ひんやりと冷たい夜の空気.
この世界に夜が戻ってから,6年が経っていた.
「わっ,待って! 閉めないで!」
夜の雨の中を,一人の旅人が慌てて駆け込んできた.
相当降られてしまったのだろう,彼はびしょ濡れの状態だ.
「すぐにタオルをお持ちしますね,お客様.」
見上げるほどに背の高い男を,私は宿に招きいれる.
「ありがとうございます.」
愛想のよい笑みを浮かべて,男は入り口付近で濡れて重くなったマントを脱いだ.
暗い色調の髪からも,ぽたぽたとしずくが落ちている.
「この町には,今,来られたのですか?」
父がやってきて,接客を開始する.
「えぇ,世界の果てを見るために.」
奥の部屋からタオルを取り出して,私は物好きな人だと思った.
「砂ばかりで,何もありませんよ.」
父も同じく苦笑する.
男は静かに微笑んで,タオルを受け取った.
「ここは世界の果てに一番近い町,ですよね?」
そう,大陸辺境の地であり,訪れる人も少ない.
ちなみに彼は,10日ぶりのお客様だ.
「ならば,何か聞いたことがありませんか?」
髪を拭きながら,男は訊ねてきた.
「違う世界のことを…….」
「違う世界?」
不思議な問いかけに,父と私は首をかしげた.
「申し訳無いのですが,聞いたことは……,」
男の荷物は,年季の入った古い大きなリュックのみ.
彼はもう,何年もさまよっているのかもしれない.
「そうですか…….」
あまり落胆した様子を見せずに,男は宿帳に記帳する.
「あの,……違う世界に行きたくて,果てに行くのですか?」
私は宿屋の娘としては失格であろう好奇心に満ちた質問をしてしまった.
「そうだよ,」
男は頷く.
「違う世界って……,」
奇妙な客はどこか親しみやすい雰囲気を持っていて,私はつい聞いてしまう.
「魔法の変わりにデンキとガスがある世界だって,サキが言っていた.」
男は懐かしそうに目を細める.
「サキ……?」
奇妙な客の口から出た,さらに奇妙な人の名前.
「僕の,恋人だよ.」
階段を上がり始めた男の背中を見送った後で,私は父に無言のしかめっ面で怒られた.
人の限りない欲に,世界は安らぎの夜を失った.
あえぎ,苦しみ,私たちは乾いた昼だけを生きた.
けれど今,この世界に夜は存在する.
女神の申し子カタリナ様が,祈りをささげて夜を取り戻してくださったのだ.
10翼の聖騎士とともに,大陸各地の神殿を巡ったというカタリナ様.
私も一度,お姿を拝見したかったと思う.
謎の客は2階の部屋に上がると,もう降りては来なかった.
「……ったく,お前という奴は,」
「ごめんなさい……,」
父の小言に,首を竦めて見せる.
お客様のことについて詮索するなど,良い宿屋のするべきことではない.
こんな世界の果てまでやってきた旅人.
違う世界に行って,何をするのだろうか.
翌朝はからっと晴れた,出発にはふさわしい陽気だった.
「おいしい! お嬢さん,あなたは天才だ!」
朝食の給仕をしながら,私は苦笑する.
謎の客の手放しの賛辞に,照れてしまう.
「ありがとうございます,……晴れてよかったですね.」
世界の果ては砂の大地,雨が降れば誰も入ることができない.
「昨日はすごい雨だったから,当分の間,この町に足止めされるかなと考えていたよ.」
男はうれしそうに笑う,急いでいる旅なのかもしれない.
「えぇ,あんなにも降るなんて,……ここ2,3年の間は無かったです.」
「また,女神様に妨害されたのかと思った……,」
暗く翳った男の横顔に,私は「え?」と聞き返した.
「ひどいと思わないかい? 勝手に世界を救えと呼び出しておいて,」
男の笑みは皮肉に満ちていて,
「夜が戻ったら,用済みとばかりに追い出すんだ.」
私は,はいともいいえとも言えない.
「あの……,」
いったい何の話をしているのか.
「女神様への冒涜は……,」
「ごめんね.」
男は悲しそうに笑んで,謝った.
「……夜が戻って,嬉しいかい?」
唐突な話題の転換に戸惑う.
「は,はい……,カタリナ様のおかげです.」
「カタクラ,だよ.」
朝食を終えた男は立ち上がる.
「カタクラ・サキ,君がそう言ってくれて嬉しいよ.」
テーブルの下に置いていた荷物を担いで,男は会計を済ませるためにカウンターへと向かう.
「女神のためでも国王のためでもない,君たちのためにサキはがんばったんだから.」
男の大きな背中を追いかける,名も知らぬ男の.
「出発ですか?」
カウンターでは,父が男を迎えていた.
「えぇ,お世話になりました.」
懐から銅貨を取り出す男のごつごつとした手に,私はなんとなくだが,この人は剣を持つ人なのではないかと感じた.
「行ってきます.」
男は朗らかに手を振りながら,宿を出てゆく.
日の光を浴びて,人々の流れとは異なる方向へと歩き出す.
一度振り向いて,にこりと微笑んだ後で男は消えていった.
今日はいい天気だ.
世界の果ては,むしろ暑いくらいだろう.
「なぁ,お前,」
男を見送っていると,困惑した父の声が背中を打つ.
「これ,偽名だと思うか?」
父が差し出す宿帳に記された名前.
私は,あまり驚かなかった.
「多分,本物だと思う…….」
なんとなく,なんとなくだけど.
そして私の予想通りに,男は二度とこの町には戻ってこなかった…….
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