夜の草原に,少女が一人で歌を歌っている.
言葉は無い,ただ叫んでいるだけにも聴こえる歌だ.
月の無い夜,星の明かりだけを頼りに,少女は歌い続ける.
歌は永遠に続くかと思われたが,唐突にぴたりと止んだ.
少女が立てる物音以外の音が聞こえたからだ.
「誰か居るの?」
少女は,草原の闇に視線を配る.
「出てらっしゃい!」
せいぜい気丈に言い放ったが,微かに声は震えていた.
「ここだ.」
予想していたよりも近くから返事が返ってくる.
「先に言っておくが,怪しい者じゃないぜ.」
夜の闇の中に,男の白い顔が浮かび上がる.
「ここで野営していただけだ.」
一歩,二歩と下がってから,少女は男の顔をにらみつけた.
無頼漢のような長い髪,群青なのか漆黒なのか判別のつかない瞳.
声は年若い少年のように聞こえるが,顔立ちはそれを裏切るように老けてみえる.
「……結構なことだ,」
男は口の端を上げて笑った.
「さっきまでは,狂った娘が泣き叫んでいるのかと思っていた.」
羞恥のため,少女の頬に朱が上る.
「私は狂ってなんかいないわ.」
吐き捨てるように答える.
「こんな真夜中に奇声を上げていても,か?」
にやにやと笑いながら,男は切り返した.
「……歌を歌っていたのよ.」
いい印象の抱けない男だ,少女はそう思った.
「歌? 歌ならば昼間に街で歌えばいいだろうが.」
少女を馬鹿にしているような口調,いや,心底彼女を侮っているのかもしれない.
少女は少しの間黙って,そしてにやりと意地の悪い笑みを作った.
「誰も居ないところでしか歌えないわ.」
いささか演技じみているが,首をすくめて手を広げてみせる.
「だってこれは魔術師の歌だもの.風を呼び,狂わせ,大地を枯らす呪われた呪文よ.」
すると男は瞳を軽く瞠らせた後で,肩を震わせてくつくつと笑い出した.
「あぁ,確かに今夜はなかなかの涼風だな.」
「まだ修行中なのよ!」
少女は真っ赤になって,怒鳴り返した.
魔術師の忌み名を恐れぬ男は,ますます楽しそうに笑い出す.
「しかし魔術師の歌なのに呪文が無いじゃないか? お嬢さんは誰に師事しているんだ?」
お嬢さんという言葉の響きには,あからさまな子ども扱いが含まれている.
少女は拗ねるように,ぷいっとそっぽを向いた.
「独学よ! 文句ある!?」
「文句は無いが,危険だな.」
男は,いきなり真面目な顔になった.
「俺の名はヴィルトだ.」
いきなり名乗った男を,少女はいぶかしげに眺める.
「カイエスブレームに行け,俺の名を出せば街に入れるはずだ.」
少女が戸惑っていると,男はおもむろに首からかけていたペンダントをはずす.
「俺と違ってお前には才能が有りそうだからな,カイエスブレームでちゃんとした師匠について修行しろ.」
少女の手にペンダントを握りこませて,ヴィルトは皮肉気に笑った.
そして少女が何も言い返せないでいるうちに,さっと踵を返して歩き出す.
「ちょっと待ってよ!」
少女の声に,ヴィルトは振り返らずに「じゃぁな.」と手を振った.
傍若無人な男は,少女を寄せ付けないままに立ち去ろうとする.
必要なことだけを言って,お礼も言わせずに,
「待って,ヴィルト!」
名乗っていないことに気づいて,少女はヴィルトを呼び止めようとした.
「ねぇ,私の名前……,」
けれど男の姿はすでに,闇に溶け去っている.
ペンダントを握り締め,少女はしばし立ちつくした.
と,そのとき,ひときわ大きな風が吹いて,少女の細い体をなぶる.
「ヴィルト……!」
闇の空に浮かび上がるグライダー.
常人では不可能な,それこそ狂人の奇行としか思えない闇夜の飛行.
けれど,グライダーは空高く飛び上がる.
少女の名前を乗せずに,自身の身一つだけを抱いて.
礼を告げる機会は,永遠に失われた.
名を訊ねなかった男は,もう二度と少女の前には現れないだろう.
ただぼんやりと暗闇ばかりの空を見つめ,少女は声を沈黙に閉ざした.
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