太陽は君のもの!


第二十三章 偽りの姿


まったく手のつけられなかった食事をトレイに戻して,ケイカは部屋から出た.
ドアを閉めてから,ふぅとため息を吐く.
「母ちゃん,アスカは?」
廊下で待っていたらしい息子が,不安そうに聞いてきた.
ケイカは無言で首を振る.

今日でもう3日間,少女は食事をのどに通していない…….
気遣えば大丈夫だと答え,そのくせがたがたと震えが止まらず,食事を無理に勧めれば一口二口食べただけで吐いてしまう.
げっそりとやせ細ってゆく少女に,もはやお手上げである.

「なぁ,サイラ.陛下を呼ぼうか……?」
銀の髪,青の瞳の少年……,夫である少年の姿をちらと見ただけで少女は狂ったように泣き叫ぶ.
そのときだけは,少女は吐き出すように激情を見せるのだ.
「屍のように茫洋と倒れこんでいるよりも,そちらの方がまだいいような気がする.」
少女が興奮するから,部屋には来ないように頼んだけれど…….

サイラがマリを呼びに行くと,少年は自らの叔父となにやら話し合っていた.
快活なはずの少年は,どこか捻じ曲がったような表情をしていた.
少年はすぐにサイラの視線に気付いて,アカムに暇を告げようとする.
すると真剣な目をしてアカムは,甥の手を取り引き止めた.
「陛下,あなたが王ですよ.」
叔父のまっすぐな視線から逃げるように,銀の髪の少年は彼の前から去った.

話し掛けづらい空気を感じて,サイラはマリとともに無言で廊下を歩く.
「アスカは?」
部屋の前に着くとすぐに,マリはケイカに聞いた.
ケイカは黙って首を振る,もうそれだけで意味は通じる.
回復魔法をどれだけ駆使しても,少女が食事を取らなくては身体は衰弱してゆく一方だ.

静かに扉を開けて,少年は部屋へと入った.
漆黒の髪の少女がベッドに横たわって眠っている.
思わず少年はほっとしてしまった.
いくらショックを受け錯乱しているとはいえ,少女から強い拒絶を受けるのは正直つらい.

そっと少女の頬に触れ,肉の削げ落ちた身体にぞっとする.
「緑の息吹よ,地に住む我らが母よ.我に癒しの御手を貸したまえ.」
うす桃色の光が少女を包む.
魔法の柔らかな光に,ふっと少女が漆黒の瞳を開いた.
「あ,あ…….」
少女の体がかたかたと震えだす,もう叫んだり暴れたりする体力が無いのだ.

「アスカ…….」
マリはぎゅっと少女を抱きしめた,そしてその細さに泣きたくなる.
「離して,私は汚い…….」
腕の中で,少女が震えながら懇願する.
「……やだよ.」
自分の思った以上に子供っぽい声に,少し少年は驚いた.

「離さないよ,好きだ,君のことがものすごく大切だ.」
少女を抱く腕に力がこもる.
「……このまま,死なせない.」
そう,だから君に魔法をかけよう…….

「アスカ.」
マリは明日香のふらふらと焦点の定まらない漆黒の瞳を見据えた.
「君は今からヒロカだ.私のいとこのヒロカだ.」
幸いにして,年も同じぐらいだし名の響きも似ている.
「カリンの妹のヒロカだよ.このツティオ公国で生まれ育った少女だ.」
倒れこみそうになる少女を支え,少年は言った.
「なんのつらいことも悲しいことも無い,君はヒロカだ…….」

そのまま倒れこんでしまった少女を少年は見つめた.
本来自我の確立していないような子供にしか効かない暗示だが,彼女にはきっと有効だろう.

「アスカ!」
緑の中に少女の姿を見つけ,マリは叫んだ.
「誰!?」
警戒心に身をこわばらせて,少女は振り返った.
10年ぶりに逢った少女は,長かった髪は短くなり,痣だらけだった身体は日に焼けて健康そうだった.
そして何よりもすらりと伸びた肢体が,美しかった.

「私だよ,マリだよ.10年前に1度だけ会っただろ,憶えてない?」
すると少女は,深い色をした漆黒の瞳を瞠目させる.
「マ,マリ君!?」
信じられないものを見たように,少女は叫んだ.
「ほんとにマリ君なの!?」
瞳を潤ませて,すがるように見つめてくる.

「そうだよ,アスカ.会いたかった.」
少女の表情を見て,迎えに来てよかったと少年は心の底から思った.
ずっと逢いたかったし,少女の方でも同じ気持ちだったのだ.
「約束,憶えているだろ?」
「え?」
不意に厳粛な気持ちが湧いてきて,少年は少女の前に跪き,戸惑う少女の手を取った.

