濃いこげ茶の右目と,それよりも少し薄い茶色の左目.
初めは警戒心と恐れに満ちていたその瞳が,今はこちらに向かって甘く微笑みかける.
しかしその瞳が銀に輝くとき,無限の力を持つ竜が目覚める…….
「ねぇ,あの橋を渡るしか国境を越える方法は無いの?」
サラとセイは国境付近を,すでに10日以上さまよい歩いていた.
何度も軍隊に追いまわされて,のことである.
「あぁ,あれはただの川じゃなく,国境を守護するものだからな…….」
そっけなくセイは答えた.
そう,この国を守護する銀竜がこの世界に存在する限り,何人も国境の川を渡ることは不可能だ.
皮肉なものでサラの進路を妨害しているのは,サラの中にいる神竜なのである.
サライに渡る商人に身を扮しても,連日の追いかけっこでセイもサラもとうに姿かたちを憶えられている.
国境を渡るにはもはや力ずくで軍隊に向かってゆくしか無かった.
しかし足手まといでしかない彼女を連れて,2000人近い兵士たちから逃げられるだろうか……?
じっと見つめるセイの視線に気付いて,サラは不安そうな顔を向ける.
背中を覆う長い栗色の髪,甘くやさしげな顔だち.
するといきなり青い顔をして,セイの顔を覗き込んで来る.
「なんだ?」
びっくりして,セイは聞いた.
「……ごめん,なんでもない.」
サラは固い表情をしたままで答えた.
「単なる見間違い…….」
一瞬,セイの顔が血まみれに見えた…….
「そろそろ,いいかげん決着をつけるか.」
レニベス王国の,サライ諸侯国国境警備のための砦の一室でクランはつぶやいた.
テーブルには付近一帯の地図が散らかっている.
少し驚いたような顔で彼の副官ブレーメンは,テーブルの上の地図から顔を上げた.
「ブレーメン,やつらを生きたままで捕らえるぞ.しかも無傷でだ.」
「何を言っているのですか?!」
ブレーメンは,驚いたというより呆れた声を出した.
「それで王都に連れて行く.」
「そんなことが可能だとお思いですか?あの赤毛の男の強さを,あなたも
よく分かっているでしょう?」
しかし明るい海の色の瞳で,クランはきっぱりと言った.
「フィローンに会いたいんだ.あいつらを連れて行けば会えるだろう…….」
「陛下に……,ですか?」
「あぁ,聞きたいことがたくさんあるんだ…….」
カイ帝国を引き入れたこと,銀竜の一族を襲ったこと,そして今その生き残りの少女を殺そうとしていること…….
遠い日の面影は,クランにとってはあまりにも遠すぎた…….
「作戦はもう考えた.すぐにうちの兵だけを集めてくれ.」
するどい視線で,ブレーメンに否を言わせない.
「分かりました.しかし第8騎士団はいいのですか?」
「あいつらには介入させない.おれら第10騎士団だけでやる.」
森が悲しげにざわめいている.
初めの頃よりは幾分慣れたとはいえ,不器用に馬を歩ませながらサラは思った.
いやな予感がする…….
「サラ,兵隊だ.」
少し前を行くセイが,自分の馬を降りてサラの方へやってきた.
「逃げるぞ.」
と言ってサラの馬へ飛び乗り,馬の綱を取る.
「しっかり捕まっとけ!」
サラが後ろからぎゅっと抱きつくのを確認すると,セイは一気に馬を走らせた.
程なく後ろから聞こえよがしの喚声と馬蹄の轟が聞こえてきた.
サラの脳裏に一瞬先の未来が,彼らを乗せた馬が倒れる光景が唐突に浮かぶ.
「セイ,止まって!」
いきなりセイの背中越しにサラは叫んだ.
「罠が……!」
サラの瞳が銀に輝く.
しかしその予言はすでに遅かった.
「うわぁっ!」
いきなり馬が倒れ,セイとサラは馬から投げだされた.
セイにかばわれながら道に転がり落ちたサラは,ちょうど馬の足元にかかるように道に綱が張っているのを発見した.
「逃げるぞ!」
セイがしゃがみこんだままのサラを引っ張り上げる.
彼らは道から出て,森の中へ逃げ出した.
クランはその光景を少し離れた場所から見ていた.
「よし.じゃ,例の場所へやつらを追い込め!」
まるで獣を狩るようなクランの作戦である.
森の中,セイとサラはひたすら追いまわされる.
やばい,誘導されている……!
セイは半分以上サラを抱え込むようにして走りながら,いまいましげに舌打ちした.
「セイ,上!」
うっそうと葉の茂った木の上から,いくつもの矢が降り注ぐ.
「くそっ.」
左腕にサラを抱えながら,セイは右手で剣を振るい矢を叩き落した.
そして兵の居ないほうへ,居ないほうへと走り出す.
「状況が変わったのか!? ……なぜ今回はこんなにしつこい!」
セイの瞳に焦りが色濃く映った.
