶつかり、全身を粘着力の高い水で、完全に岩に磔られてしまったのだ。
 「っ!」
 蛍火は全身の力を入れるが、王虎・獣蔵の力ですら抜けなかった粘着力だ。もがいても動かず無駄な体力を使っただけだ。
 水魔坊は勝ち誇ったように笑い、その動けない蛍火の前に立った。
 右手にはその粘着力の高い水粘土が乗っている。
 「これをお前の口と鼻から入れて、窒息死させるのも悪くない」
 蛍火は、両腕を動かそうと必死になる。
 印を結ばない事には、蟲を操れないのだ。
 だが、……
 水魔坊は笑いながら、その水粘土を背後に投げた。
 すると、毒蛇の頭に張り付き、地面に押さえつける。
 「さすがは蛇使い。蛇は印を結ばなくても操れるのか」
 品定めでもするように水魔坊は、蛍火の顎を掴み、自分のほうに向けさせる。
 「可愛い顔をしているな。どれ、伊賀の姫君を嬲る前に、お前を嬲るのも悪くない」
 「!」
 その言葉は、いくら忍者とは言え、乙女の蛍火を驚かすのには充分すぎた。
 「その水粘土は、私には絡みつかない。だからこのままお前を嬲る事も出来るぞ」
 「こ、この誰が!」
 「あきらめろ、お前達若造がどんなにあがいても、我等根来忍法僧には勝てぬ!」 
 彼の言ったとおり、水魔坊は水粘土で岩場に磔にされた蛍火の身体に手をまさぐりはじめた。その手が水粘土に触れても、彼の手や身体には全く絡まず、蛍火に絡み付いているだけだ。
 「や、…やめ…ああ、や、夜叉…」
 「安心しろ、殺す前に、この世の悦の楽しみを教えてやる」
 ナメクジやヤモリが這うように、蛍火の肢体に、水魔坊の指が這い巡る。
 彼女はこんな男に触られるだけでも悪寒を感じ、全身が拒絶反応を起こした。 
 だからこそ、最も愛する異性の名前を叫ぼうとした瞬間、水魔坊の首に、黒縄の紐が絡まった。
 「ぐえっ!」
 水魔坊が苦しそうに首を押さえた。
 その瞬間、水魔坊の体が宙に浮び、その黒縄の紐が彼を水面に投げ飛ばした。
 水魔坊が水面から飛び出し、首を押さえながら、突如として現れた敵を確認する。
 そこには、黒髪、燦々と輝く黒瞳は凶暴な眼光を放ち、薔薇色の頬は、怒気に引きつる阿修羅の顔でありながら、青春美の結晶とも言うべき美童ぶりは色褪せていない美少年が立っていた。
 だが、その全身から怒りと殺意を漲らせて水魔坊を睨んでいる。
 「…夜叉丸どの…」
 蛍火が現れた恋人に、安堵の貌を浮べ、涙を零した。
 夜叉丸は一度、蛍火に優しく微笑みながらすぐに水魔坊を恐るべき眼光で睨んだ。
 「てめえは簡単に殺さねえ」
 低いが、響き渡る声で呟き、両手の手甲に巻き付けた黒縄の紐を周囲に高速回転させて、周囲の地面の草を薙ぎ倒し、風を呼んだ。
 「き、貴様!その武器は大蛇坊に奪われた筈だ!?」
 水魔坊が叫ぶと、口元を緩ませ、夜叉丸が、
 「こいつは女の髪と獣脂があればすぐにでも作れるんだ」
 その言葉に、水魔坊ははっとし、髪の毛の短くなった蛍火を見た。
 身動きできない蛍火は、水魔坊に、薄ら笑いを浮かべている。
 夜叉丸が飛んだ!
 水魔坊に向かって、一気に飛び、それに対して水魔坊は滝壺の水面を浮かび上がらせて、水粘土の壁を作った。
 だが、夜叉丸はそれを予知していた!
 夜叉丸の左腕の黒縄が上空の木の枝に絡み、彼の身体は空中に浮かび上がり、水魔坊の頭上にまで飛んだ。
 水粘土の粘着力は、確かに人を動けなくし、手裏剣ですら止めるが、自分の視界も悪くなる。
 夜叉丸が上に跳んだ事に気付かないまま、夜叉丸が黒縄の紐を水魔坊の左腕に絡めて引っ張った。
 その瞬間、彼の左腕が吹き飛び、大量の血が流れた。
 「な!」
 夜叉丸はそのまま、彼の背後に降り立ち、その背中に一蹴を入れて彼を吹き飛ばした。
 「立てこの野郎!貴様は簡単に死ねると思うな!」
 今、夜叉丸は激怒していた。 
 最愛の女性を嬲ろうとしたこの男を、決して許さない。
 今の夜叉丸は、この地上で最強とまでは行かないが、間違いなく、この地上で最も危険な存在と化した!
 その瞬間、水魔坊が水面から全身を水で覆いながら現れた。
 そして粘着力の高い水飛沫を夜叉丸に向かって放った。
 だが、夜叉丸は両腕の黒縄を目の前で回転させ、それらを全て弾き返し、横に飛ぶ。
 「なに!」
 水魔坊も横に飛ぶ。
 二人が滝壺の横の岩場に降り立ち、水魔坊が再び水粘土の飛沫を放った。
 だが、今度は夜叉丸は驚異的な体術と敏捷性を活かし、全てを躱しきった。
 「お、おのれぇ!」
 全身を覆った水粘土が無くなり、再び彼は滝壺に飛び込もうとした瞬間、夜叉丸の反撃が始まった。
 黒縄の紐が鞭の様にしなり、水魔坊の耳をそぎ落としたのだ。
 「うわああぁ!」
 「鼻だ!」
 夜叉丸が叫ぶと今度は水魔坊の鼻がそぎ落とされ、その激痛が水魔坊を苦しめる。
 「右足だぁ!残る耳だ!」 
 彼の言葉は冷酷に、確実にそれをそぎ落とし、水魔坊は激痛のあまり滝壺に落ちていった。
 水飛沫を上げて、着水し、本来ならそこで水粘土を作り反撃に転じれる水魔坊だが、片手片足を失い、両耳もそぎ落とされ、しかも鼻もそぎ落とされ、そこから水が入り、それが想像を絶する激痛を伴い、水魔坊は悲鳴を上げながら、水面に浮かび上がった。
 その瞬間、夜叉丸が飛び降り、水魔坊の顔を掴み、水中に引きずりこむ。
 再び激しい激痛が水魔坊を苦しめ、精神にも異常をきたしたように狂ったように悶え苦しんでいく。
 夜叉丸の顔は、残酷に笑い、その怒りはこの冷たい水でも冷やす事は出来なかった。
 「水魔坊!似合いの畜生道に堕ちやがれぇ!」

