本陣の方がえらい騒がしい.
ファンがユーティと連れ立って騒ぎの中心へと向かうと,漆黒の髪の青年が光の中に捕らわれていた.
「タケル!?」
二人は驚いた声を合わせる.
なぜ人間であるはずの健が聖なる力に屈しているのだ?
「これはどうゆうことなのですか? サンサシオン様.」
できるだけ平静を保ちつつ,一人の青年がリルカを捕らえるサンサシオンに問いただす.
ラーラ王国第2王子スールである.
「スール殿,今ここにいるのは魔王です.」
「違うわ!」
サンサシオンとリルカがほぼ同時に声を上げた.
銀に輝く大きな鳥が翼を広げて,健を守るように立っている.
「魔王の身体なのでしょう? リルカ姫.」
サンサシオンがリルカの耳元で囁く.
「ならば打ち倒すのみです.タケルも勇者ならば分かってくれますよ.」
「馬鹿なことを言わないでください!」
男の腕の中で,リルカはきっと言い返す.
“人のものをねたみ,奪ってもいいとはならないわ.”
「魔王を倒せるのですよ! この長い戦いに終止符を,」
“ましてや友人の恋人を…….”
母の言葉を思い出し,リルカはぞっとした.
逃れようの無い運命に自分は囚われている,そう錯覚してしまいそうだ.
「そうだ,戦いが終わるんだ…….」
今ここで為すすべも無く倒れこんでいる青年を殺すだけで.
健を囲む兵士たちに奇妙な表情が浮かぶ.
「辞めて,中身はタケルなのよ!」
カッティが応戦するように銀の翼を大きくはためかせた.
「そうだ! 何を考えているんだ!」
ファンが叫んだ.
「魔王を倒すために,今まで魔王と戦ってきたタケルを殺すのか!? ふざけるな!」
しばし呆然としていたカストーニア王国の兵士たちも口々に叫ぶ.
「中身がタケルならば,こいつはタケルだ!」
「魔王を滅ぼすために喜んで死ねなんて,タケルが承知するわけがないだろう!?」
彼らにとって健は大事な仲間である,しかし,
「ならこいつをどうするんだ!?」
「聖なる力に苦しむこんなやつが勇者であるものか!」
健のことをよく知らない他国の者にとっては違う.
いきなり居なくなって,いきなり戻ってきた健はどこまでも異質な存在だ.
健をかばうカストーニア王国とそれ以外の国々で言い争う.
彼らの目の前には誘惑があるのだ,あまりにも容易すぎる戦争との決別が.
「彼らを止めてください,サンサシオン様.」
リルカは自分を捕らえる男に向かって懇願した.
このままでは健の処遇をめぐって,人間同士で争いが生じそうだ.
「私,なんでもしますから,お願いします.」
悲しげな顔をして,サンサシオンは答える.
「その言い方は卑怯ですよ,リルカ姫.」
するといきなりサンサシオンは力なく倒れこむ.
「いつまで姫様を捕まえているんだよ!?」
いつの間にか背後に近づいていた少年ラウティが,剣の鞘でサンサシオンの後頭部を打ったのだ.
リルカは二人には構わずに,光から解放された健の元へと駆け寄った.
言い争い,混乱する人間たちの輪の中でカッティが大きく翼を動かす.
驚く人々の前で,銀色の大きな鳥はリルカと健を乗せて飛び立ってゆく.
「逃げた! 逃げたぞ!?」
「どういうことだ!? 魔物なのか,二人とも!」
勇者の逃走,魔族からではなく人間からの.
「我々カストーニアの民を侮辱するのか!?」
自らの主君を魔物扱いされて,カストーニア王国の兵士たちはいきり立つ.
もはや事態は収まりそうに無い.
逃げたことで,リルカはさらに健の立場を悪くしたのだ.
「いいかげんに静まれ!」
突然,他を圧してことさらに大きな声が響き渡る.
「リルカ姫は身の危険を感じて逃げられただけだ!」
険しい顔をしたスールである.
青年の厳しい声には威厳さえも感じられる.