ふとサラの方をみると,真っ青な顔で彼に抱えられながら走っている.
するとサラの瞳が銀に輝く.
「無限の力を持つ我が神よ,愚かなる者たちにその魔力を伝えたまえ!」
あたりが銀に輝き,木の上で矢を番えていたらしい幾人もの兵士たちが落ちてくる.
倒れこみそうになるサラを,セイは抱きかかえて走った.
唐突に開けた場所に出る.
「はい,ここでゲームオーバー.」
兵士たちが矢を番え,セイたち二人を囲んでいた.
彼らはまんまとおびき寄せられたのだ…….
兵士たちの中心にいる茶色の髪,明るい青の瞳をした男が話し掛けてきた.
「もうこれ以上の抵抗は無駄だよ.」
そして人好きのする笑顔を見せる.
「君たちを決して害しないから,捕まってくれないかな?」
セイはその男をきっとにらみつけた.
もはや逃げ道はない,しかも腕の中にいるサラは青い顔で浅い呼吸を繰り返している.
銀竜が彼女の生命を蝕もうとしているのだ…….
「分かった.その言葉,信じていいんだろうな?」
まったく人を信用していない瞳で,セイは答えた.
すると,人を喰ったような笑顔でクランは笑う.
「別に信用せずに,途中で逃げてもいいよ.」
セイは軽く眉をひそめる.
油断無く,弓を番えた兵士たちがセイを見つめる.
「ただ,今は捕まるしかないんじゃない? それから一応その剣は捨ててくれ.囚われの身になるんだからね.」
ガシャン.
セイは自らの剣を乱暴に投げ捨てた.
そしておもむろに腕の中に抱え込んでいる少女に口付ける.
クランも兵士たちも,あっけに取られてその光景を見守った.
「……セイ?」
サラの顔色を確認すると,セイは彼女を地面に立たせた.
「サラ,隙をみて逃げ出すからな.」
そうしてそっと彼女にささやく.
「よし,捕らえろ.」
クランが兵士たちに命令を下す.
しかし,その瞬間.
幾十もの矢が,兵士たちに囲まれているセイとサラの上に降り注いだ!
「サラ!」
セイが叫び,サラを降ってくる矢からかばうように抱きしめる.
「誰だ!」
声まで青ざめさせて,クランは叫んだ.
矢は,セイの背中に,太ももに,そして首筋にいくつもささった.
サラを抱きしめながら,セイは口から大量の血液を吐く.
「将軍,あちらです!」
クランがその方向を見やると,第8騎士団とともに騎士団長ナシオの姿が見えた.
「クラン将軍.必ず殺せとの命令ですぞ!」
憤慨したように,ナシオが叫ぶ.
「……セイ?」
血に染まった顔,矢のささった体.首筋から,信じられないほどの血液が流れ出してゆく.
「武器を持たないものに対して!」
クランの瞳に怒りの炎が燃え上がる.
「早く回復魔法をかけろ!」
ブレーメンが兵士たちに指示を出す.
しかし穏やかな満ち足りた表情をして,セイはその緑の瞳を閉じた.
「う,そ…….」
あまりにもあっけない別れを,サラは信じることができない.
駆け寄ってきた兵士たちが,絶望的な顔でセイの顔を覗き込む.
「将軍,駄目です.ほぼ即死です!」
「さぁ,その小娘も殺すのだ!」
ナシオが兵士たちにどなる.
「お前らに騎士の誇りはないのか!?」
クランがその燃える両目を,同国の軍人たちに向けた.
その気迫に,兵士たちは第二射を弓に番えることができない.
セイ…….
死んでしまったの?
私のために……?
セイを囲む兵士たちが,気まずそうにサラを見つめる.
彼らの視線の先で,彼女の両目が銀に輝きだす.
絶対に,助ける…….
私のすべてをかけても…….
「うわぁ…….」
「あ,あれは…….」
二人を囲んでいた兵士たちがあとずさる.
サラの体から耐え難いほどの光が漏れている.
そうしてその身のうちから銀に輝く大きな神竜が顕現したのだ.
「なっ.」
クランは驚いた目をみはった.
あれが銀竜……!?
レニベス王国の守護神!
「あ,あ,」
恐ろしさにがたがたと振るえながら,ナシオは竜を見上げる.
自分がどれだけ巨大な存在を相手にしていたのか,やっと悟ったかのようだ.
しかし竜は大きく一回だけ羽ばたくと,宙に身を溶け込ませて消えてしまった.
その消えた跡には,一組の男女が倒れ伏している.
「銀竜は去ったみたいですね.」
強い瞳をナシオに向けて,クランは告げた.
「この世界から,銀竜の一族が居なくなったので.」
狼狽して,ナシオは答える.
「わ,私は王の命令に従っただけだ…….」
「我が王国の今後を考えると,なかなか楽しい気持ちになれますよ,ナシオ将軍.」
クランは皮肉な色を瞳にこめた.
殺させてしまった……,第8騎士団にもっと注意を払わなかった俺のミスだ!