その瞳に映る永遠を見つめて,
彼は永遠を旅する者…….
「母さん……!?」
健の目の前には地球にいるはずの母親が立っていた.
洗剤の泡をつけたままの食器を手に持って,眼を丸くして健の顔を見つめている.
周りを見回せば,ここは健の家の台所である.
健は地球に帰ってきてしまったのだ!
「……そんな.」
手に抜き身の剣を持ったまま,健は我が目を疑った.
薄桃色の髪,琥珀色の瞳.
「リルカ…….」
まさかもう二度と逢えないのか!?
健が呆然としていると,母親は流しに食器を置いて,健の方へと大またで歩み寄る.
ぱぁーん!
小気味のいい音を立てて,息子の頬を盛大に打った!
「健! 4ヶ月もの間,どこをほっつき歩いていたの!?」
母の目にはうっすらと涙を浮かんでいた.
「ご,ごめん,母さん.」
慌てて剣を鞘に収め,健は謝罪する.
「俺,でも,すぐに戻らないと……,」
守るべき人たちのもとへ.
「何を言っているの!? その服は,その剣は何なの?」
戸惑う息子を問い詰め,そして信じられないものを見るような目つきで健の腰の剣を見る.
「まさか本物の剣なの!?」
「母さん,どうした……,」
そのとき,健の2歳年上の姉が2階から台所まで降りて来た.
「た,健!?」
台所に突っ立っている弟の姿を見つけて,瞳を見張る.
「あ,あんた,今までどこにいたの!?」
姉の声は完璧に上ずっていた.
冬に入ったばかりの小春日和のある日,旅行に出かけたまま行方不明になっていた貝塚家の長男がひょっこりと帰ってきた.
手には一分の曇りさえ無い真剣を持ち,まるでロールプレイングゲームの冒険者のような服装をして…….
「で,健.今までどこにいたんだ?」
休日のことで,父親も姉も家の中に居た.
居間のテーブルで家族揃って向き合う.
「父さん,俺……,」
健は迷った,本当のことを言うべきなのだろうか?
自分は勇者として異世界で魔物たちを戦っているのだと…….
「健,あんた,その格好はコスプレ?」
姉である恵は怪訝な顔で聞いた.
しかしそれにしては全体的に薄汚れている,衣装というよりは作業着,運動着のようである.
健は覚悟を決めたように,家族3人の顔を見回した.
そしてがばっと頭を下げる.
「母さん,父さん,姉貴,心配をかけてごめん!」
健は父親の顔をしっかりと見つめて,言葉を続けた.
「でもすぐに戻らないといけないんだ,リルカが魔王に狙われているから.」
父親は眉をひそめ,自分の理解を超える息子のせりふにどう答えていいのか分からない.
「マオー!? あんた,何を言って.」
横から恵が口を挟む,するとふと何かに思い当たったように,
「リルカ……,リルカってどっかで聞いた,」
そして瞳をめいいっぱい見開いて,健の顔を指差す.
「思い出した! 今年の正月にあんたが酒に酔って口にしていた女の名前だ!」
「な!?」
思いもかけない話に,健は顔を真っ赤にした.
「そうだ,そうだ! 俺はリルカを泣かさないみたいなことを言っていた!」
「まじかよ!?」
健は必死に記憶をたどった.
確かに今年の正月は姉と一緒に酒を飲み,次の日にものすごい二日酔いになった覚えがある.
当然,二日酔いの頭でこっぴどく母親に叱られた.
しかし姉が余りにも悲しそうに,一人で泣きながら酒を飲むので……,
「なんだよ,姉貴の失恋に付き合って一緒に飲んでやったのに!」
「なんですってぇ! あんたは私に向かって,姉貴は泣いているけど,俺はリルカを泣かさないとか言ったのよ! だから私は恋人ができたのかなって,」
「……いいかげんにしなさい!」
姉弟喧嘩を始める子供たちに,母は一喝した.
「今はそんな話をしているのではないでしょう!?」
健も恵もしぶしぶ頷いて,口喧嘩の矛を収める.
「健,正直に全部,話して.」
自分に向けられる,母親の真剣な眼差し.
