身を焼き付ける太陽から故意に視線を逸らし,漆黒の髪の,少年の姿をした少女は北のほうを眺めた.
北の方にある王都を発ってから,すでに20日が過ぎていた.
少女は今,ツティオ公国とガトー国を交易する商人たちの馬車隊に,護衛として雇われている.
「アスカ!」
背後から声を掛けられて,少女は振り向いた.
「交代だ,馬車の方に戻って飯食いな.」
男臭い印象を与えるが,妙に人を安心させる気配を持つブレオである.
「はい.護衛長は今から哨戒ですか?」
少女が訊ねると,ブレオは少女の短い髪をぐちゃぐちゃにするように頭を撫でた.
「ガキのくせにあまり畏まるな.さっさと食べにいきな.」
不思議とあまり不快感を感じずに,明日香はくすっと笑った.
馬車に戻るとすぐに,亜麻色の軽くウェーブがかかった髪の少女に捕まる.
「アスカ,おかえり!」
ついこの間,盗賊に襲われそうになっているところを助けた少女である.
「ただいま,エンカ.」
明日香がそっと微笑むと,エンカはついつい頬を赤らめてしまう.
商人である父母に連れられて,家族で商隊に加わっている15歳の少女だ.
「アスカが男の子だったら,お嫁さんになってあげるのに…….」
無邪気に明日香の右腕を取り,少し残念そうに笑いかける.
「ありがと.でも私そうすると,7人もお嫁さんをもらわないといけない.」
背の高い少女が苦笑すると,エンカはすぐにぴんときて言い返す.
「何!? 過去に6人もの女性から同じ事を言われたの?」
「うん.」
少し年下の少女をからかうように,明日香は笑った.
「こう見えても,同性にはもてるの.」
いたずらめかして明日香は答える.
すねたようにエンカはぶすっとして,漆黒の髪の少女を見つめた.
すらりと伸びた手足,整った顔立ち.
日に焼けた健康そうな肌,けれどどこかあやふやで危なっかしい漆黒の瞳.
こう見えてもと本人は言うが,十分に人を引き付ける魅力を持つ少女だ.
「ねぇ,じゃぁ,お嫁さんになっては何回言われたことがある?」
エンカからの深い意味など無い質問に,明日香はどきっとした.
彼女が私の花嫁だ!
銀の髪,青の瞳の少年の姿が鮮やかに脳裏に蘇る.
いきなりですまないが今から結婚してくれ.
確かに余りにもいきなりだったよね,あれは.
思わず思い出し笑いをすると,エンカがじっと不思議そうな顔をして見つめていた.
「ごめん,なんでもないから.」
誤魔化すように,明日香は微笑んだ.
もう二度と逢わないから,あの少年とは…….
エンカと二人で昼食を取っていると,エンカの両親がやってきた.
そうして当然のごとく,4人で卓を囲む.
まるで家族の一員になったみたいな食事風景に,明日香は少し戸惑った.
「ツティオの新王はなかなかすごいらしいわね.」
エンカの母親の科白に,つい明日香は手に持った皿を落としそうになる.
商人らしく,社会情勢に詳しいエンカの両親だが,この話題が出たのは初めてだ.
「帝国相手によくやっているそうじゃないか.そうだ,アスカは確か王都の出身だろう?」
父親の方に話を振られて,明日香はあいまいに頷いた.
「王様に会ったことがあるんじゃないか? なんでもまだ17歳だという話だぞ.」
「う,噂だけなら…….」
早くこの話題が終わるように祈りながら,少女は言葉を濁した.
「どんな噂?」
エンカが瞳を好奇心にきらきらさせて,無邪気に聞いてくる.
「えっとぉ,子供の頃,家出したら盗賊に捕まったとか……,」
「その盗賊ってのは,俺のことだぞ,アスカ.」
いきなり後ろから話に割り込まれて,明日香は驚いて振り向いた.
見回りを終えたらしいブレオが,楽しそうに微笑んでいる.
「ははっ,驚いただろ? 実は国王陛下とはちょっとした仲なんだぜ.」
しかし自分自身の科白に反して,次の瞬間ブレオは他の誰よりも驚いた表情になった.
「アスカ! お前……,」
ぎょっとする少女の腕を取り,ブレオは聞いた.
「まさか,あのアスカか!?」
さっと少女の顔が青ざめる.
「なぜ,こんなところに……?」
二人のやり取りを,意味がわからずにエンカたち家族は見守った.
「王妃であるお前が,なぜこんなところに居る?」
改めて二人きりになり,ブレオは少女に問いただした.
「どうして,私の名を知っているのですか?」
男の質問には答えることができず,明日香は聞い返した.
「あのガキに,いや今は国王陛下だが,聞いたんだよ.好きな女の子がいるって.」
思わず少女の顔は赤くなる,いったいどれだけの人に自分のことを言いふらしたのだ,あの少年は!?
「結婚したって聞いたから,きっとアスカという名の女性としたのだろうと思っていたのだが……,」
ブレオは少女を逃さずに,聞いた.
「お前がここにいることをマリは知っているのか?」
少女は漆黒の瞳をおどおどとさまよわせる.
「……し,知らない.私はマリ君から逃げてきたの.」
自分自身を鼓舞して,明日香は再びブレオの瞳を見つめた.
「なんだそれは!? 家出か? 今ごろ,血相変えてマリは探し回っているんじゃないのか!?」
途端に気付く,ブレオの顔は死んだ父に似ているのだ……!
「だって,私はマリ君に相応しくないから…….」
少女はぼそぼそと言いよどんだ.
ブレオの顔が激しく歪む.
「はぁ!? それはマリが決めることだろ?」
「で,でも,マリ君は私のために国王であることを辞めるって……,」
必死に言い訳するように,少女は言った.
しかし言ってしまってから気付く,なんて恥ずかしい科白だ.
「本当かよ,それは!?」
強く,少女の両肩を掴んでブレオは訊ねた.
途端に少女は獣のように全身の毛を逆立てる.
「触らないで!」
肩に置かれた手を,汚らわしいもののように叩き落す.
もうあの少年以外には触れられたくない……!
はっと気付くと,きょとんとした顔をしてブレオは少女を見つめていた.
「アスカ,お前の護衛の任を解く.」
そして厳しい顔で少女に命令する.
「明日からはエンカと一緒に雑用係りだ.それから,……余計なお節介みたいだから,もう聞かねぇよ.」
さっと踵を返して去りゆくブレオの広い背中を,捨てられた子供のような眼をして少女は見送った…….