あれほど泣いた自分が馬鹿みたいだ.
健は少しずつだが順調に回復していった.
魔族からの攻撃も無く,リルカは健の傍で安穏と砦防御の任に当たっていた.
「ファンが言ったように,魔の森に魔族は居ないのかもしれません.」
ある日,イオンがリルカにそう告げた.
「もしもそうだとすると,どこに行ったのかしら.」
リルカは首をかしげる.
確かに魔の森が静か過ぎる.
ファンとユーティが旅立って,今日で7日目.
そろそろ帰ってくるはずだ.
「もしも魔族が魔の森に居なければ,急いで軍を率いて王都へ帰りましょう.」
琥珀色の瞳で,まっすぐにイオンを見つめる.
王都へ戻り,魔族に襲われた王城の復旧作業をしなくてはならない.
「いつでも出立できるように準備を整えておいてください.」
バキ老人たちばかりに王都を任せっきりでは,余りにも王女として自分が情けなさ過ぎる.
「タケル.」
リルカが健の部屋に入ると,健は目を覚ましていた.
枕もとでは銀に輝く鳥がのんびりと羽を休めている.
健は背中の傷のせいで未だ起き上がれないので,うつぶせになった状態でリルカを迎えた.
「暇だよぉ.」
ベッドでじっとしていられない子供のように,泣き言を言う.
リルカはくすっと微笑んで,健の枕もとに腰掛けた.
「ちゃんと寝ていなさい.」
こげ茶色の髪を撫でると,恋人たちに遠慮するようにカッティが部屋の窓から飛び去る.
すると健はいたずらっぽく瞳を光らせて,リルカを手招きした.
「何?」
リルカが顔を寄せると,健はそっと囁く.
「キスして,リルカ.」
「え?」
リルカの顔がさっと赤くなる.
「だって俺の方からばかりやっているじゃん.」
楽しげに健は笑った.
「いくらなんでも不平等だよ.」
リルカは赤い顔で健をねめつける.
「暇だからってからかわないで!」
すると健はわざとらしくいじいじとしてみせる.
「……俺のこと,嫌いなんだ.」
「あんたって奴は……!」
リルカは呆れたように顔をしかめた.
「じゃぁ,目を閉じていて.」
できるだけ平静を装って,リルカは言った.
よく考えれば,リルカの方が二つも年上なのだ.
いつもからかわれてばかりでは,年長者としての示しがつかない.
「おっけい.」
健はさっと瞳を閉じる.
口を閉ざして瞳を閉じてしまうと,いたずら小僧は男になってしまう.
リルカはどきどきしながら,その顔を見つめた.
うぅ,なぜ私がこんなことをしなくちゃいけないのよ…….
頬に触れて,そっと唇をあわせようとする.
「姫様,大変です!」
いきなり部屋の扉が乱暴に開く.
びくっと身体を震わせて,リルカは慌てて健の傍から離れた.
「大変な方が砦にお見えに……,どうしたんですか,姫様?」
きょとんとするアリアの前で,リルカは真っ赤な顔で腰を抜かし,健は「すげータイミング!」と爆笑していた…….
「タケルは生きているのですか?」
それがその男の第一声だった.
優美な長身の男性,世界に10人しかいない祭司のうちの一人.
サンサシオンである.
「はい.ぴんぴんしているというわけではありませんが…….」
いや,ある意味ではぴんぴんとしているのかもしれない,先ほどまでリルカに向かって口付けをねだっていたのだから.
リルカはサンサシオンの剣幕を不思議に思いながら答えた.
「よかったぁ……,噂を信じずにここまで来て本当によかったです.」
サンサシオンはほぉっと長い安堵のため息を吐く.
「噂とは……?」
リルカが遠慮がちに訊ねると,サンサシオンは優しげな色を映し出す青の瞳できっぱりと告げた.
「勇者は魔王に倒されて,魔王が世界征服に乗り出したという噂です.」
カストーニア王家は魔族を食い止めることができなかったという…….
「サニー,お久しぶり!」
サンサシオンとリルカが部屋にやってくると,健はひらひらと手を振って答えた.
「タケル! 無礼になるわよ!」
健のフランクな物言いにリルカはぎょっとする.
「いいのですよ,リルカ姫.」
と言って,おかしげにサンサシオンは笑った.
