++ 酔 ++

「地面から離れては生きられない……か」

 目前に広がる夜の海を向いて、ナタル=バジルールは静かに呟いた。
 砂漠での激戦を制し、紅海へ進出するための足掛かりを得たAAが周囲の岩壁に似せた完璧な偽装を施されて、彼女の背後にそびえたっている。
 普段は艦を離れることのない彼女も、今日ばかりは外に出ることに躊躇いを覚えなかった。

「しかし、尊い犠牲もあった。我々は生き残らねばならんな」

 つい数時間前に行われた儀式の炎が、まるで今も燃えているかのように
脳裏に残っている。
 月明かりだけの淡い光源に映る海は、どのような光の波長さえも吸収するはずなのに、ナタルの目には燃えるような赤色だけが海を染めているかのように映っていた。
 軍帽を深く被りなおし、月の浮かぶ海に背を向ける。
 艦へ戻ろうとしたナタルは、人の足音を耳にして軍帽のつばを持ち上げた。

「散歩ですか」

「ノイマン少尉か。今は休憩時間なのだな」

 足音の主が頼りにしている部下と判り、ナタルはわずかに表情を緩めた。
 AAの操舵士である彼が艦を離れていると言うことは、彼が休憩時間に入っていることを示す。
 どこかの端から見れば能天気な少佐とは違い、彼がシフト表を無視するということはありえなかった。

「えぇ。トール君とサイ君が詰めてます」

「下士官は誰が詰めているのだ?」

「トノムラが。まぁ、アイツも下戸ですからね」

 ノイマンの口にした”下戸”という言葉に、ナタルの頬が紅潮する。
 彼女が数時間前に行われた儀式の直前に求めた強力な酔い醒ましの薬はノイマンが手渡したものだ。
 頬の紅潮の真の意味を悟ったノイマンが小さく笑う。

「笑うな」

 ノイマンの微笑に、ナタルは必要以上に大きな声でそれを制した。
 ノイマンが一瞬にして真顔に戻ると、ナタルはそのまま艦へと歩き出そうとする。そこに、先程までの頬の紅潮はない。

「もう帰られるのですか」

「あぁ。さすがにそろそろ艦長を止めないといけないからな」

「少佐が止めて下さいますよ」

 そう言いながら、ノイマンが彼女の隣に並ぶ。
 砂の上を小さな足音を立てながら、ナタルとノイマンが艦へと戻り始める。

「フラガ少佐が酔ったラミアス艦長を制止すると思うか?」

「少なくとも、俺なら制止しません」

「ならば、私が止めるしかあるまい」

 AAでは、戦勝を祝った地酒が三本ほど運び込まれていた。
 拠点奪還に成功したレジスタンス側からの提供である。
 一本は仕官組が、一本は下士官組がそれぞれ分けることになっていた。
 もう一本は整備班へとまわされている。

「……少尉。今、自分ならと言わなかったか?」

 更に艦の方へ数歩進んだ状態で、ナタルが小首をかしげる。
 足の止まった上官を一歩引いた場所で眺めながら、ノイマンはあっさりと
首を縦に振った。

「えぇ、言いました」

「貴様、何を考えている?」

「俺なら酔った貴方を止めるような真似はしない。貴方がストレスを完全に
 解消なされるまでは」

 そこまで言うと、ノイマンの手がナタルの軍帽へとのびた。
 ナタルが訝しげにノイマンを見つめている間に、ノイマンは躊躇うことなく、
目の前に立つ女性の軍帽を取り上げていた。

「もう少し、海を見たくはありませんか?」

 唐突な質問に、ナタルは眉をしかめてノイマンの肩越しに見える夜の海へと視線を投げた。
 彼女の視線が返事を受けるまで待つつもりなのか、ノイマンに動きはない。
 数十秒の沈黙を流した後で、ナタルは首を横に振った。

「貴重な休憩時間を無駄にするつもりはない」

「俺も、貴重な休憩時間を他人の色恋沙汰で浪費したくありません」

「……まるで自分の色恋沙汰なら費やしても良いといった感じだな」

「いけませんか?」

 彼女の軍帽を自分の背中に隠すようにして、ノイマンが上官の顔を覗く。

「その軍帽を返してくれるのなら、少しくらいは付き合ってやる」

 彼女なりの精一杯の譲歩なのか。
 ナタル=バジルールは乙女の仕草と表情をしていた。
 しかし、そんな彼女の様子ですら、今のノイマンを満足させるには至らない。

「嫌です。俺が付き合って欲しいのは、ナタルという女性なんですから」

「軍帽ぐらいは返してくれても良いだろう」

 ナタルののばした腕をひねって避け、ノイマンがそのままゆっくりと岩場の方へと歩き出す。その後ろを追わざるを得なくなったナタルは、やや小走り気味に彼の背中を追いかけた。
 波の届かないギリギリの所を通って海の中で頭を出している大きな岩の上に座ったノイマンは、すぐに追いついて来たナタルのために、岩の上の乾いた場所を指した。

「どうぞ」

「……私は今、ストレスを感じているのだがな」

「俺を癒すという言い訳は成り立ちませんか?」

「……上官の務めか?」

 それには答えず、ノイマンは黙って彼女に示した隣の位置へ腰を下ろした。
 少しの間、彼の仕草を探っていたナタルも、ノイマンが無造作に被っている彼女の軍帽に手を伸ばすことなく、彼の示した場所に腰を下ろす。
 それでも背中を預けるだけにとどめ、決して横並びに座ろうとはしていない。
 彼女の精一杯の妥協と照れを感じ、ノイマンは座った時の態勢のまま海を見つめて、隣にいるナタルへと話しかけた。

「背中を預けてくれるんですね」

「……貴様の背後に対する索敵の為だ」

「貴方らしい」

 ”ここまで求めておきながら”と思いつつ、ナタルは背中に当たるノイマンの腕を感じていた。
 それでも臆病で堅物な自分に合わせてくれる彼が、もどかしくも誇らしい。
 仕官食堂で、二人きりの宴会を続けているであろう自分達の上官に思いを巡らしつつ、彼女は聞こえるはずのない自慢を上官へと話していた。

「……誰からも守ってください」

 不意に呟かれた言葉に、ナタルはほんの僅かだけ、指先で服だけをつまむようにしてノイマンの腕をつかんだ。

「お前が望まなくともな」

 月明かりに浮かび上がる二人の影が、夜の海に映り続けていた。

<了>