水底呼声』番外編

テルの物語

  僕のままで  

僕はテル.
テルだけど,あまり出来のいいテルじゃない.
僕は語るべき物語を見つけられずに,もう何ヶ月もこの予備校にいる.
コンビニで買ったサンドウィッチや菓子パンを食べ終えて,僕はばたんと机につっぷした.
「いつまで,ここにいるのだろう?」
テルの運命をつかさどる神様,教えてください.
「大学に受かるまでに決まっているだろ.」
頭上から白けた声が降ってくる.
「翔(しょう)君,冷たいよー.」
翔君のメニューは,焼きソバとからあげ弁当.
翔君は細いのに,よく食べるなぁ.
「ちがう世界に行きたいと思うことってない?」
「ないな.」
うぅ,速攻で断言だし.
「僕は行きたい,受験勉強は飽きたよ.」
てゆうか僕,まさか本番の試験までこの世界にいるの?
「漢文なんて人生に必要ないし.」
そもそも僕はテルなのに,国破れて山河ありだよ.
「教室の中で言うなよ,情けない.」
あからさまにあきれた顔をする翔君.
どうせ今,ここで昼食を食べている皆だって,そう思っているよ.
「それにちがう世界に行っても,無意味だろ?」
翔君はからあげをひとつ,口の中に入れる.
「へ? なんで?」
僕は翔君のお弁当から,からあげをひとつネコババした.
「ちがう世界に行っても,俺は大学受験をするに決まっている.」
「マジで?」
勇者として魔王を倒したり,美少女を救ったりしないんだ.
さすが翔君,偏差値が余裕で60を超えているだけのことがある.
「そしてお前は,人の食い物を盗むに決まっている.」
すみませんね,ザコキャラで.
「でもさ,素敵な冒険が待っているのかもしれないよ?」
もっと夢を持とうよ.
存在そのものがファンタジーな僕が,目の前にいるわけだし.
「冒険?」
翔君は鼻先で笑った.
「自分が自分のままだったら,何もならないだろ?」
「……そうかもしれないけど.」
翔君って,絶対に僕の正体を信じなさそう.
世界を渡る風の少年なんだけどなぁ,一応.
「世界が変わっても,自分は変わらない.」
からあげ,――あ,もう無い.ならば,ちくわを,
「勉強しないやつはしないし,ばかなやつは,ばかなままなんだよ.」
翔君の声が大きかったのか,教室の温度が一気に下がった.
痛い沈黙が流れる.
僕は古いパソコンのようにフリーズした,ちくわどころじゃないし.
けれど気まずい雰囲気は,三秒ほどで終わる.
誰も何も聞かなかった振りで,平和なお昼休みに再起動.
僕は声を小さくして,翔君を注意した.
「翔君,駄目だよ.」
「そんな本当のことを,“教室の中で言うなよ”?」
眼鏡の奥の瞳が,意地悪く光る.
あぁ,これだから頭のいいやつは嫌いだぁ.
「なぁ,照彦(てるひこ).」
ふいに,翔君がすごく素直な声を出した.
「ちがう世界に行っても,自分からは逃げられない.」
翔君は,500ミリのペットボトルのふたを開ける.
「俺たちは不幸だな.」
ごくごくとお茶を飲みこんで,僕の返答を避けた.
この予備校で,もっともレベルの高いクラス.
特待生ばかりが集まる難関国公立大文系コースS.
僕たちは入学するときに,必ず京都大学に受験することを約束させられている.
京大に合格しないといけない自分,そんな自分から逃げられない翔君.
「でも,……さ.翔君.」
同情心みたいなものがわき起こって,僕は言った.
「自分が自分のままならば,」
世界を渡るたびに記憶を失う,自分がない僕とはちがって.
「自分自身を成長させることができるんだよ.」
翔君はペットボトルのふたをきゅっと締めて,口の端だけを持ち上げて笑った.
『水底呼声』目次

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