++ 言えないお礼 ++

「えい」

 突然発せられたフラガの能天気な声に、ブリッジに居た全員の視線が、
艦長席の方へ集中する。
 振り返ったノイマンやミリアリアの目に映ったのは、困惑気味のラミアスと
笑顔のフラガだった。

「……フラガ少佐」

 いつもならば即座にフラガに罵声を浴びせるAA副官は、今は食事中だ。
 フラガは彼女と交代でブリッジにやって来たばかりなのだから、食事中の
彼女が戻るのは当分先。
 それを見越してのフラガの行動だった。

「うりうり」

 まるで子供のようなセリフを口にしながら、フラガは伸ばした指先でくるくると円を描いた。
 その指の動きに引きつられて、ラミアスの眉間がくるくると動く。
 しばらく呆けたように彼の指に身を任せていたラミアスが、ついにその手を払おうと手を上げた。
 その手を、軽く逆の手で押さえて、フラガは指の動く速度を落とした。

「フラガ少佐、何をなさっているのですか」

 いつも笑顔を絶やさないラミアスの口許が、見るからに怒りを湛えている。
 ブリッジに居る全員が、ラミアスが怒っていると感じていた。
 だが、ただ一人、全く意に介さない人物がいた。
 ラミアスと同じ階級称を持つ、ムウ=ラ=フラガ。その人である。

「フラガ少佐ッ」

 ついには耐え兼ねたラミアスが声を荒げた。
 彼女が声を荒げるなどということは、ブリッジに長くいるノイマンの記憶にもなかった。

「あれは怒るよな……」

「そりゃ、怒るだろ。”えい”と”うりうり”だぞ」

 トノムラとノイマンがそう囁きあっている間にも、フラガは構わずに指をまわし続けている。
 さすがに止めに入ろうとした時、フラガは笑いながら眉間から指を離した。

「あんまり眉間に皺を寄せるなよ。もう歳なんだからさ」

 ラミアスの女神のような表情が、ゆっくりと般若の顔付きへと変わっていく。
 慌てたノイマンがフラガの袖を引っ張った。

「少佐、何を仰っているのかわかってますか」

 袖を引っ張られても、フラガは一向に悪びれる様子もない。
 むしろ無邪気な笑顔のままで、ノイマンの方を向いた。

「艦長が皺だらけの爺さんよりは、若い美人艦長が良いだろうが」

「それはそうですが……今のはちょっと」

「いただけないか」

「えぇ、まぁ」

 上官であるフラガにはそうきつく言えないのか、ノイマンもそれほどはっきりとは言わない。
 それはノイマンの背後で二人を見続けているトノムラも同様であった。

「マリュー、あんまり眉間に皺を寄せるなよ。皺になっちまうだろうが」

「余計な御世話です。どうせ私は、もう二十歳をとっくに超えてますから」

 先程の怒りはまだ消えていないのか、ラミアスの言葉は刺々しかった。
 その怒りにも全く反応せず、フラガはノイマンからあっさりと視線を外した。
 艦長席に手をかけて、そのまま顔を寄せるようにしてラミアスを覗き込む。
 思わず後ろへ仰け反りながら、ラミアスは何とか両腕を使って、それ以上の
フラガの接近を押しとどめた。

「何ですか、貴方は」

「何って……やっぱ、好きな女は綺麗なままのほうが良いでしょうが」

「貴方って人は、何を考えてるんですかッ」

 ラミアスの言葉を聞くまでもなく、ブリッジのクルーはそう思っていた。
 ミリアリアなどは、イスを180度回転させて艦長席を見ている状態である。

「眉間に皺寄らせて頑張るより、もっと肩の力抜いていこう。疲れるだろう」

「性分ですから。貴方のように上手く力の入れ具合を操作できないんです」

「だったら訓練、訓練。ほら、やってみようぜ。まず、眉間に皺を寄せない。
 次に顔の筋肉は揉んでほぐす」

 力の入れ具合と顔の筋肉と、一体何の関係があるのだろうという言葉は、ノイマンの喉の奥に消えた。
 フラガはいたって真剣な様子で、とてもノイマンが二人の間に割って入る
ことは出来そうもない。

「……フラガ少佐のそれって、お肌の手入れみたい」

「と言うか、そのままって感じ」

 フラガの後方でミリアリアとクルーの一人が小声で言葉を交わす。
 その声はフラガまで聞こえてはいない筈なのだが、フラガは突然ミリアリアの方を指した。

「嬢ちゃんの手本にならなきゃ。忙しくっても、女を忘れちゃいけないだろ」

 フラガの突然の展開に、一つ遅れてミリアリアが素っ頓狂な声で反応する。

「えぇっ」

 図らずもその声でブリッジの注目を集めてしまったミリアリアは、顔を真っ赤にして俯いた。
 その仕草でようやく自分も彼女を見ていたことに気付いたラミアスが、空咳を交えて口を開く。

