小さくなりたい
「ねぇ、お母様」
「何かしら、アルテナ」
アルテナの呼びかけに、食事の準備をしていたエスリンが、包丁を握っている手を止めた。
食事の準備といっても、エスリンはそれほど凝った料理が得意ではない。
どちらかといえば主婦の手抜き料理が大好きだ。「今日はお母様が作るの」
「えぇ。そのつもりだけど」
アルテナの父でありエスリンの夫は、会社社長である。
それも社員と家族が一致するような小さな会社ではなく、顧問弁護士までを抱える大きな会社だ。一言で言えばセレブ。もちろん、エスリンがわざわざ料理をする必要はない。
毎日の食事を作っているのは使用人だし、買い物もその使用人に任せてしまうことが多い。
エスリンが食事の用意をするときは、気が乗ったときや家族の誕生日でしかない。「珍しい」
「たまに作らないと腕が鈍るのよ」
そう言うと、エスリンが食事の準備を再開する。
並べられている食材から判断すると、今日の夕飯は天麩羅のようだった。「天麩羅か」
「えぇ。一昨日、お昼に食べたのが美味しくなかったの」
「それで」
「美味しいものが食べたかったら、自分で作らないとね」
「そのわりには、何か天麩羅にあわないものも見えてるけど」
そう言ってアルテナが指したのは、赤い唐辛子だった。
娘の指摘に気付いたエスリンが、黒い笑顔を浮かべる。「これは赤いシシトウよ。珍しいでしょ」
「あの、どう見ても皮が薄くて辛そうなんだけど」
「気のせいよ、気のせい」
まったくもって信じられないエスリンの表情に、アルテナは数日前の両親の会話を思い出していた。
何でも、エスリンとの約束をキュアンが完全に忘れてしまったのだ。
結果として外で待ち合わせをしていたエスリンが、酒に酔いながら帰宅したことがあった。おそらく、これはそのときの意趣返しなのだろう。
いつまでたっても気の若いアルテナの両親は、どれ一つとっても新婚のようなやり取りが多い。「お母様って、意外と根にもつよね」
「いやね。これはお仕置きじゃなくて、愛の試練よ」
そんな愛の試練は嫌だ。
そう言いかけたアルテナは、何とかその言葉を飲み込んだ。
下手なことを言ってしまえば、被害が自身にも振りかかりかねない。「ただいま」
「おかえりなさい、リーフ」
タイミングよく帰宅したリーフが、一直線に冷蔵庫へとむかう。
中から麦茶を取り出したリーフが、台所にいるエスリンへ視線を向けた。「今日は何なの」
「天麩羅よ」
「帆立はあるの」
「えぇ。上手くいくかはわからないけど」
麦茶を飲み終えて一息入れたリーフが、居間へと戻る。
ソファに座ってテレビを眺めていたアルテナは、リーフの手に珍しい雑誌があるのを目聡く見つけた。「珍しいわね、リーフが旅行雑誌なんて」
「え、うん。ちょっと、夏休みにね」
「誰と」
「え、あ、その、友達と」
わずかに口ごもった弟に、アルテナは推理を働かせた。
まぁ、それほどの推理が必要なわけでもない。「ナンナちゃんか」
「いぃっ」
とっさに雑誌を後ろ手に隠した弟に微笑んで、アルテナは無言でソファの向かいを指した。
逡巡したリーフも、最後は渋々といった感じでアルテナの正面で胡坐をかいた。「どこにいくのかしら」
「まぁ、その、ここへ」
そう言うと、リーフが手にしていた雑誌を開く。
すでに幾度か読み返されているのか、雑誌は難なく目的のページを開けていた。「あら、ここに」
「うん、まぁね」
「川渡りね。あまり露骨なのはダメよ」
「露骨って……手を引くくらいいいじゃないか」
リーフが示した場所は、浅瀬の川に飛び石が敷かれているデートスポットだった。
適度な間隔をおいて置かれている飛び石の上を、飛びながら渡って行かなければならないのだ。
そのときに、女性の手を男性が引くという形になりやすい。その先には神社もあり、無駄に飛び石を渡るということにもならない。
高校生のカップルが行くには少し地味だが、雰囲気を味わうという点では素晴らしいロケーションだ。「姉上は行ったことがあるんですか」
「そうね。フィンと一度行ったことがあるわね」
「どうでしたか」
「まぁ、手を引かれている女の子は多かったわね」
そう言いながら、アルテナはわずかに表情に影を落とした。
リーフには気付かれなかったようだが、いつの間にか隣に姿を見せていたエスリンが微笑んでいた。
料理の準備を進めながら、しっかりと子供たちの会話は聞いているのである。「聞いていて面白かったわ」
「お母様、余計なことは」
リーフを前にして、アルテナがあわててエスリンを制しにかかる。
しかし、エスリンは嬉々としてアルテナにとって思い出したくない過去を語り始めていた。「その飛び石、女性は手を引かれないと渡れないでしょ」
「はい。そう書いてありますね」
「でもね、どこかのお姉さんは、何も疑わずにポンッと普通に飛び越えちゃったのよ」
「え……それって、男の人にとったら」
「そう。まったくの期待外れ。勢い余って抱きしめちゃったとかのイベントの発生もまったくのなし」
「それって、ちょっと悲しいですね」
母子のやりとりに、アルメテナはそっぽを向いた。
「まぁ、ナンナちゃんなら大丈夫よ。どこかのお姉さんみたいにヒールの高い靴が大嫌いで、
どんなパンプスでも全力疾走できるような娘さんじゃないから」「仕方ないじゃない。ハイヒールだと身長が逆転するのよッ」
たまらずに叫んだアルテナに、エスリンが意地悪く笑う。
「別に、貴女のこととは言ってないわよ」
「誰が聞いても私のことじゃないの」
「いいえ。どこかのお姉さん」
エスリンにからかわれ、アルテナは腹を立てて立ち上がった。
身長は男性の平均身長と同じ。足も長く、いわゆるモデル体型。
明らかに父親の血を色濃く引いたといわれるアルテナの悩みの種は、その身長だった。「もう、部屋にこもるわ」
「あら、そう」
「お母様には付き合っていられません。リーフも、余計な入れ知恵をされる前に部屋へ戻りなさい」
不機嫌さ丸出しで居間を出て行く娘に、エスリンが小さく舌を出す。
「ちょっとからかい過ぎちゃった」
「はぁ……でも、母上、今の話は」
「実話よ。まぁ、あの子もまだ若かったのよ」
「まぁ、姉上は歩幅も大きいですしね」
「そんなもの、どうにでもなるわよ。バランスを崩したふりで相手に受け止めてもらうのもよし。
とにかく、甘えたければ甘えたいなりの工夫をすればいいの」「はぁ。勉強になりますね」
「そうよ。女の子は策士なの。リーフも気をつけなさい」
そう言いながら台所へ向かうエスリンに、リーフは思わず身震いしていた。
「僕も気をつけなきゃ」
了