「闇よ,その暗き心を持って彼を捕らえろ!」
公園の階段の下で出会ったばかりの少年が叫ぶと,明日香の叔父はいきなり両手で目を覆った.
「うわぁっ,なんだ!?」
少女はあっけに取られて,たった今まで少女に向かって拳を振り下ろしていた叔父から離れる.
すると少女の手を銀の髪,青の瞳の少年が引いて走り出す.
「逃げよう!」
自分と同じ歳の少年に促されて,明日香は一緒に走った.
この子は普通の子供じゃないんだ!
大人に対して戦うことのできる子供なんだ!
単純に尊敬の眼差しを,少女は少年の背に向けた.
初めて見る,銀の髪がきらきらと光を弾く.
外人の男の子,……少なくとも同じ小学校ではない.
だから言えたのかもしれない,自分の境遇を.
朝の光にぼんやりと明日香は瞳を開いた.
ここは異世界,自分は今,地球とは違う世界に居る…….
あのとき出会った少年は,今は自分の夫である.
銀の髪の少年は,10年前の面影そのままに少女の前に現れた.
そうしてふと思い出す.
悲しみに揺れる緑の瞳,青ざめる白い顔.
自分と同じ傷を持っているであろう女性のことを.
少年にとって義理の叔母にあたるカイ帝国の女性,マツリ・ツティオ.
マツリさんにも,私にとってのマリ君のような存在が現れますように…….
祈るような気持ちに,少女はかすかな予感を覚えた.
「おはよう,アスカ!」
カリンが明るく微笑みながら,いまだ寝床で寝転んでいる少女の顔を覗き込んだ.
途端にぎょっとする.
「ちょ,ちょっとなぜ,泣いているの?」
目をこすりながら,明日香は寝床から起き上がる.
「なんでもないの.」
柔らかく,しかし少し悲しげにカリンに向かって微笑み返す.
「なんか私ばっかりしあわせで,申し訳なくて…….」
カリンはよく分からないといった顔をした.
もしかして,のろけなのかしら……?
「とにかく顔を洗ってきなさいよ.今日は敵陣に殴りこみに行くんだから!」
まるで姉のように叱るカリンに笑いかけて,明日香は馬車の外へと出た.
ここはツティオ公国スビッツ地方の中心部である.
朝食の後,今まさに朝日に照らされている領城に,カリン曰く殴りこみに行くのだ.
少女はぼんやりと城の方角を眺めている恋人の姿を見つけた.
「マリ君,おはよう.」
すると少年ははっとして振り返る.
「おはよう,アスカ.」
いつもどおりに微笑むのだが,少年の笑顔が少し固い.
「どうしたの?」
下から顔を覗き込むようにして,聞いてみる.
「大丈夫だよ,アスカ.」
いきなり少年は両頬を少女につままれた.
「大丈夫は禁止!」
少女はぐいぐいと少年の頬を引っ張る.
「教えてくれないとまた,こちょばすわよ!」
少年はぷっと吹き出した,そして笑いながら小さくこぼす.
「……元気,出た.」
少女には聞こえなかったようで,むっとした表情のまま少年の方を見つめている.
少年は少女の漆黒の瞳をしっかりと見つめて答えた.
「カイ帝国とパリティ連邦国との間で戦争が始まったらしい…….」
青の瞳に陰りが映る,自分の国だけでは飽き足らず,この少年はどれだけのものを抱えるつもりなのだろうか.
「マリ君が気に病む必要は無いよ.」
けれど,その少年の優しさが愛しい.
少女は精一杯,微笑んで見せた.
すると少年は少し力づいたように微笑む.
「それと,今から苦手な人物に会わないといけないからちょっと億劫で…….」
それは意外な答えだ,顔に出たのだろう,少年が少女に説明をする.
「グリュー大叔父上の一人息子のブラッケ,私より2歳年長で,……昔から私はブラッケには嫌われていて,」
しかし少年は,何かに思い至ったように瞳を瞬かせた.
「あぁ,でも,アスカがいるなら大丈夫なのかもしれない…….」
少年の何も意図していない言葉に,少女の顔がかぁっと赤くなる.
信じられない,嬉しい……!
顔を赤らめてしかも涙ぐむ少女に,少年は心底不思議そうに首を傾げた.
「……どうしたの?」
自分より少しだけ背の高い少年を見つめて,少女はにこっと微笑む.
少女が答えを告げようとすると,遠くから二人は呼びかけられた.
「おぉい,もう朝食はできているぞ!」
体と同じく大きな声を張り上げるブレオである.
「いちゃついてないで,さっさと食べに来い.」
少女と少年は顔を見合わせてくすっと笑い合った.
その街は,妙な雰囲気に包まれていた.
明るい喧騒は止み,道ゆく人々は不安そうな顔をつき合わせて話し合っている.
「何なんだろう…….」
領城へと続く道の中,亜麻色の髪の少年が不安そうに兄のほうへと囁いた.
「さぁな…….」
答えた後でコウリは,彼の主君が街の住民に話し掛けているのに気付いた.
「陛……,マリ!」
すると青年の主君は,彼を制して話を続ける.
「それで,何があったのですか?」
妙に品のある少年に訊ねられて,街の男たちは戸惑った.
少年といい亜麻色の髪の青年といい,単なる旅人とは思えない.
「何かあったっていうわけじゃないんだけど……,」
一人の男が頭を掻きながらぼやくと,別の男が語を継ぐ.
「うちの領主はどうやら,帝国とことを構えるつもりなんじゃないのか……?」
少年の青の瞳が鋭く輝く,見つめられているだけで威圧されそうな瞳だ.
「でも国王陛下の代理の方から,帝国に対して攻撃を仕掛けるなとお触れが来ただろ?」
また別の男が眉に皺を寄せて,聞いてくる.
「確かに来たが,しかし最近城の兵士たちの様子がおかしくないか?」
「おかしいとは?」
彼らにとっては息子のような世代の少年が訊ねてくる.
「なんだかぼぉっとしているというか,の割にはブラッケ殿下の命令をよく聞いているみたいだし.」
他の男たちも頷いて賛同の意を示した.
亡羊としている兵士たちは正直な話,薄気味が悪い.
「今のままじゃ,王都からの命令よりもブラッケ殿下の命令を優先しそうじゃないか.」
「分かりました,ありがとうございます.」
そこまで聞くと少年は,晴れ渡る青空を思い起こさせる笑顔を見せて礼を言った.
そうしてさっと踵を返して,少年を待つ集団の方へと戻る.
まさか自国の王とは思わずに,男たちは不思議そうに少年の後ろ姿を見送った.
なんとなく忘れられない印象の少年である.
「心の魔法だ.」
マリは自分を見つめる5人に向かって告げた.
「兵士たちは心の魔法によって,操られているんだ.」
心の魔法…….
君は初めて会ったときから,私の暗示にかかってしまったのだよ.
明日香は不安そうに少年の顔を見つめ返した…….