夏休み勇者特論


第三十一話  勇者の逃走


本陣の方がえらい騒がしい.
ファンがユーティと連れ立って騒ぎの中心へと向かうと,漆黒の髪の青年が光の中に捕らわれていた.
「タケル!?」
二人は驚いた声を合わせる.
なぜ人間であるはずの健が聖なる力に屈しているのだ?

「これはどうゆうことなのですか? サンサシオン様.」
できるだけ平静を保ちつつ,一人の青年がリルカを捕らえるサンサシオンに問いただす.
ラーラ王国第2王子スールである.
「スール殿,今ここにいるのは魔王です.」
「違うわ!」
サンサシオンとリルカがほぼ同時に声を上げた.
銀に輝く大きな鳥が翼を広げて,健を守るように立っている.

「魔王の身体なのでしょう? リルカ姫.」
サンサシオンがリルカの耳元で囁く.
「ならば打ち倒すのみです.タケルも勇者ならば分かってくれますよ.」
「馬鹿なことを言わないでください!」
男の腕の中で,リルカはきっと言い返す.
“人のものをねたみ,奪ってもいいとはならないわ.”

「魔王を倒せるのですよ! この長い戦いに終止符を,」
“ましてや友人の恋人を…….”
母の言葉を思い出し,リルカはぞっとした.
逃れようの無い運命に自分は囚われている,そう錯覚してしまいそうだ.

「そうだ,戦いが終わるんだ…….」
今ここで為すすべも無く倒れこんでいる青年を殺すだけで.
健を囲む兵士たちに奇妙な表情が浮かぶ.
「辞めて,中身はタケルなのよ!」
カッティが応戦するように銀の翼を大きくはためかせた.

「そうだ! 何を考えているんだ!」
ファンが叫んだ.
「魔王を倒すために,今まで魔王と戦ってきたタケルを殺すのか!? ふざけるな!」
しばし呆然としていたカストーニア王国の兵士たちも口々に叫ぶ.
「中身がタケルならば,こいつはタケルだ!」
「魔王を滅ぼすために喜んで死ねなんて,タケルが承知するわけがないだろう!?」
彼らにとって健は大事な仲間である,しかし,
「ならこいつをどうするんだ!?」
「聖なる力に苦しむこんなやつが勇者であるものか!」
健のことをよく知らない他国の者にとっては違う.
いきなり居なくなって,いきなり戻ってきた健はどこまでも異質な存在だ.

健をかばうカストーニア王国とそれ以外の国々で言い争う.
彼らの目の前には誘惑があるのだ,あまりにも容易すぎる戦争との決別が.
「彼らを止めてください,サンサシオン様.」
リルカは自分を捕らえる男に向かって懇願した.
このままでは健の処遇をめぐって,人間同士で争いが生じそうだ.
「私,なんでもしますから,お願いします.」
悲しげな顔をして,サンサシオンは答える.
「その言い方は卑怯ですよ,リルカ姫.」

するといきなりサンサシオンは力なく倒れこむ.
「いつまで姫様を捕まえているんだよ!?」
いつの間にか背後に近づいていた少年ラウティが,剣の鞘でサンサシオンの後頭部を打ったのだ.
リルカは二人には構わずに,光から解放された健の元へと駆け寄った.

言い争い,混乱する人間たちの輪の中でカッティが大きく翼を動かす.
驚く人々の前で,銀色の大きな鳥はリルカと健を乗せて飛び立ってゆく.
「逃げた! 逃げたぞ!?」
「どういうことだ!? 魔物なのか,二人とも!」
勇者の逃走,魔族からではなく人間からの.

「我々カストーニアの民を侮辱するのか!?」
自らの主君を魔物扱いされて,カストーニア王国の兵士たちはいきり立つ.
もはや事態は収まりそうに無い.
逃げたことで,リルカはさらに健の立場を悪くしたのだ.

「いいかげんに静まれ!」
突然,他を圧してことさらに大きな声が響き渡る.
「リルカ姫は身の危険を感じて逃げられただけだ!」
険しい顔をしたスールである.
青年の厳しい声には威厳さえも感じられる.
「この場は解散しろ! この話については蒸し返すことも禁ずる!」
互いに禍根を残しながらも,兵士たちはスールの強い視線にしぶしぶと従った…….

