リルカの口を塞いだままで,健はリルカの夫と向き合った.
「たった1ヶ月間,戦場で逃げ回っただけでリルカをもらおうなんて,虫が良すぎないか?」
けんか腰の声音をまったく包み隠しもしない.
そしてもともとカストーニア王国の兵士たちは,ラーラ王国の者に対して反感を抱いている.
健一人の行動に,簡単に一触即発の危険な雰囲気になる.
リルカは自分の口を塞ぐ健の手を取ろうともがいた,しかし強引に抱き寄せられて身体も束縛されてしまう.
「姫様がラーラ王国へ輿入れするなど約束が違いませんか?」
今度はリルカの親代わりでもあるイオン将軍が前に出て言う.
「カイザック殿下が我が王国へ来られる約束だったのでは,」
リルカ一人しか居ないカストーニア王家に対して,ラーラ王国の方では世継ぎの王子は幾人も居る.
「滅びかけの弱小国が何を偉そうに……!」
するとラーラ王国の兵士たちがいきり立つ.
「我が王国の一員になれることを喜びこそすれ,断るとは!?」
すぐさまカストーニア王国の兵士たちも言い返す.
「まともに戦うことのできない腰抜けどもが何を言う!?」
「そもそも我々が魔族と戦っているのはこの世界のためなんだぞ!」
「兵の援助ぐらい,やって当然ではないか!?」
加熱してゆく兵士たちの口論にリルカの顔色がますます青くなる,健は離してくれそうにも無い.
ユーティとファンがリルカを隠すように前に立っている.
「とにかく,姫様は渡せない.」
大きな体躯で威圧するようにファンは告げた.
「それに魔王の首を落とした功績はタケルのものだ.」
赤毛の少年ユーティが責めるように言う.
「お前らは何もやってないじゃないか!?」
そしてどちらともなくすらりと拔剣をする.
魔物に対してではなく,同種の人間という生き物に対して…….
リルカはぶるっと震えた.
途端に健のいましめが緩む.
「止めなさい!」
健の手から逃れて,リルカは叫んだ.
「人間同士で殺しあう気なの!?」
琥珀の瞳が強い光を放つ.
「双方,剣を引きなさい!」
周りを圧する,凛とした声.
剣を抜いた兵士たちは,数瞬の躊躇いの後,剣を鞘に収めた.
それを見やって,リルカはほっとため息を押し隠す.
少しでも気を緩めてしまえば,足元から崩れ落ちてしまいそうだ.
リルカは気の張った表情のままで,ただ事態を静観していただけのラーラ王国の王子に向き直った.
「カイザ……,」
すると後ろから急に肩を抱かれ,リルカは再び健に捕まった.
「タケ……,」
振り向くと,今度は唇で口を塞がれた.
う,そでしょう……!?
健の腕の中で,リルカは必死に抵抗した.
さすがにあっけに取られて,カストーニア王国の者もラーラ王国の者も二人をただ眺めている.
先ほどまでも手で口を覆われていたせいか,リルカはぐったりと意識を失った.
倒れこむリルカの身体を抱いて,健はカイザックに向かって言った.
「この世界で離婚するにはどうすればいいの?」
漆黒の瞳で挑戦的に睨みつける.
「このとおり,あんたの奥さんは俺と浮気しているけど,別にいいの?」
すると馬鹿にするようにカイザックは笑った.
「たとえ君たちが真実愛し合っていたとしても,私とリルカ姫は教会法に基づいた正式な夫婦だ.」
教会法,耳慣れない単語に健は眉をひそめた.
「この世界で教会に逆らえる人間など居ない.リルカ姫はすでに私のものなのだよ.」
健が次は何を言い返そうと考えているうちに,カイザックはいっそ同情するように言った.
「そうだね,君がこの世界に居る間は待っていてあげるよ.」
優越感に満ちてカイザックは微笑みかける.
「一ヶ月間,せいぜい別れを惜しんでくれたまえ.」
健はきっと睨みかえした,視線で殺せるものなら殺してやりたい.
「その後,リルカ姫は我が王国へとつれて帰る.」
身を翻して,兵士たちとともにカイザックは砦から出て行った…….
永遠の生をひと時の死を,
彼は永遠を旅する者…….
リルカがふと目を覚ましたとき,彼女は幼馴染の部屋のベッドに横たわっていた.
ぼぉっとしながらベッドの中で寝返りを一回打ち,次の瞬間リルカは跳ね起きた.
「タケっ,アリア!? ……ラーラ王国は!?」
混乱して,部屋の主を探す.
あれからどうなったのだ!?
すると部屋の奥から亜麻色の髪の女性がやってきた.