本当に心配をかけたのだ.
「今までどこにいたのか,そして毎年,夏休みにどこに行っていたのか.」
「俺は,……毎年,」
健は正直に今までのことを打ち明けた.
5年前,リルカに出会い異世界へ行ったこと.
そこで父方の祖父が異世界の住民であったと知ったこと.
2年前の初陣以来,魔族と戦っていること.
そして今年は…….
「リルカがラーラ王国の王子と結婚するって言うから,」
健の顔がかぁっと赤くなった.
リルカが好きだから異世界へ戻りたい,そして離れたくないからもう家には帰らない……,そんな恥ずかしいことを家族の前で言えるか!
「と,とにかく今年はなにかいつもと違って変なんだよ!」
健は誤魔化すように言い繕う.
「俺,魔王を倒さないといけないんだ.」
そうだ,魔王!
健は唐突に立ち上がった.
驚いて両親と姉が健の顔を見上げる.
あいつは東洋人の顔をしていた.
母に,……いや,父にも姉にも似ているような.
ふと思い至って,健は居間から飛び出した.
家族の驚く声を無視して,狭い廊下を走り洗面台に向かう.
「そんな,……馬鹿な.」
洗面台の鏡に映った自分の顔,……それは髪の色を除けば魔王ガイエンの顔と同じものだった.
健が居なくなったその日の夜,戦場から少し離れた場所にカストーニア王国軍は野営した.
近くには他の国々の軍隊も居る.
彼らはカストーニア王国軍の参戦に,にわかに活気付いた様子だ.
しかし当のカストーニア王国軍の方は,なぜだか誰もが暗い顔つきをしている.
自分のテントに入って,寝床にもぐりこむとリルカは声を押し殺して泣いた.
嗚咽を殺して泣いていると,隣のテントからアリアがやってきてリルカの背をさする.
健はもうこの世界へは来られないのだ.
アリアはただひたすら涙を流すリルカの身体を抱いた.
自分にできることは,リルカが早く健のことを忘れるように振舞うだけ…….
そしてただ一人の生き残りになってしまった勇者の末裔を,何を犠牲にしてでも守らなくてはいけない.
次の日の朝早く,リルカは将軍イオンに呼び出された.
「姫様,今すぐ聖都へ戻ってください.」
厳しい顔でイオンはリルカに告げる.
「今のあなたにこんなことを言うのは残酷だと分かっています,しかし,」
イオンは悲しげに顔をゆがめた.
彼にとっては,本当に自分の娘のような主君なのである.
「分かっています,私は王女だから……,」
イオンの言葉を遮って,リルカは答えた.
勇者ワーデルの血脈を絶やすわけにはいかない.
王家の姫として生まれたからには,大切なのは戦場で剣を振るうことより安全な場所で子を為すことだ.
“初めまして,勇者ワーデルの末裔よ…….”
王家ただ一人の生き残りになってしまったリルカは,異世界へ健を迎えに行った.
自分と同世代の少年を連れ帰ってきたリルカを,皆が期待するような目で見た.
これで勇者ワーデルの血は,その濃さを失わないと…….
“姫,我が王国はあなたを,あなたの中に流れる尊い勇者の血を大切にしますよ.”
「タケルのことは忘れます.」
“リルカ,俺,リルカのことが好きだよ.”
すでに泣きはらした瞳でリルカは無理やりに微笑んで見せる.
痛そうな顔をしてイオンは,リルカの身体をぎゅっと抱きしめた.
「申し訳ございません,姫様.」
リルカの笑顔が何よりも心に突き刺さる,いっそのこと泣き喚いてくれたほうが…….
「なぜだか分かりませんが,魔王はあなたを執拗に狙っています.私どもでは姫様を,」
守りきれない,……異世界から来たあの少年以外には.
魔王を倒すべき勇者は消えてしまった.
もはや次代に期待をして,ただただ魔族の攻撃を凌ぐしかない.
「どうか,違う男性としあわせになってください…….」
悲しみしか映さない琥珀色の瞳に,イオンは涙を一筋だけ流した.