魔物たちは全滅したのではなかったのか?
オールディス共和国首都の住民たちは,憤らずにはいられない.
けが人たちを救護し,迷子を母親のもとへ返す.
街の復興に汗を流しながら,なぜ魔物たちが攻めてきたのか首をかしげる.
一体,なんのためにこの街に……?
「カンティオーネ.」
リルカが命じると,すぐにカッティは身体を巨大化させた.
「すぐにこの街を出ましょう.」
自分を抱きしめる恋人に向かって,リルカは言った.
魔族の狙い,魔王の求めるものは自分自身だ.
人の多いところに長居などできない.
「おっけい,リルカ.」
すると健はリルカの身体を軽々と抱き上げた.
戸惑うリルカには構わずに,健はリルカをカッティの上に乗せてから,自分も飛び乗る.
「……行こう.」
銀に輝く勇者の聖獣は,二人を乗せて飛び立った…….
「リルカ,聖都へ帰るだろ?」
空へと舞い上がると,こともなげに健はリルカに向かって聞く.
「……えぇ.」
しかしその聖都,つまり魔族討伐の諸国連合軍から健とリルカは逃げ出したようなものだ.
人間の身体を取り戻したからといって,簡単に戻れるとは思えなかった.
「俺さぁ,一つ心配事があるんだけど……,」
だからと言って,戻らないわけにはいかない.
皆は逃げた健と自分自身を許して,受け入れてくれるだろうか…….
「俺,軍に戻ったら,アリアにマジでしばき倒されそう…….」
「はぁ?」
自分の悩み事とは異なることを口にされて,リルカは顔を歪めて振り返った.
「だってリルカに思いっきり,手を出しちゃったし.」
健は楽しげに,後ろからリルカを抱きしめる.
「な,何を言っているのよ!? タケル!」
真っ赤になって,リルカは言い返した.
今はそんなことよりも,再び魔族打倒の仲間として認めてもらえるかどうかの方が重要だというのに!
すると健は,つと真面目な顔になる.
「大丈夫だよ,リルカ.」
リルカに向かって,大人っぽく微笑んで見せる.
「みんな,分かってくれているよ.」
心を見透かされたようで,リルカはうっと押し黙った.
健の顔から視線をはずし,再び前を向いて,リルカは小さく「ありがとう.」とつぶやいた.
「どういたしまして!」
リルカの聞こえるか否かの言葉に,健は大きな声で返事をした.
その瞳は永遠,
彼は永遠を旅する者.
“姫,魔王を倒す方法が分かりましたよ.”
穢れを知らない純粋な心ほど,闇に染まりやすく,
“魔王を倒せるのですよ! この長い戦いに終止符を,”
……誘惑に身を落とす.
リルカは東の方,聖都の方角へと視線をやった.
サンサシオンは今,どういった気持ちでいるのだろうか…….
法王の呼び出しを受けて,聖都の中心に聳え立つ教会にサンサシオンは身を運んだ.
しかし3日経とうが4日経とうが,彼は軍に戻ってこない.
どうせ法王との謁見に無意味にもったいぶらされて待たされているだけなのだろう.
ラーラ王国第2王子であり,魔族討伐隊総指揮官サンサシオンの副官的地位にあるスールは教会まで上官を迎えに行くことにした.
サンサシオンは法王の実の孫である,孫が祖父に会うだけなのにこの煩雑さ,少しうんざりしながらスールは教会へと足を踏み入れる.
広大な前庭を歩き,不必要に物々しい門番たちがいる城門の前までたどり着くと,
ガシャーーン!
頭上でガラスの割れる音.
「なんだ?」
そして人が,紫の聖衣を身に包んだ老人が落ちてくる!
「ひっ……,」
真っ赤な血が飛び散る,
「う,うわっ…….」
言葉を失くす,あまりにも唐突すぎる出来事.
地面と接吻し,もはやそれは人の形状を為さない.
「ほ,法王様!?」
一人の門兵が,上ずった声で老人の身分を告げる.
スールは慌てて頭上を仰ぎ,老人の落ちてきた場所を探った.
闇が濃い.
聖なる教会を闇が包んでいるのだ.
「魔族だ!」
人間の悲鳴とともに,まったき闇の中から顕現する闇の生き物たち.
炎を吐くもの,毒煙を撒き散らすもの,汚臭を漂わせるもの.
「に,逃げろ!」
「魔物たちが,教会に!」
あたりは途端にパニックになる.
