恋人は月でピアノを売っている

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  11 バダジェフスカ「乙女の祈り」  

 菜苗は、ワンルームの賃貸アパートに住んでいる。部屋は案外広く、中古で買ったTSUBAKIの電子ピアノを置いている。今日は出勤日ではないので、菜苗はそのピアノで、好きな曲を気分よく弾いていた。
「菜苗の気持ちは、音に出る」
 この前、仁史の前で弾いたとき、彼はやんわりと笑んで言った。しかし菜苗は今まで、そんなことを指摘されたことはない。仁史だけが、ほんの少しの音色のちがいを感じ取っている。彼だけが特別なのだ。菜苗はくすぐったい気持ちになって、ふふっと笑った。
 今、弾いているのは、バダジェフスカの「乙女の祈り」。有名な曲で、とても華やかでロマンチックだ。ピアノの上に置いていたタブレットコンピュータが、クラシカルな電話音を鳴らす。せっかく気持ちがのっていたのに。菜苗は弾くのをやめて、タブレットを取った。
 仁史からの電話らしい。着信に応じると、画面いっぱいに彼の顔が映る。仁史の顔は疲れて、あせっているように見えた。
「どうしたの?」
 菜苗は心配してたずねた。
「ついさっき、会社で爆弾騒ぎがあった。サポート課の部屋の近くで爆発したんだ」
 予想外の答に、菜苗はまゆをひそめる。
「けがは? 大丈夫なの?」
「僕もトニオたちも無事だよ」
 仁史はにこっと笑んだ。菜苗は胸をなでおろす。
「今、警察が来て、僕たちに事情を聞いている。社内は大騒ぎだ。そのうち、ニュースにもなると思う」
 仁史は厳しい顔に戻り、しゃべり続ける。
「まだ犯人は分からない。でも、アイドル桜咲菜苗の悪質なファンである可能性が高い」
 菜苗は、胸がえぐられるような心地がした。
「私の恋人である、あなたをねらった?」
 菜苗はよく、TSUBAKIの本社まで仁史に会いに行く。元御曹司の仁史も目立つが、元アイドルの菜苗も目立つ存在だ。菜苗たちの交際は、広く周囲に知られている。
「だと思う。サポート課室前の廊下に、爆発物はあったから」
「ごめんなさい」
 菜苗は暗い気持ちで謝罪した。菜苗の過去の恋人たちも、みんな大なり小なりの嫌がらせを受けた。ここは日本じゃないからと、油断した菜苗が悪い。
「ちがうんだ。謝らないでくれ」
 仁史はあわてて否定する。
「僕が今、心配しているのは、その犯人が君にも害を加えることだ。今、家の中だよね?」
 菜苗のタブレット画面に仁史が映っているように、仁史のPC画面には菜苗の顔と部屋の景色が映っているのだろう。
「うん」
「どうか家から出ないで。三十分後には、君の家にセキュリティガードが来るから」
 仁史は菜苗を案じて、警備会社からガードマンを雇ったのだろう。仁史の気持ちに、菜苗の心はあたたかくなった。
「ありがとう。でも仁史にこそ、ガードは必要よ」
「僕にはすでに、プロの護衛がついている。サポート課の部屋は窓が割れたりして危険だから、僕たちは小会議室に避難している」
 仁史は優しくほほ笑んだ。そのとき、警察らしい背広の男性が仁史に話しかけてきた。仁史は彼と少し話してから、菜苗に向かって、
「ごめん、また連絡する」
 と言って、通話を切ろうとする。しかし横から、アンジーがやってきた。
「菜苗さん。ご不快とは思いますが、ネット上に書きこまれた脅迫文を見ていただけますか? 私が一週間ほど前に見つけたものです。日本語で書かれているので、日本人の可能性が高いです」
 彼女はいつもどおり冷静に話す。が、顔色は悪い。彼女も爆発に巻きこまれたのだろう。菜苗は申し訳ない気持ちになった。
 アンジーの背後に、制服を着た警察らしい中年女性が現れた。菜苗とアンジーは、彼女とあいさつを交わす。簡単に自己紹介をしあった後で、女性警察官は菜苗に、きびきびとしゃべりだした。
「脅迫文を読んで、何か分かることがあれば教えてください。ただし、この文を書いた人物が、爆発犯と決まったわけではありません」
「分かりました」
 菜苗は了承する。
「また爆発犯は、社内の人間だろうとわれわれは考えています」
 警察官は言い足した。それから、脅迫文の画像を菜苗に送る。

「あのアイドルは今!?」
懐メロファン1号>菜苗たんは今、何してる? ツバキの御曹司と結婚?
ナナエちゃんのかわいさは永遠!>結婚したという話は聞かない。TSUBAKIと言えば、社長が死んで、御曹司はクビになった。ざまぁwww
自称情報通>無重力空間で弾けるピアノ(電子ではない)を開発したのは、その御曹司。だからクビではない。むしろ勝ち組のエリート。
懐メロファン1号>菜苗たんは未婚? まだピアノの先生?
自称情報通>仕事もできて、金もあって、ナナエとも結婚できる。死ねばいいのに。
懐メロファン1号>御曹司は爆発しろ。///ドカーン///
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