 

 

 長い時間の刻みが流れた。
 水面に血が浮かび上がり、首の無い、片手片足の無い遺体が浮かび上がった。
 それを蛍火がジーっと見つめ、磔られた肢体を微動すらさせず見ていたが、水面から夜叉丸が水魔坊の恐怖に歪んで硬直した首を持ちながら上陸し、その首を投げ捨てて、自分の方に近付いて来た時、蛍火は、その瞳から涙を零した。 
 「夜叉丸どの…」
 夜叉丸は、静かに微笑んだ。もう、残酷な笑みは消え、両手をかざし、黒縄の紐を動かし、蛍火の身体に絡みつく水粘土をなぎ払い、彼女を自由にしてやった。
 自由になった蛍火は、そのまま夜叉丸の胸に飛びつき、夜叉丸も蛍火を抱きしめ、二人は激しく抱きしめあった。
 「お前のおかげだ。お前のおかげで、俺の忍法は蘇った」
 「私にとって、夜叉丸どのは、命よりも、髪よりも大事です」
 「俺もだよ。だから、奴を。あの水魔坊だけは許せなかった!」 
 二人はそれ以上何もしゃべれなかった。
 いや、しゃべれなかった。
 何故なら口は塞がっていた。
 お互いの口を重ねあったのだ。
 だが、言葉を使わなくても、この行為こそが、最も二人の想いを伝える最良の方法であったのだ。

 

 

 残る敵は、覇王坊と修羅坊のみ!

 

(続く)