恋人は月でピアノを売っている

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  08 初めての旅行と不安  

 次の週末、菜苗は仁史にバラ園に誘われた。赤やピンクや黄の花々が咲き乱れ、月面ならではの品種もある。敷地はそこまで広くない。だが月面都市は緑が少ないので、花々に囲まれるとほっとした。隣に、うれしそうな仁史がいるので、余計に幸せな気分になる。
 その次の週末は、地底都市から地表まで上がって、宇宙展望台へ行く。丸い窓から、白い雲をまとう青い地球を眺めた。展望台内は適度に混んでいて、カップルもいれば、家族連れもいる。望遠鏡をのぞいてはしゃぐ子どもたちの声が、ほほえましい気持ちにさせる。
「菜苗は、地球を見るのは初めて?」
 仁史は菜苗の肩を抱いて、たずねた。彼はもう、他人行儀な敬語ではない。
「地球から月へ向かう途中、何度かは見たわ。けれど、こんな風にゆっくりと見るのは初めて」
 月から地球を見ると、地球は本当に大きく、光かがやいている。地球以外の星々も見えるが、小さい。今、第三月面都市は、約十五日間ある夜の期間だ。なので、無粋な太陽は見えない。地球が月にとって、唯一特別な星だ。
「きれいね」
 菜苗はうっとりとつぶやいた。仁史は甘いまなざしで、菜苗を見る。彼のぬくもりを感じながら見る地球は、美しかった。菜苗はもう二度と地球に帰れない。しかし後悔はしていなかった。
 婚約を解消した後、菜苗に恋人がいたように、仁史にもいたのだろう。彼は女性との付き合いに慣れていた。菜苗を、おいしいレストランだのはやりのショッピングモールだのに連れて行く。そして今回は、
「やっとホテルに到着した。菜苗、疲れていないか?」
 二日分の旅行の荷物を入れたスーツケースを転がしながら、仁史はたずねる。
「さすがに疲れたわ。月面都市間モノレールに初めて乗ったけれど、予想以上にきゅうくつで」
 同じくスーツケースを持った菜苗は、苦笑する。菜苗たちは、第三月面都市から第一月面都市に数時間かけて移動したのだ。ちなみに都市間の移動には、パスポートが必要だ。
「でも今から、月面最高のオーケストラが聴ける」
 菜苗は子どものように、わくわくしていた。仁史も、得意げな笑顔になる。
 月面には、プロのオーケストラはほとんど存在しない。また菜苗たちの暮らす第三都市には、プロのオーケストラなんてない。だから月面最高とは言っても、地球に比べれば未熟な演奏だろう。しかし将来性は抜群かもしれないと、菜苗は思っている。
 そのオーケストラのコントラバス奏者が、仁史の友人なのだ。菜苗は初めて第一都市に来たが、仁史は何度か来たことがある。オーケストラも聴きに行ったことがある。なので道中は、ずっと菜苗をリードしてくれた。
 ホテルの受付で早めのチェックインを済ませて、部屋に入る。菜苗は疲れきって、ダブルベッドに腰を落とした。朝も早く起きて、たくさん歩いたので、体がへとへとだ。
「コンサートまで、まだ時間がある。近くのレストランで昼食を取ろう」
 スーツケースを部屋の奥に運びながら、仁史が言う。開演は午後四時だ。
「うん。食事の後でフォーマルに着替えて、コンサートだね」
 菜苗は答えてから、うつむいた。恋人と一緒におしゃれをしてクラシックコンサートを聴きに行く。これは、菜苗が十代のころにあこがれたデートだ。しかし仁史と婚約していたので、あきらめていた。
 さらに婚約解消後、付き合った男性たちはクラシックに興味がなかった。なので菜苗のあこがれはかなわなかった。
(そのあこがれが、仁史の手でかなえられるなんて皮肉ね)
 ホテルの部屋に入ったとたん、菜苗はゆううつになっていた。今夜、このベッドで仁史と愛し合う。仁史は何も言わないが、菜苗も何も口にしないが、二人ともそれとなく分かっている。初めての泊まりがけの旅行なのだから。
 けれど、これでいいのかという疑問がわき起こってくる。今、菜苗と仁史は、過去の婚約がなかったようにふるまっている。菜苗は仁史に、言わなくてはならないことがある。仁史は菜苗に、しなければならないことがある。
 ふいに黙った菜苗に、仁史は心配そうに顔をくもらせた。
「菜苗、どうした?」
「ちょっと疲れて……」
 仁史は菜苗の隣に、そっと座った。
「レストランはやめて、部屋でゆっくりする?」
 仁史の問いに、菜苗は迷ってからうなずいた。
「駅前にあったパン屋で、何か買ってこようか? それとも食事はやめて、ベッドで横になる?」
 仁史はいつも優しい。だから菜苗は、自分の感情にふたをする。今さら過去のことで彼を責めて、何の意味がある。菜苗は気を取り直して笑った。
「一時間ほどベッドで休むわ。食事はいらない。仁史は、おなかがすいているでしょう? 悪いけれど、ひとりで食べに行って」
 仁史もほほ笑む。
「分かった。おやすみ、菜苗。コンサートは明日もあるから、時間を気にせずに寝ていていい」
 立ち上がろうとする仁史を、菜苗は引きとめた。キスをねだると、彼はすぐにこたえてくれる。
「愛している」
 短いキスの後で、仁史はささやく。彼は、婚約していたときに好きと言えなかったぶん、しょっちゅう愛をささやく。菜苗はすがるように、彼を抱きしめた。
「私も愛している」
 この愛さえあれば、きっと過去を乗り越えていける。
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