「お話はわかりました。ですが、いきなりあんなことをされては……」

「そうでもしなきゃ、聞き入れてくれないだろ」

 フラガの指摘に、思わずラミアスが言葉に詰まる。
 事実、彼の指摘がなければ眉間に皺を寄せていたことに気が付かなかったのだから。
 それでも、ラミアスはゆっくりと息を吐いて、フラガの方を見つめ返した。

「わかりました。これからは気をつけます」

「素直で良いね。これがバジルール中尉だと、思いっきり怒られそうだ」

「……私がどうかしたのか」

 出ていってから、約十分。
 早くも昼食を済ませたバジルールが、ブリッジに入るなり出てきた自分の
名前に反応した。
 振り向いて彼女の姿を確認し、フラガは艦長席にかけていた手を離した。

「なに、暇が出来たら海にでも行きたいねって話さ」

「暇が出来ればな。積極的な休暇も時には必要だ」

 珍しく、バジルールがフラガの意見に賛成する。
 彼女にしても、現状の打開が達成された暁には休暇を得たいと考えていたところだった。

「お、珍しく話が合うね。飯、済んだのかい」

「はい。まだ整理しなければならない書類がありますから」

「程々にしろよ。目を酷使すると視力にくるし、肌にも悪いぜ」

「やらねばならんのだ。自分の肌など、大きな問題ではない」

 迷うことなくそう答えたバジルールに、フラガの口許が笑う。
 その口許を見れたのは、一番そばにいたノイマンだけだったが。
 もちろん、フラガも見られたことに気付いていない筈がなかった。
 すぐさまノイマンに話の矛先を向ける。

「ノイマン、お前さんはどう思う」

「……肌の件はともかく、超過勤務による視力の低下は軍人にあるまじき
 行為ですね」

「お、上手く逃げたな」

 無表情を貫くノイマンを軽く小突き、フラガがCCIから下りた。

「とにかく、あまり無茶するなよ。俺で済むことなら俺にまわせ」

「えぇ、次からはそうします。でも、フラガ少佐でも目は疲れるでしょう」

「お前さんの皺が一つ消えると思えば、何でもない。男の皺は勲章だからな」

「じゃあ、女の皺は何だと言うの」

 意地悪く聞き返したラミアスの言葉にはすぐに答えず、フラガはブリッジの入り口まで歩いた。
 敬礼を返すバジルールに略式の敬礼を返し、体ごと艦長席に座っている
ラミアスを振り返った。

「さぁね。ただ、疲れたエンジェルってのは御利益なさそうだろ」

 そう言って笑顔を見せて、フラガがブリッジの入り口の自動扉の前に立つ。
 扉の開く音がして、フラガの姿が扉の向こうに消えた。
 ブリッジの全員が彼を見送っていた。
 ブリッジに流れた数秒間の沈黙は、ラミアスの吐息によって時間軸の向こうへと流される。

「……ミリィ、昼食に行きましょうか」

「はい。トール、行こう」

「あ、うん」

 ラミアスが艦長席を下りる。
 副操縦席にいたトールと、ヘッドセットを外したミリアリアが彼女に続く。

「ノイマン少尉、先に休憩に入ってもいいですか」

「あぁ、気にするな」

「じゃ、失礼します」

 入り口の所でフラガを見送ったままだったバジルール中尉の敬礼を受け、
ラミアスがブリッジを出る。
 その後ろに続いてきた二人に、ラミアスは歩きながら尋ねた。

「トール君、やっぱり女の子は綺麗なほうがいいのかしら」

「僕は、元気がないと心配になりますけど」

「艦長、気になるんですか」

 ミリアリアの質問に、ラミアスは少し苦笑した。
 フラガやノイマンは別に良いとして、自分はこんな少女にまで気を使わせてしまっているのかと。

「そうね。やっぱり、好きな人の言葉って気になるでしょ」

「そうですね。私もトールに言われてダイエットしたことありますもん」

 ミリアリアの答えに何かを思い出したのか、トールが小さく笑った。
 そのまま当時の話に花を咲かせ始めた若いカップルを見ながら、ラミアスは表情を緩ませた。

「私ももう少し若かったら、素直に”はい”と言えたのかしらね」

 英雄や王子様に憧れていたのはいつの頃だったのかしらと自問しながら、
ラミアスは歩を進めた。
 食堂にいるであろう連邦軍の英雄を、自分は憧れの目で見られない。
 それは成長なのか。それとも年齢からくる衰えなのか。
 どちらにせよ、自分は素直にあの人の言葉を聞けないのだわと思いつつ、ラミアスは食堂に入る。
 誰にも聞こえない、”ありがとう”という言葉を胸にしまって。

<了>