「やっと,迎えに来ることができた…….」
もう,この手を離さない.
「ずっと,一生大事にするから.」
ふいに口に出た言葉,しかしそれはすぐに真実になる…….

暖かいスープを一口すすると,幼馴染のサイラはよかったよかったと笑い,サイラのお母さんのケイカさんなんか涙ぐんでしまう.
「何? 私はそんなに大変な病気だったの?」
ヒロカになってしまった漆黒の髪の少女が訊ねると,親子はあいまいに頷いた.

「ヒロカ様,3日間飲まず食わずだったのですから,ゆっくりと召し上がってくださいね.」
泣き笑いの表情でケイカは目じりの涙をぬぐう.
「はぁ.」
具の無いスープをだた一皿だけ渡されて,明日香は気の抜けた返事をした.

妙に味の無い食事,だるくてたまらない体.
私は病気だったのか…….
少女は少しの疑問も抱かずにその認識と新しい名前を受け入れた.

それから10日ほど経ったある日,カリンとヒロカが城へと帰ってきた.
「うまくいった? 陛下.」
カリンが明るい青の瞳を輝かせて聞いてくる.
「あぁ,使者は驚いて帝国へ帰ったよ.」
しかし,その割には少年の顔色はさえない.

不思議に思って訊ねると,いとこの少年は神妙な顔をして答えた.
「実は今,アスカはヒロカになっているんだ.」

「ヒ,ヒロカ!?」
いきなり勢いよく扉が開いて,姉であるカリンがやってきた.
「あ,おかえり,お姉ちゃん.」
飲んでいたスープの皿をテーブルに戻し,明日香は屈託無く笑う.
少女はいまだに流動物しか口に含むことができなかった.

すると,これもまたいきなり姉は少女の身体を抱きしめる.
しかも姉は自分を抱きしめながら泣いているのだ.
「お,お姉ちゃん!?」
テーブルの椅子に座ったままで,明日香は戸惑った声を上げた.

部屋の前の廊下では,本物のヒロカがマリとともに居た.
「すまない,ヒロカ.アスカがちゃんと食事をできるようになるまで,名前を貸してくれ.」
すると,同情するように少女は答える.
「私は別にいいけど,……あのさ,陛下……,」
そうして意を決したように言う.
「アスカはもうずっとヒロカのままにしておいたらどうかしら?」
少年が不思議そうな顔をすると,ヒロカはさらに言い募った.
「だって,私ならそんな記憶は忘れていたいし…….」
少女はつらそうに俯いた.

確かに,そうかもしれない…….
銀の髪の少年は,視線をドアの方へと移す.
こんなにも簡単に心の魔法にかかってしまうのも,自分自身を忘れてしまいたいからだ.
……しかしそうなると,私のことはどうなるのだろう.
瞬間,少年の顔がかっと赤くなる.
少女の身を案じることよりも,自分の感情を優先させたことに気づいたからだ.

妹になってしまった少女を抱きしめ,ひとしきり泣いた後,カリンは部屋から出ていった.
それと入れ違いに,マリが部屋へと入ってくる.
今の少女にとっては一つ年上のいとこであり,この国の王でもある少年.
じっと熱っぽい眼差しに見つめられて,明日香は思わず頬を赤らめた.

ヒロカとして存在する少女を,初めてマリは見た.
今まで,逢ってしまえばアスカと名を呼んでしまいそうで避けていたのだ.
「……ヒロカ.」
愛しい少女を偽りの名を呼ぶ.

少女の顔がますます赤くなる,動悸が激しくなる.
その瞬間,自分を捕らえた感情をどう説明すればいいのか分からない.
「ヒロカ.」
再び名を呼ばれて,体の芯が痺れる.
明日香は逃げ出したい衝動に駆られ,椅子から慌てて立ち上がった.
途端にがたんと派手な音を立てて,椅子が倒れる.

「ヒロカ!」
腕を捕られて,まっすぐに青の瞳で見つめられる.
「……へ,陛下?」
少女は戸惑って,捕まれた腕を見つめた.
自分は今,どんな顔をしているのだろう……,きっとすごく変な顔に違いない.

「ヒロカ,私と一緒にガトー国へ行かないか?」
少女の漆黒の瞳が見開かれる.
顔を上げると,まぶしい太陽にかち合ったような錯覚を覚える.
「……私は王であることを捨てるつもりだ.」
少年はきっぱりと宣言した.

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