「この場は解散しろ! この話については蒸し返すことも禁ずる!」
互いに禍根を残しながらも,兵士たちはスールの強い視線にしぶしぶと従った…….
大空の下,カッティの暖かな背中の上で,健はやっと体の自由を取り戻した.
「リルカ……,」
自分に抱きつきながら,ざめざめと泣いている恋人の名を呼ぶ.
「分からない,もぉ分からない,」
リルカは泣きじゃくりながら,健にしがみついてきた.
「どうやったら魔王は倒せるの,どうやったらこの戦いは終わるの?」
子供のように泣き喚く.
「教えてよ,タケル.私はどうすればいいの? どうすればよかったの?」
恋人をなじるように,恋人にすがるように.
「リルカ……,」
健は無理な体勢で,器用にリルカの背をさすってやる.
突き刺すような痛みに意識が遠のきそうだったが,自分を囲む周りの人々の声はちゃんと聞こえていた.
まさかこんな騒ぎになるとは思わなかった.
「泣くなよ,きっと何か解決策があるはずだから……,」
ただひたすら泣き続けるだけのリルカを,健は優しく抱きしめた.
テントの中で,部下であるファンとユーティ,そしてラーラ王国の王子スールから,イオンは健とリルカが逃げ出したことの顛末を聞いた.
「体が魔王で,心がタケル……?」
イオンはうめいた,なんなのだ,その異様な状態は?
頭を抱える将軍の前で,スールは聡明な瞳を曇らせてひとりごちた.
「本物の魔王ガイエンは今,どうしているのでしょうね…….」
その瞳は永遠,
彼は永遠を旅する者.
その瞳に映る永遠を見つめて,
彼は永遠を旅する者.
永遠の生をひと時の死を,
彼は永遠を旅する者.
幾万の夜を越えて愛に哭く,
彼は永遠を旅する者.
日が落ちるまでできるだけ遠くへ逃げて,健とリルカは小さな町へと降り立った.
誰も自分たちのことを知らない町,閉まる直前の宿屋に滑り込む.
宿屋の主人に部屋を借りたいと言うと,「ご夫婦ですか?」と問われ,健はあいまいに頷いた.
なかなか泣き止まないリルカの肩を抱きながら歩かせて,健は部屋の中へと入った.
これからどうすればよいのだろうか?
魔王を倒し,平和を取り戻す.
しかしその前に健は自分自身の身体を取り戻さなくてはならない.
そのためには魔王ガイエンと対峙しなくてはいけないのだが,健とリルカは魔族たちの居るザミリー平原から逃げてきてしまったのだ.
自分にすがりつき子供のようにただ泣くだけのリルカ.
この恋人には聞きたいことがいろいろある.
自分と魔王の関係について,少なからず何かを知っているはずだ.
しかし今は,
「リルカ,泣き止んで……,」
健は部屋備え付けのベッドにリルカを座らせてやった.
「魔王は必ず,俺が倒すから.」
強く抱きしめて,決して離さない.
「だって俺が勇者なんだろ?」
もう夏休み限定じゃない,ずっとそばに居る.
「どうしよう.私,逃げてきてしまった.」
恋人の腕の中で,リルカはぼろぼろと涙を流す.
「私は王女なのに…….」
皆を戦場に置いて,逃げてきてしまった.
健が殺されるかもしれない,ただそのことが怖くて…….
王女ではなく,ただの女として行動してしまったのだ.
健はリルカの涙に濡れる唇にそっと口付けた.
涙の味が妙に懐かしく感じる.
琥珀色の瞳がすこし驚いたように健の漆黒の瞳を見つめかえす.
“初めまして,勇者ワーデルの末裔よ…….”
日本で平凡な人生を歩むはずだった健の運命を変えた出会い.
二度目のキスは長く,互いの気持ちを伝え合おうとするかのように.
健は静かにリルカの身体をベッドに寝かせた.
ふと心づいて,情けなさそうに笑う.
「嫌なら途中で言って,ちゃんと辞めるから.」
するとかすかにリルカが微笑んだような気がした.