老人の死体など,もはや誰も見向きしない.
「サンサシオン様!」
スールは叫んだ,闇の中心,教会の5,6階あたりの窓に佇む青年に向かって.
「サン……!?」
けれど,声は届かない.
瞬間,スールを襲った絶望.
それが聡いスールに,最悪の事態を知らせる.
妙に街が騒がしい.
聖都の城門の上で,ファンとユーティは視線を街の外から中へと移した.
「そんな,……ばかな!?」
街の中心部にある教会から,次々と魔物たちが吐き出されてゆく.
ファンはアリアをかばうように肩を抱き,ユーティは弓に矢を番える.
もはや聖都の中は大混乱だ.
ファンはおろおろしているだけの城門の門兵たちに向かって声を張り上げた.
「門を開け!」
兵士たちは驚いて,城門の上に居るファンを見上げる.
ファンの命令を聞くべきかどうか悩んでいるようだ.
「今,危険なのはこの中なのだぞ! さっさと開けるんだ!」
街の外縁部にいる,イオンら魔族討伐の将たちはこの騒ぎに気付くのに遅れた.
すでに城門付近は,魔族から逃れようとする街の住民たちでごったかえしている.
突如,聖都の中に現れた魔物たち.
イオンは一瞬だけ呆然とした後で,兵士たちに命令を下した.
「街の住民たちを守れ! 聖都から脱出させるのだ!」
すぐに他国の将軍たちも,同様の命令を出す.
教会の中でもっとも豪奢な部屋,つまり法王との謁見室に一人の若者がただただ突っ立っていた.
不思議なもので,教会には魔物たちは一匹たりとも侵入してこない.
「サニー! 無事なの!?」
異変を聞きつけて,フェルミは息子と父がいるであろう謁見室にやってきた.
ぜいぜいと息を切らして,息子の無事な姿に安堵する.
「よかった,……お父様はどこ?」
「母上,逃げてください…….」
美しい青の瞳を翳らせて,サンサシオンは母に請う.
「おじい様は私が,この窓から突き落としました.」
フェルミは驚いて,息子の顔を見る.
なんて暗い,悲しい顔をしているのだろう.
「母上を害したくはありません,早く私から離れてください.」
「何を言っているの!?」
フェルミはこの場から動こうとしない息子の手を取った.
「さっさと逃げるわよ! 魔物たちに殺されたいの!?」
「それはありえません,母上.」
母親の手を優しく離し,サンサシオンは告げる.
「魔物たちの長,魔王ガイエンは今,私の中に…….」
闇が,フェルミの手から息子を奪い去り,そして覆い隠す.
「サニー!?」
次々と城門をくぐって,街の住民たちが住み慣れた都から逃げ出してゆく.
混乱しないように,兵士たちが彼らを街の外へと誘導する.
そして,襲い掛かってくる魔族たちを食い止めるのも兵士たちの役目だ.
「あ,あれを見ろ!」
一人が指差すと,周囲のものたちも一斉にそちらの方角を見やる.
彼らの眼前で,威容を誇っていた教会が崩れ落ちる.
まるで古い建物が腐って,自らの身の重みに耐えることができなくなったかのように…….
「この世はお仕舞いだ…….」
崩壊の轟音が彼らの耳を打ち,誰とも無くつぶやく.
「馬鹿野郎!」
イオンはかっとなって言い返した.
「教会が倒れようが,俺たちはまだ生きているんだぞ!」
まさに猛将の名に相応しい気迫で.
「生きている限り,生きていかないと駄目なんだ!」
フェルミが教会から出た途端,それを見計らっていたかのように,教会は崩れ落ちた.
いや,本当にフェルミを待っていたのかもしれない.
なぜならこの教会を崩したのは,彼女の息子だからだ.
逃げる人々の背に追いすがる魔物たちを城門の上から射殺しながら,ユーティは教会の崩れる様を見た.
人間よりも強い力を持ち,そして頑強な身体を持つ魔物たち.
カストーニア王国軍の兵士として,ずっと彼らと戦いつづけてきた.
いったいいつまで,この戦いは続くのだろうか.
果たして終わりは来るのだろうか.
魔王を倒すべき勇者,……それはこげ茶色の髪と漆黒の瞳を持つ異世界の青年.
「タケル,早く帰ってきてよ!」
思わず出てきてしまった叫び声は,戦いの喧騒に消された.