恋人は月でピアノを売っている

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  番外編「G線上のアリア」  

 「G線上のアリア」は、有名なバイオリンの曲だ。クラシックにうとい人でも、メロディーを聴いたことはあるだろう。ゆったりとした優しい曲調で、昔から仁史の得意な曲だった。
 菜苗は何度も、彼の「G線上のアリア」を聴いた。音楽大学へ進学しないのが、もったいないほどのバイオリンの腕だった。
 今も仁史は、TSUBAKI本社ビル一階のロビーで、あたたかい音色を響かせている。ロビー全体が、穏やかな雰囲気に包まれている。それが仁史という人間の色だ。
(「G線上のアリア」はみんなが知っている定番曲。コンサートの一曲目として使いやすい。この奇をてらわない選曲は、多分、仁史だ)
 ピアノ伴奏をするのは、社長の宮部勉だ。彼は先月、息子が犯罪を犯し、その責任を取って会社を辞めると言った。しかし勉を引き留める人は多く、勉は会社に留まると決めた。だが、
「本人がやめると言っているのだから、社長の座を降りてもらおう」
「辞任ではなく、何らかの懲罰を与えるべきではないか」
 という手厳しい声も多い。菜苗はこれらの話を、アンジーから聞いた。そんなとき仁史が中心となって、このロビーコンサートが企画されたのだ。
 TSUBAKIは老舗の楽器メーカーだ。本社ビルのロビーには常時、グランドピアノが置かれている。ロビーコンサートも年に数回ほど開催されている。
 しかし今回のコンサートは特別だ。息子が問題を起こした社長の勉がピアノを弾き、その被害者だった仁史がバイオリンを弾く。
 ロビーにはパイプいすがたくさん並べられて、開演前には八割がたが埋まった。ほとんどの観客が、本社ビルで働く人たちだ。ただしいすの後ろでは、マスコミらしい人たちがカメラを構えている。
(こんなにぴりぴりしているコンサートは初めて見る。コンクールの緊張感とはちがう。嫌なテンションの高さだ)
 菜苗は後ろの方の座席に座り、仁史を心配した。前の方の席では、アンジーや義則たちサポート課の面々が座っている。菜苗はアンジーにこのコンサートのことを聞き、誘われたのだ。
 コンサートの開始時刻になると、仁史がバイオリンを持ってステージに上がってきた。ともにステージに上がる勉は、顔色が悪い。司会の女性がマイクを通して、演奏する曲を紹介する。仁史は堂々とバイオリンを弾き始めた。
 衆目の中、太く低く響き渡る仁史のバイオリン。さすが仁史は弾き慣れている。安定感のある演奏だ。そんなバイオリンに対して、緊張して、ぎこちない勉のピアノ。
(彼はピアノを弾くのは、ひさびさなのだろう。伴奏用の楽譜は、かなり簡単にアレンジされたもの。けれど指が、自分の思いどおりに動いていない)
 菜苗は同じピアニストとして、勉を心配した。けれど三十秒もたたないうちに、彼の口もとに笑みが浮かぶ。仁史は勉を見つめ、彼を気づかいながら主旋律を演奏していた。大丈夫です。僕に任せてください。そのメッセージに、勉は気づいたのだ。
 勉は仁史のリードに合わせて、落ちついてピアノを弾く。もう肩の力は抜けていた。仁史も勉の呼吸に合わせて、バイオリンを弾く。もともとゆっくりした曲だが、仁史は勉のために、よりいっそうテンポを落として演奏する。
(たがいに気づかい合う、優しいデュオだ。仁史の寛容でおおらかな性格が、演奏に現れている。そしてそれが、観客たちに好印象を与えている。ロビーのぴりぴりした雰囲気を、仁史は一掃した)
 五才も年下の仁史を、菜苗は尊敬する。そして同じ演奏者として、ねたましくもなる。そのころになると、観客の誰もが、このコンサートの趣旨に気づく。仁史は勉を許している。会社から離れてほしくない。 自分 バイオリン には ピアノ が必要と考えている。