大空の下,カッティの暖かな背中の上で,健はやっと体の自由を取り戻した.
「リルカ……,」
自分に抱きつきながら,ざめざめと泣いている恋人の名を呼ぶ.
「分からない,もぉ分からない,」
リルカは泣きじゃくりながら,健にしがみついてきた.

「どうやったら魔王は倒せるの,どうやったらこの戦いは終わるの?」
子供のように泣き喚く.
「教えてよ,タケル.私はどうすればいいの? どうすればよかったの?」
恋人をなじるように,恋人にすがるように.
「リルカ……,」
健は無理な体勢で,器用にリルカの背をさすってやる.
突き刺すような痛みに意識が遠のきそうだったが,自分を囲む周りの人々の声はちゃんと聞こえていた.

まさかこんな騒ぎになるとは思わなかった.
「泣くなよ,きっと何か解決策があるはずだから……,」
ただひたすら泣き続けるだけのリルカを,健は優しく抱きしめた.

テントの中で,部下であるファンとユーティ,そしてラーラ王国の王子スールから,イオンは健とリルカが逃げ出したことの顛末を聞いた.
「体が魔王で,心がタケル……?」
イオンはうめいた,なんなのだ,その異様な状態は?
頭を抱える将軍の前で,スールは聡明な瞳を曇らせてひとりごちた.
「本物の魔王ガイエンは今,どうしているのでしょうね…….」

その瞳は永遠,
彼は永遠を旅する者.
その瞳に映る永遠を見つめて,
彼は永遠を旅する者.
永遠の生をひと時の死を,
彼は永遠を旅する者.
幾万の夜を越えて愛に哭く,
彼は永遠を旅する者.

日が落ちるまでできるだけ遠くへ逃げて,健とリルカは小さな町へと降り立った.
誰も自分たちのことを知らない町,閉まる直前の宿屋に滑り込む.
宿屋の主人に部屋を借りたいと言うと,「ご夫婦ですか?」と問われ,健はあいまいに頷いた.
なかなか泣き止まないリルカの肩を抱きながら歩かせて,健は部屋の中へと入った.

これからどうすればよいのだろうか?
魔王を倒し,平和を取り戻す.
しかしその前に健は自分自身の身体を取り戻さなくてはならない.
そのためには魔王ガイエンと対峙しなくてはいけないのだが,健とリルカは魔族たちの居るザミリー平原から逃げてきてしまったのだ.

自分にすがりつき子供のようにただ泣くだけのリルカ.
この恋人には聞きたいことがいろいろある.
自分と魔王の関係について,少なからず何かを知っているはずだ.
しかし今は,
「リルカ,泣き止んで……,」
健は部屋備え付けのベッドにリルカを座らせてやった.
「魔王は必ず,俺が倒すから.」
強く抱きしめて,決して離さない.
「だって俺が勇者なんだろ?」
もう夏休み限定じゃない,ずっとそばに居る.

「どうしよう.私,逃げてきてしまった.」
恋人の腕の中で,リルカはぼろぼろと涙を流す.
「私は王女なのに…….」
皆を戦場に置いて,逃げてきてしまった.
健が殺されるかもしれない,ただそのことが怖くて…….
王女ではなく,ただの女として行動してしまったのだ.

健はリルカの涙に濡れる唇にそっと口付けた.
涙の味が妙に懐かしく感じる.
琥珀色の瞳がすこし驚いたように健の漆黒の瞳を見つめかえす.
“初めまして,勇者ワーデルの末裔よ…….”
日本で平凡な人生を歩むはずだった健の運命を変えた出会い.

二度目のキスは長く,互いの気持ちを伝え合おうとするかのように.
健は静かにリルカの身体をベッドに寝かせた.
ふと心づいて,情けなさそうに笑う.
「嫌なら途中で言って,ちゃんと辞めるから.」
するとかすかにリルカが微笑んだような気がした.

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