怒りにはらわたが煮えくりかえりそうだ.
健は乱暴にガイエンの身体をリルカから引き剥がす.
真っ赤な血を流して,ガイエンは本当に人間の身体を手に入れたのだ.
リルカを背でかばって,健は聖魔法の呪文を唱えた.
「我,ワーデル・カストーニアの名にかけて願う,」
ガイエンが腰に帯びた勇者の剣の柄に手をかける.
「炎よ,舞い踊れ!」
しかし魔法は発動せずに,ガイエンは剣を鞘から抜くことができない.
ガイエンの背中の傷からどんどんと血液が流れ出す.
ちょうど左肩の下あたり,ガイエンが動くたびに人間の赤い血が彼の体を染めてゆく.
健は肩を押さえて苦しげにうめくガイエンに,剣を振り上げた.
「駄目よ,タケル!」
リルカが慌てて叫ぶ.
「それはあなたの身体なのよ!」
健の剣を持つ手が一瞬だけ止まる.
しかしその一瞬で十分だった.
……魔王ガイエンは健の身体を保持したままで逃げ出した.
健は魔王が去った方向をしばらく眺めていたが,つと足元に捨てられた勇者の剣を取った.
すらりと刀身を引き抜く.
たとえ魔王の身体であっても,健こそが勇者なのだと剣は言っているようだ.
するとどんとリルカに背中から抱きつかれる.
「リルカ…….」
健は剣を鞘に戻して,がたがたと震えの止まらない恋人の名を呼んだ.
愛してる…….
これがきっと愛してるという気持ちなのだ.
「姫様,何があったのですか?」
テントの外から遠慮がちなアリアの声がする.
「タケルが慌てて出て行きましたけど,」
声に健に対する非難の響きが微量含まれていた.
「大丈夫だよ,アリア.」
健はアリアに向かって言ってやった.
「タ,タケル!?」
「明日説明するから,とりあえず今は……,」
タケルは優しく,自分の腰に回されたリルカの腕を取った.
そして体の向きを変えて,なきじゃくるリルカをしっかりと真正面から抱きしめる.
「今は放っておいて…….」
リルカの華奢な身体を強く抱いて,薄桃色の髪を梳きながら健は頼んだ…….
永遠の生をひと時の死を,
彼は永遠を旅する者.
幾万の夜を越えて愛に哭く,
彼は永遠を旅する者.
「魔王は死なない身体を持っているの?」
幼い頃,母の膝の上で聞いた.
「そうよ,リルカ.永遠のときをただ独りで生きるの.」
家族も仲間も居ない,ただ唯一の存在.
「なんだか,かわいそう…….」
うつむいてしまった娘に,母は優しく微笑んだ.
「そう,かわいそうな魔物なのよ.でもだからといって,人のものをねたみ,奪ってもいいとはならないわ.」
「ましてや友人の恋人を…….」
悲しげに揺らめく母の瞳.
勇者ワーデルの恋人は,それはそれは美しい娘だったという…….
朝の光にリルカは目を覚ました.
久々によく眠ったような気がする.
妙に暖かなベッドで……?
「やっと起きたの? リルカ.」
頭の上から降って来る健の声に,
「タケル!?」
リルカはがばっと顔を上げた.
「ひどいよ,ずっと熟睡してるんだもの.」
閉じ込められている健の腕の中で,リルカは顔を真っ赤にした.
「そのくせ,人の服を掴んだまま離さないし.」
寝不足で真っ赤な目で,健は楽しげに笑う.
「ご,ごめんなさい…….」
リルカが謝ると,健はぎゅっとリルカの身体を強く抱きしめた.
「もう忍耐力の限界だよ.」
抱きしめると薄桃色の髪がふわふわと健の鼻をくすぐる.
「ご馳走が目の前にあって,食べられないなんてさ.」
ぎくっとして,リルカは自分の乱れている服の襟元を直した.
しかしリルカの予想に反して,健はさっとリルカの体を手放す.
「よかった……,リルカが無事で.」
大人っぽく微笑んで,リルカの顔を再び赤くさせる.
恥ずかしげにうつむいてから,リルカは再び顔を上げた.
「タケル,ありがとう…….」
助けてくれて,そしてこの世界へ帰ってきてくれて…….
