1314年前のことだ,人類すべての敵というべき存在が現れた.
魔の森を住処とする異形の生物,すなわち魔族である.
人間たちは襲い掛かる魔物たちに必死の抵抗を試みた.
そうして自然にできたのが教会である.
聖なる力を操る人間たちの戦闘集団.
勇者ワーデルの出現までは彼らが人間社会の盾だったのだ.
そしてその影響力は未だ衰えていない…….
風に淡い桃色の髪をなびかせて,リルカは悲しげに瞳を伏せた.
こうしてみると,どこにでもいるような平凡な一人の女性である.
「また,人が死ぬのね…….」
王城の中庭で,リルカの声にイオンは沈痛な面持ちで頷いた.
「えぇ,姫様.魔族がいる限り,戦争が続く限り.」
「私,私だけが聖都に行っては,」
泣きそうな顔で顔を上げるリルカに向かって,イオンは厳しい顔つきで問うた.
「行ってどうなさるのですか?」
教え子を諭すように言う.
「魔族の集団にただ一人で立ち向かわれるのですか? それとも我々以外の兵を指揮なさるのですか?」
「聖都には各国の軍が集められましょう.」
優しく微笑んで,イオンはリルカの琥珀色の瞳を見つめた.
「しかし魔族とまともに戦えるのはきっと我々だけですよ.」
結局ほとんど戦力にならなかったラーラ王国軍.
他の国もおそらくラーラ王国軍と似たりよったりだろう.
「聖都へ行って,今度こそ魔王を倒しましょう.それが犠牲者をもっとも少なくする方法です.」
イオンがはっきりと明言すると,リルカはかすかに微笑んだ.
「ありがとう,将軍.」
そうして情けなさそうにくすっと笑う.
「子供みたいに慰められちゃったわね…….」
リルカにとっては,部下というより父親のような存在である.
イオンはリルカの肩を叩いてやった.
「いいのですよ,姫君.」
ふとリルカは視線を感じて顔を上げた.
見ると,城のバルコニーから健がこちらを見つめているのだ.
優しく暖かく自分を見つめる漆黒の瞳.
戦場でこの瞳が誰よりも光を放ち,熱く燃え上がるのをリルカはよく知っている.
健と見つめ合って微笑みあうリルカに向かって,イオンは一つ肩を竦めてみせた.
「なんせタケルになぐさめてくれと頼むと,とんでもないことになりますからね.」
おどけて言うイオンに,リルカは今朝の出来事を思い出して真っ赤になった.
リルカが部屋に戻ると,乳姉妹であるアリアが二人分の旅支度を整えていた.
もちろん,リルカと自分自身の分である.
「アリア,」
リルカは困ったように微笑んだ.
「今回,アリアは留守番よ.」
次は遠く聖都まで行くのだ,道中の危険を考えると彼女を連れて行けるわけがない.
「駄目ですよ,姫様.」
しかしアリアはきっぱりと答えた.
「私は姫様から離れません.……剣を振るうことはできませんが,少しでも姫様のお役に立ちたいのです.」
その声,その瞳が何よりも彼女の譲らない意志を告げている.
産まれたときからずっといつも傍にいる,リルカにとってはかけがえの無い友人だ.
「ありがとう,アリア.」
リルカは幼馴染の身体をそっと抱きしめた.
「姫様,姫様は私が必ずお守りしますからね.」
アリアが感無量でリルカと抱き合っていると,いきなりノックもなしに部屋の扉が開いた.
「リルカ,居る?」
こげ茶色の髪,異国の顔立ち,健である.
「何よ,タケル.ノックも無しで.」
自分の大切な姫君との時間を邪魔されて,アリアはむっとした.
「げっ.アリア,居たの?」
健は遠慮なく部屋に入ってきた.
「まぁ,いいや.リルカ,ちょっと相談があるんだけどいい?」
そして健は,アリアから見るとずうずうしくもリルカの手を取る.
「ちょっと,どこへ連れてゆくのよ!?」
アリアはさらにむっとして聞いた.
「俺の部屋.」
健は強引にリルカの右手を引っ張って,部屋から連れ出そうとする.
「待ちなさいよ! わざわざタケルの部屋へなんか行く必要があるの?」
アリアは健をきっと睨んで,リルカの左腕にしがみつく.
「だって二人で話したいし,」
ぐいぐいとリルカの手を引きながら,健は言った.
「うそつき,二人っきりになったら姫様に悪さをするつもりでしょ!」
途端に健は顔を真っ赤にする,情けないことに図星だったらしい.
「姫様は渡さないからね!」
アリアはリルカの腕を負けじと自分の方へ引き寄せる.
「ちげーよ,まじで相談があるんだってば!」
健もリルカの手を引っ張る.
「ちょ,ちょっと,……二人とも,」
さすがに黙っていられなくなって,リルカが戸惑った声を出す.
しかし健とアリアは互いにリルカの身体を引っ張り合いながら,当のリルカのことは無視してどんどんと口喧嘩をエスカレートさせる.
「私なんか姫様の身体にいくつほくろがあるか,知っているもんね!」
アリアのセリフにリルカはぎょっとする.
「ふ〜んだ,俺だっていつか見せてもらうもんね!」
するとリルカではなくアリアが叫ぶ.
「なんですってぇ!?」
「ふ,二人ともいいかげんにしなさい!」
真っ赤になってリルカが叫ぶと,健とアリアは同時に「はい.」と返事をした…….
「で,相談って何なの?」
結局,健の部屋へとやって来てリルカは訊ねた.
すると健はベッドにどすっと腰を降ろして,意外にも真面目な顔になる.
「なぁ,俺ってどうやったらこの世界の住民になれるの?」
警戒するようにベッドの脇に立つリルカに,健は問い掛ける.
「今のままじゃ,俺が少しでも地球に帰りたいと思ったら,速攻でこの世界から追い出されるじゃん.」
リルカは複雑な顔をして俯いた.
「もし万が一のことを考えると不安だよ.もう世界を渡ることはできないんだから.」
健はまっすぐに恋する女性の顔を見つめた.
「俺,ずっとリルカのそばに居る,永遠に…….」
その瞳に映る永遠を見つめて…….
そうして傍に立つリルカの身体を優しく引き寄せて,健はいとおしそうに抱きしめた.
彼は永遠を旅する者…….
「婚姻を結べばいいのよ…….」
きつく抱きしめられて,リルカはそっとつぶやいた.
「え? そんな簡単なことでいいの?」
健は驚いて聞き返す.
「なら,リルカ,今すぐ結婚してよ.」
しかしリルカは悲しげに首を振った.
「駄目よ,そんなことをしたら健は一生故郷へ帰れなくなる.それに,」
少しリルカは言葉を詰まらせる.
「私はまだカイザック王子と結婚している状態なの.」
「え!?」
健は驚いて,リルカの顔を見上げた.
「でも,向こうから結婚はやめにしたいと言ってきたのだろ?」
「えぇ,そうよ.それでカイザック王子も私も教会へ離婚を申し立てに行ったのだけど,まだ受理されていないのよ.」
もうとっくに離婚が成立したものだと思っていた.
健は自分のうかつさ,のんきさを呪った.
「じゃぁ,聖都へ行こう.」
ぎゅっとリルカの身体を抱きしめる.
「そして魔王を倒して,リルカを離婚させて,俺のものにする.」
「それで万事解決だ.」
リルカの腕が自分の背中にそっとまわされるのを感じて,健はさらに強くリルカを抱きしめた.
「……ところで,ほくろってどこにあるの?」
「あんたという奴は……!」
怒り,呆れながらもリルカは健の腕に抱かれた.