確かに教会の人間である自分に対してまったく畏まらない健は,周囲の人間をびっくりさせるだろう.
サンサシオンの心とろかすような笑みに思わずリルカは頬を染める.
「リルカ,なに顔を赤くしてんだよ!」
健がむっとして怒ると,サンサシオンがさらに楽しげに笑う.
リルカだけが意味が分からずに,ただ二人の顔を交互に見返した…….
その日の日の高いうちに,魔の森に偵察に行っていたファンとユーティは帰ってきた.
さっそく魔族討伐の熟練者である将軍イオンに報告と相談をする.
「やはり魔の森はもぬけの殻でした.」
ファンが言うと,イオンは思慮深げに頷いた.
「そうか…….ご苦労だった,ファン,ユーティ.」
イオンが二人とねぎらうと,ユーティが不安そうな顔をして口を開く.
「それと,森の最奥部の洞窟で変な場所を見つけました……,」
「変というか…….」
それを受けて,ファンも奇妙な顔になる.
「多分,姫様が捕らわれていた場所だと思うのですが,」
森の奥に位置する洞窟,その洞窟のもっとも奥まった暗がり.
そこは色とりどりの花で溢れていた.
暗い岩の洞窟の中で,突如,赤や黄色や緑の乱舞.
美しいと言うよりは,異様な光景である.
切られたばかりの新鮮な花から,すっかり枯れた花まで.
野花を無動作に引きちぎっては,床に敷き詰める.
それをほとんど毎日のように誰かがやっていたのだろう.
「なぁ,あれ…….」
ユーティが指差した先をファンが追いかけると,そこには大量のりんごの実が置いてあった.
「魔族がりんごなんか食べるわけがないよね.」
人間のように食事などしない.
「あぁ……,」
ファンは,ねばった口で声を出した.
「あれは姫様のための食料だ.」
あのとき,腕にリルカを抱いて魔王が戦場に現れたとき,自分は何か違和感を覚えなかっただろうか…….
ファンは背中がうそ寒くなるような思考に捕らわれた.
健がリルカを抱くように愛しげに,魔王ガイエンは…….
「聖者の名よ,神の慈愛よ,」
ベッドに横たわる健に向かって,サンサシオンは呪文を唱えた.
「彼の身に落ちかかった呪いを払いたまえ!」
凛とした声が響く,健の背から黒い靄が噴出した.
「きゃぁ!?」
サンサシオンの後ろで,リルカが悲鳴を上げかけてあとずさる.
しかし靄は一瞬で消えた.
2,3回瞬きした後で,健はひょいと立ち上がる.
「すげー,治った,……痛っ,」
すぐに顔をしかめて,四つんばいになってしまう.
「やっぱ,痛い.でもだいぶましになった.」
顔をしかめたり笑ったりする健に,サンサシオンは楽しそうに笑いかけた.
「魔王からの呪いを解いただけだからね,怪我の方は治ってないよ.」
健は今度はそぉっと慎重に立ち上がる.
「すげーな,これが神官の力なわけ?」
サンサシオンはにっこりと頷いた.
「あの,サンサシオン様,」
笑いあう二人に遠慮がちにリルカは口を挟んだ.
「タケルのためにありがとうございます.本当になんとお礼を言っていいのか……,」
まるで健の母親のように礼を述べる.
「いいのですよ,姫.」
サンサシオンは健の方をチラッと見てから,わざとらしく微笑んだ.
「それから私のことはぜひ,サニーとお呼びください.」
「え?」
途端に顔を赤くするリルカと焼きもちを焼く健に,サンサシオンは思わず吹き出してしまった.
「魔族が魔の森に居なくて,こちらの砦の方へは来ていないということは,」
難しい顔で,イオンはファンとユーティに向かって言った.
「ラーラ王国の方へ行ったのだろう…….」
ファンとユーティは複雑な顔で頷き,同意を示した.
確かにそのとおりだろう,しかしラーラ王国軍が単体で魔族に対抗できるとは思えない.
「援軍を出してくれと泣きついてきますかね?」
ファンが皮肉げに聞くと,さらに辛らつにイオンは答える.
「いや,きっと魔族を魔の森に留めることができなかった我々を責めにくるだろう…….」