恋人は月でピアノを売っている

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  18 過去は消せない  

 菜苗は十六才のとき仁史と婚約させられ、二十三才のとき婚約を破棄された。その三年後、菜苗は自分の意志で彼と恋人になった。だが仁史が結婚の二文字を出したことで、菜苗の心は揺らいだ。
 菜苗は仁史と婚約していたとき、彼に好感を抱いていたが、結婚するのは嫌だった。最初は小学生だった仁史だが、少しずつ大人になっていく。結婚できる年齢、――十八才に近づいていく。
(婚約ならまだしも、結婚なんて嫌だ)
 菜苗はあせった。そんな菜苗のあせりをよそに、仁史は中学生、高校生になっていった。菜苗より背が高くなり、力もありそうだった。
 そのうち、性的な関係も求められるかもしれない。そう思うと、怖くてたまらなかった。そんな過去の悪夢が、結婚という言葉でよみがえったのだ。
 アパートの中、菜苗は夢中でピアノを弾き続ける。ふと気づくと、仁史が悲しげな様子でそばに立っていた。彼は会社帰りに、菜苗の家に寄ると言っていた。そして菜苗は彼に、合カギを渡していた。
 荒れ狂っていた菜苗の手は止まった。仁史がどれくらい、ピアノを聞いていたのか分からない。けれど今、彼はすべてを理解している。
「僕はバカだと思う」
 仁史は落ちこんでいた。
「僕は正人を友人と思っていた。けれど彼はそう思っていなかった。初めて会ったときから、彼は僕を嫌っていたのかもしれない」
 仁史は菜苗を見つめる。
「そして君も。僕は初めて君に会ったとき、君も僕に会えて喜んでいると思っていた。けれど菜苗の本音は、ピアノの音に現れる。昔も、今も」
 心の底を見透かすような仁史の目に、菜苗は、はずかしさと怒りを覚えた。
「私は、五才も年下の子どもであるあなたを憎めなかった。あなたはとてもいい子だったし、お母様も優しい方だった。けれど本当は」
 今の仁史は、菜苗が憎しみをぶつけてもいいほどに大人になった。
「あなたのことが嫌でたまらなかった!」
 菜苗は吐き捨てた。仁史に対して初めてどなったのだ。
「どうして私なの? あなたのせいで、私の人生はめちゃくちゃよ」
 彼の傷ついた顔を見ても、菜苗の言葉は、激情は止まらなかった。
「本当は合コンも卒業旅行も行きたかった。コンマスの 結城 ゆうき 君が好きだった。声楽の 宮本 みやもと 君なんて、私と交際するために、あなたをなぐりに行くとか言っていたのよ」
 仁史はまだ中学生だからやめて、と菜苗は彼を止めた。
「ヨーロッパ留学だって、できたかもしれない。あなたさえいなければ……」
 菜苗は泣きさけぶ。目から涙がこぼれて止まらない。過去は戻らない。高校生や音大生をやり直すことはできない。菜苗は本当は、仁史に恨みごとを言うために月に来た。この憎しみを、やるせない思いをぶつけたかった。彼を傷つけ復讐したかった。
「そばにいて」
 ぐちゃぐちゃになった思考の中、菜苗はつぶやく。
「私があなたに婚約を強制されたみたいに、私のそばにいて」
「それは菜苗さんにとって、苦痛ではないですか?」
 仁史の言葉が、昔どおりの敬語に戻った。彼はひたすらに菜苗をいたわっている。
「苦痛じゃない。私はもう、あなたに憎しみをぶつけることができるから」
 菜苗は、引きつった顔で笑った。
「私はあなたを傷つける。だってあなたを愛しているのに、結婚したくない。昔、あなたとの婚約が嫌だった。もう昔のことなのに、結婚と聞くだけでつらい」
 仁史はうつむいた。
「それだけのことを、私はあなたにしたのです。七年間もあなたを縛りつけた」
「ならば私に、あなたの七年間をちょうだい」
 菜苗は今、やっと自分の場所を見つけた。月が地球の周りを回り続けるように、菜苗は仁史の周りを回り続ける。彼を束縛し、愛し続けながら。
「最高級のピアノがほしいの。私のすべてをぶつけられるものが」
 憎しみも苦しみも、愛も喜びも、菜苗はすべて音楽に昇華してきた。ピアニストとして自分が大成するとは思わないし、大成したいとも思わないが、ピアノは菜苗にとって生きるすべだ。
 菜苗の目から、また涙が流れ落ちる。仁史はつらそうに菜苗を見ていた。だがやがて優しくほほ笑んだ。
「分かりました。七年程度で作れるか分かりませんが、必ずあなたのもとへ届けましょう」
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