「あ,姫様,起きられたのですね.」
のんびりと微笑みかけるアリアに向って,リルカは咳き込むようにして問う.
「ラーラ王国は? タケルは!?」
するとアリアはなんとも言えない顔をした.
「だから教会ってなんなのさ?」
大きな木製の机に頬杖をついて,健は訊ねた.
「キリスト教のこと?」
すると分厚い辞典を持ったファンが不思議そうな顔をする.
「キリス……? 何だ,それは?」
ユーティが羽ペンをもてあそびながら,健に聞いた.
「タケルの世界では教会は無いの?」
「いや,教会はあるけど.」
健が答えると,ファンはそっけなく返す.
「なら分かるだろ? 教会は教会さ.」
さっぱり分からない…….
健は頭を抱えた.
ここは砦付属の教会の中の図書室である.
教会法についてファンとユーティに教えてもらうために,健はこの部屋へとやってきたのだが,いまいちこの二人の説明は理解しづらい.
いや,理解しづらいというよりは,二人ともあまり教えてくれる気が無さそうだ.
するとこんこんとノックの音がする.
そして応答も待たずに扉が開く,険しい顔をしたリルカとアリアが中へと入ってきた.
「リルカ,教会について教えてよ!」
ファンの持つ教会法辞典を奪い取り,健は陽気に頼んだ.
しかしリルカは真っ赤な顔になって健の方を睨みつける.
「あ,あんたって奴は…….」
わなわなとリルカの両手が震える.
「馬鹿! 何を考えているのよ!?」
すると健は真面目なのか,ふざけているのか分からない顔をする.
「え? だってお姫様とハッピーエンドって勇者の醍醐味じゃん.」
「なにわけの分からないことを言っているのよ!」
泣きそうな顔で健に詰め寄る.
「あのまま戦争になっていたら,どうするつもりだったの!?」
「それでもリルカは渡せないよ.」
健は平然と答えた.
パァン!
いっそ心地よいほどの音を立てて,リルカは健の頬をぶった.
「もしも殺し合いになっていたら,あなたを一生恨むところだわ.」
その真剣な表情が健に,リルカという一人の人間の本質を思い知らせる.
“私はこの国の王女だから…….”
するとファンがすまなさそうに口を挟む.
「姫様,タケルだけが悪いんじゃありません.」
泣き顔のリルカに向かって言う.
「俺たちみんな,タケルと同じ気持ちでした.」
リルカはなんと答えていいのか分からずに,健とファンとユーティの顔を等分に見返した.
周りに心配をかけている自分がいけないのだ.
王女として彼らを守りたいのに,反対に守られてばかりいる.
リルカは悔しそうに俯いた.
「ごめんなさい,タケル.頬をぶって…….」
泣き出しそうな顔をするくせに,人前では決して涙を見せない.
健はリルカに向かって,優しく話し掛けた.
「ラーラ王国の奴らはさっさと砦から出てったよ.」
俯くリルカの顔を,腰を落として下から見つめる.
「こんな辺境にいつまでも居たくないって,ラーラ王国の王都へと帰った.」
リルカは先ほどアリアからも聞いた話だが,こっくりと頷いた.
「リルカも王都へ帰るだろ?」
「えぇ.だいぶ城を留守にしてしまったから,すぐに帰らないと……,」
するといきなり健はリルカを抱き上げた.
「きゃあ!」
「なら,今すぐカッティに乗って帰ろうぜ.」
健は腕の中でじたばたと抵抗するリルカに向かって楽しげに言った.
「姫様を放しなさいよ! タケル!」
猛然と抗議するアリアに対して,健は悪戯っぽく笑ってみせる.
「アリアはみんなと一緒に馬車で帰りなよ.リルカは俺と一緒に空から帰るからさ.」
「なんですってぇ!?」
怒り心頭に達してアリアは叫んだ.
「まぁまぁ,アリア.抑えて抑えて.」
なだめるようにファンとユーティが言う.
そうこうするうちに,アリアの大切な姫君は健に強引に抱かれて部屋の外へと連れられてしまった.
「カッティ!」
教会から出ると,健は高く空を飛ぶ聖なる獣の名を呼んだ.
空から舞い降りて,カッティは身体を巨体へと変化させる.
抵抗し暴れ疲れてぐったりとしているリルカをカッティの背に乗せてから,健はひらりとカッティの身体にまたがった.
「じゃぁ,カッティ.城へ帰ろうぜ!」
ぽんと首筋を叩いてやると,カッティは大きな翼をはためかせる.
ぎゅっと後ろからリルカが健の身体に抱きつく.
銀に輝く大きな鳥が二人を乗せて舞い上がり,一気に上空へと飛び立った…….