「逢いたかったよ,」
リルカの柔らかな頬を片手で包んで,健は唇を引き寄せた.
「リルカも逢いたかった?」
けれど口付けの直前でいたずらっぽく訊ねる.
慌てて頷こうとする恋人に,健は再会の口付けを交わした.
朝の光を浴びて,アリアはリルカのテントの前でじりじりと彼女の大切な姫君が出てくるのを待っていた.
いったい昨夜は何があったというのだろう?
待ちきれなくなる一歩手前で,テントからリルカと健がひょっこりと顔を出した.
「姫様!?」
アリアはぎょっとする,彼らの服が赤黒く血で汚れていたからだ.
「何があったのですか?」
すると健が真面目な顔でアリアの方を見た.
「魔王の返り血だよ,アリア.」
返り血? しかしそれならばなぜ赤い色をしているのだ?
「え? でも赤い……,」
怪訝な顔をするアリアには構わずに,健は語をついだ.
「俺,ちょっと着替えてくるから.……アリア,絶対にリルカから離れるなよ.」
そして健はアリアには何も言わせずに,走り去った.
「姫様…….」
不安そうにアリアがリルカに訊ねると,リルカは安心させるように微笑んだ.
「私は大丈夫よ,アリア.」
しかしリルカの琥珀色の瞳が拭いきれない懸念を映している.
……そう,私は大丈夫.
しかし健は,……健は魔王に人間の身体を奪われてしまった.
どす黒く血で汚れた部分を折ったり,ズボンの中に隠したりしながら,健は本陣の中を歩き回った.
自分のテントは,荷物はどこにあるのだろう?
どうせ,いつもどおりにファンやユーティと一緒のテントに違いない.
朝支度をする兵士たちの中,健は背の高い黒髪の青年の後姿を発見した.
「ファン! なぁ,俺たちのテントってどこ?」
ファンは驚いた顔をして振り返った.
そして赤い顔をして健の肩を抱き,こそこそとしゃべる.
「タケル,お前なぁ…….気持ちは分かるがもう少し自制しろよ.」
きょとんとする健に言い募る.
「ここには他国の兵士たちもいるんだぞ.いくら再会できて気持ちが盛り上がったからといって,」
そこまで聞いて,やっと健はファンの言わんとしていることに気が付いた.
「ち,ちげーよ,誤解だってば!」
しかしファンは健の言葉には耳も貸さずに,再び質問を重ねた.
「タケル,髪が…….」
そっと健の肩から手を離して,眉をひそめる.
「お前,誰だ!?」
険しい顔で問いただす.
途端に銀に輝く鳥が舞い降りてきて,嬉しそうに健の周りを飛び回った.
「わっ,カッティ! 何だよ?」
戸惑う健を無視して,カッティは定位置である健の肩に留まった.
そしてファンに向かって,これは健だと主張する.
「タケル,タケルだよな…….」
ファンは自信無さげに聞いた.
「そうだよ,俺が健だ.」
健はにこっと微笑んで断言する.
漆黒の髪,漆黒の瞳.
緑色の血液を持つ魔王ガイエンの体.
「髪の毛,黒く染め直したんだ.」
リルカが余りにも必死になって体が入れ替わったことは誰にも言うなと言うので,健は誤魔化すようにファンに向かって笑った.
その日のうちにミッシィ大陸諸国連合軍は,ザミリー平原へと移動を開始した.
不慣れながらもサンサシオンは全軍を指揮統率し,王都から再び平原へと旅立つ.
サンサシオンをサポートするのは,ラーラ王国の第2王子スールである.
26歳という年齢の割には識見に富んだ若者であり,またイオンやリルカには一歩譲るがなかなかの戦上手でもあった.
「すみません,サンサシオン様.」
スールに同情するように声をかけられて,サンサシオンはどきっとした.
彼が何について言っているのか,すぐに分かったからだ.
「ずっと誤解をしたままで…….」
あなたとリルカ姫のことを.
「いいのですよ,スール殿.」
サンサシオンは無理にでも笑顔を見せた.
しかし心がもやもやとする.
友人である健の帰還を素直に喜べない.
「勇者が帰ってきてよかった…….」
自分でもこの言葉に真がないことが分かる.
それにこれは嫉妬なのだろうか,健からまがまがしい空気を感じるのだ…….