 その気持ちをすべての人に知らせるために、このコンサートを開いた。さらに被害者の仁史が勉を許している以上、誰も勉を責められない。これからさき、勉に辞任や減給などを求めることは難しい。
 楽器メーカーのTSUBAKIらしい、そして仁史らしいやり方だった。曲が終わると、ロビーは大きな拍手に包まれた。菜苗も手が痛くなるほど、両手をたたく。
 仁史と勉が少し驚いてから、照れたようにお辞儀をする。勉は仁史の方へ歩み寄り、ふたりはしっかりと握手をした。仁史はほっとしたように、笑顔を見せる。勉も笑い、親しげに仁史の肩をたたく。ほほ笑ましい光景だった。
「社内有志メンバーによる『G線上のアリア』でした。すばらしい演奏を聴かせてくれたおふたりに、皆様、今一度、大きな拍手をお願いします」
 ステージのはじで、司会の女性がうれしそうにしゃべる。再びロビーは拍手に包まれた。
「御曹司、やるな」
 菜苗の右隣の席で、知らない男たちがささやいている。
「無重力ピアノの成功は、まぐれではなかったみたいだ」
「社内の勢力図が、これでまた変わる」
 彼らは感心したように話す。しかしその一方で冷静だった。菜苗は背後を振り向いた。マスコミたちは拍子抜けしている。菜苗はくすりと笑った。彼らはスキャンダルを期待していたのだろう。しかし予想は裏切られた。
「無重力ピアノのプロジェクトリーダー、社長とともにすばらしい演奏。記事のタイトルは、これぐらいしかない。さすがTSUBAKIは、社長も御曹司も楽器がうまい」
 大きなカメラを持った男性が苦笑して、隣の同僚の女性に話す。ステージの方では勉が退場し、代わりにトニオがやってきた。観客席から、楽しげなヤジが飛ぶ。
「ひっこめ、本社のクマ!」
「トニオ、ピアノを壊すなよ!」
 トニオはクマのように体が大きい。彼がピアノのいすに座ると、グランドピアノが小さく見える。トニオは怒ったふりをする。
「黙って、俺の演奏を聴け!」
 いきなりピアノを弾き始めた。去年、全世界でヒットした映画の主題歌だ。ノリのいいアレンジになっている。仁史があわてて、バイオリンを演奏し出す。
 トニオのピアノは力強い。そのくせ、技巧的で繊細だ。予想以上にうまく、個性もある。ただ彼は最初から飛ばしている。曲のテンポはどんどん速くなり、仁史はついていくのが大変そうだ。司会の女性があきれたように、
「曲紹介がまだですよ」
 とつぶやいて、ステージから引っこんだ。今度は、仲のいい仲間同士の遠慮のないデュオだ。ふたりとも自己主張するように、自分の楽器が主旋律になればフォルテッシモで演奏する。仁史もトニオも、いたずら小僧のように笑っている。菜苗も笑顔になった。
 TSUBAKIは音楽が好きな人間の集団なのだ。仁史とトニオのデュオが終わると、次は飛び入りで、菜苗の知らない誰かがピアノを気持ちよく弾く。
 その次はプログラムどおりに、二本のバイオリンとヴィオラとチェロによる弦楽四重奏。それが終わると、なぜかロビーにいる全員で、TSUBAKIの社歌を二部合唱で歌いだす。
 コンサートは大いに盛り上がって、終わった。スマートフォンなどでムービーを撮っている人も多かった。すでにこの楽しかったコンサートは、ネット上のSNSなどに公開されているだろう。
 トニオたちと笑い合う仁史をしり目に、菜苗は静かに席を立つ。菜苗は先月、仁史と恋人関係を解消した。自分と仁史がこれから、どうなるのか分からない。
 けれど、ふしぎなほど悲壮感はなかった。仁史にも、思いつめた様子はない。なぜなら菜苗と仁史は、音楽でつながっている。仁史があのあたたかな音色を響かせるのなら、菜苗と仁史の道はどこかでまた交わるのだ。
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