夏の幻


 季節は夏。

 世間的にはお盆が開けて、額の汗を拭いながら仕事に戻る頃。

 長かった小学校の夏休みも終盤に差しかかり、海ではクラゲが北上しはじめている。

 その週末、有給休暇をとった僕たち家族は、恒例となった夏の旅行に出かけていた。

「夏」

「青空」

「プール」

 ……あの、奥さん。

 反応が小学校高学年の息子とまったく同じなんですけど。

「ここのスライダー、すごく来てみたかったのよね」

 プールの入り口を前に、母子で仁王立ちの図はどうなんだろう。

 少なくとも兄さんに見られたら、すぐに離婚届を持ってきてくれそうだ。

「ティル、それはいいんだけどね。もしかして、服の下は水着じゃないよね」

「当たり前よ」

 それを聞いて安心したよ。

 やっぱり君も母親になってたんだよね。

「水着に決まってるじゃない」

 ……もう、いいです。

「よし、行くわよ、アーサー」

「母さんも歳なんだから、そんなビキニで無理しないほうがいいんじゃないの」

 ビキニなの、ティルテュ。

 僕としては母親らしく、もう少し肌の露出は控えていただきたい。

 ……決して、僕の我慢が効かなくなるとかではなくて、ね。

「アーサー、もう一回言ってごらんなさい」

 と、いうか、アーサーは何でティルがビキニだって知ってるんだろう。

 もしかして、着替えているところを見ていたのかな。

「ごめんなさい」

 つくづく、アーサーとティルってよく似てる。

 このやりとりは、誰がどう見ても絶対に親子だよ。

 とりあえず、僕としてはこのまま二人が駆け出さないで欲しいと願うばかりだ。

 その不安を心に閉じ込めて、僕は手をつないでいる娘に声をかけた。

「あのさ、ティニーはもう着替えてるの」

「いいえ。まだです」

「アーサー……は、着替えてるよね」

「当たり前じゃん、父さん」

 うん。車を下りたときから気になってたんだけどさ。

 アーサーがはいてる、そのやけに撥水のよさそうな短パンは、水着そのものだよね。

「ティル。その、僕としては奥さんが更衣室でもないところで服を脱ぐのは」

「脱いで欲しいの」

 うん。そういう意味じゃなくてね。

「不特定多数の人に見られるのは止めて欲しいんだけど」

「もう、アゼルったら焼きもちやきなんだから」

 可愛い仕草をされても、ここだけは譲れません。

 厳しく言っておかないと、僕の身体と心がもちません。

「うん。それでね、ティニーはまだ着替えてないし、貴重品はロッカーに入れたいし」

「そうね。ティニー、汗をかくから嫌がっちゃって」

「できれば、更衣室の有効利用をしてもらえたらなぁって思うんだけど」

 僕がそう言うと、ティルは嬉しそうに笑ってくれた。

「本気にしないでよ。ちゃんとティニーの面倒は見るわよ。アゼルはアーサーのほうをお願いね」

 ティニーの手を引いていったティルの後姿に見とれている僕の後頭部に、柔らかな衝撃が襲ってきた。

「父さん、コレ、先に膨らませようよ」

 アーサーの手にしている浮き輪とビーチボールに、トランクに積んでおいた空気入れで空気を入れる。

 あとはトランクの中のお弁当一式を持って、僕はアーサーと男性更衣室に入る。

 服を脱ぐだけのアーサーが先に出て行こうとするのを、サンダルを踏んづけて待たせておく。

 着替え終わった僕は、最後に忘れ物がないかとアーサーの様子を確認する。

「よし。行こうか」

「はーい」

 僕たちが更衣室を出ると、間を置かずにティルたちも更衣室から水着でやってきた。

 ティルの水着姿、いつ見てもいいなぁ。

 ビキニが白い肌に映えて、思わず抱きしめたくなっちゃう。

「アーサー、二人乗りのから行くわよ」

「何で母さんとなんだよ。父さんと行けよ」

「嫌。アーサーと行くの」

 僕はティニーの手を引いて、文句を言いながらも手をつないでスライダーのほうへ向かう二人と別れた。

「あの辺にしようか」

「はい」

 ティルに渡されたのか、ティニーは小さめの荷物を持っていた。中にはタオルや水筒が入っているようだ。

「ティニーは泳げるようになったのかな」

 僕がそう聞くと、ティニーが顔をうつむかせて首を左右に振った。

「まだ」

「荷物を置いたら、プールに入ろうか」

「流れるプールがいい」

 珍しく、ティニーにお願いされてしまった。

 あまり自己主張をしない娘なのに、嬉しいことだ。

「浮き輪をもっていこうか」

「ボール。パパはそばにいてね」

 ママはお兄ちゃんに取られちゃったからかな。

 それとも、僕に似ているのはティニーのほうかもしれない。

「大丈夫だよ」

「うん」

 荷物をまとめておいて、ティニーと流れるプールに入る。

 ビーチボールにつかまりながら一生懸命に浮かぶ娘を見て、これが本当の幸せだなぁ……なんて。

「パパ。ママとお兄ちゃん」

 ティニーの言葉に、僕は左右を見回した。

 ちょうど、スライダーのスタートが見える場所だった。

 二人の乗りのスライダー用浮き輪に、二人が乗り込むのが見えた。

「見てようか」

「うん」

 流れに逆らって、僕たちはプールサイドに寄った。

 前に座ったアーサーが、後ろのティルに話しかけている。

 あれがしたかったんだな、ティルは。

 スライダーはオープンなタイプで、いくつかのカーブと最後に岩肌に模した段差を下りおりてくる。

「うわ、凄いはねてる」

 二人とも軽いからだろうけど、あんなに浮き上がるのか。

「ママもお兄ちゃんも楽しそう」

「ティニーもやってみるかい」

「あれがいい」

 そう言ってティニーが指したのは、小さい子が親と一緒になって滑っている小さめのスライダー。

「今日は一杯おねだりしていいってママが言ってたもん」

 可愛いなぁ、ティニーは。

 アーサーが可愛くないわけじゃないけど、娘もいいもんだね。

 今日だけじゃなくて、いつでも甘えてくれていいんだけどなぁ。

「それじゃ、お姫様、いきましょうか」

 片目をつむって、ティニーのしがみついてるビーチボールを引っ張っていく。

 別に水が怖いわけではないらしく、足がつかないのが不安なだけなのだろう。

 水しぶきを浴びて笑う娘は、一生懸命にバタ足を動かしていた。

 

<了>