恋人は月でピアノを売っている

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  01 地球から月へ  

  菜苗 ななえ の元婚約者は、五才も年下のくせに、いつも申し訳なさそうにほほ笑んでいた。そして菜苗に遠慮して、けっして自分の想いを口にしなかった。
「重力ってすばらしい!」
 月着陸船から宇宙港に降り立って、菜苗は思いきり伸びをした。なんせ、ずっと無重力だったのだ。トイレさえ満足にできない、眠っているときも体がぷかぷか、唯一の救いは食事が案外まともだったことか。
 種子島にある鹿児島宇宙港から地球周回軌道上の宇宙ステーションへ、そこから約二十時間をかけて月周回軌道上の宇宙ステーションへ、そこから月面都市の宇宙港へ。
(乗りつぎのための待ち時間も含めて、私は一日半も宇宙にいた。いい加減、おふろに入って、髪を洗いたい)
 菜苗は、宇宙へ出るのは初めてだ。出国手続きと入国手続きは、それぞれの宇宙ステーションで行った。
「待ってください!」
 荷物の受け取り場所へ急ぐ菜苗を、誰かが追いかけてくる。しゃべっている言葉は英語だ。月面都市の公用語は、英語である。
 着陸船で隣に座っていた、東アジア系の若い男性だ。船の中でも話しかけてきて、菜苗には少し迷惑だった。彼は興奮した様子で、口を開く。
「あなたの顔をどこかで見たことがあると、ずっと考えていました。あなたは 桜咲 さくらさく 菜苗さんでしょう?」
 昔やっていたアイドルの芸名を出されて、菜苗はげっと声を上げそうになった。
「俺は昔、日本に住んでいて、あなたの大ファンでした。いや、当時は東アジア中の人間が、あなたのファンでした。二十二世紀到来カウントダウンライブは、ネット中継にかじりつきでした」
 菜苗は、痛む頭をおさえた。菜苗は今、二十六才。アイドルをやっていた過去など痛々しくて、目も当てられない。
 菜苗が芸能界に入ったのは、父の希望だった。父は、菜苗が自分の恵まれた容姿をいかし、政治家や企業家たちとつながりを持つことを期待していた。
「大企業の御曹司と婚約して、あなたが引退したときは、一晩中泣いて、御曹司をうらんだものです」
 その婚約は三年前に、御曹司が月へ行くことで破棄された。菜苗は、ファンの男から逃げようと、はや足で通路を歩く。
 荷物の受け取り場所に着くと、幸運なことに、菜苗のスーツケースはすぐにベルトコンベアで運ばれてきた。菜苗はひそかにガッツポーズを作る。そしてまだ荷物が流れてこない男を無視して、出口を目指した。
 出口から出ると、人待ち顔で立っている人が大勢いた。名前の書かれたボードを持っていたり、Welcomeと書かれたかわいい風船を持っていたりする。恋人を待っているのか、大きな花束を持っている男性もちらほらいる。
 菜苗には迎えの人はいない。なので、さっと人ごみをすり抜けようとする。すると、
(なんで、ここにいるの?)
 菜苗は驚いて、足をとめた。二十代男性。黒髪黒目、中肉中背。とりたてて特徴のない外見だ。服装にも目立つところはなく、普通のスーツ姿だ。あえて言うなら、まだ若いのに、スーツを自然に着こなしている。
 彼は偶然、ここに用事があって立っているのか? 彼は菜苗を、とまどった顔をして見つめている。もしも偶然でないならば、なぜここにいるのだろう。菜苗は彼に、月へ行くことを伝えていない。
仁史 ひとし さんに会うのは、三年ぶりだ。ずいぶんと大人びて見える)
  椿 つばき 仁史は、菜苗の元婚約者だ。仁史は心配そうな顔で、菜苗に近づいてくる。彼の手には、花束はなかった。
「菜苗さん」
 彼がしゃべるのは日本語だ。一日半ぶりの母国語に、菜苗はちょっとほっとした。
「あなたのお父様から、私に連絡が来ました。彼はあなたを心配しています。すぐに日本へ帰ってください」
「え?」
 父が仁史に連絡を入れたことに菜苗は驚き、そのあとで顔をゆがめた。
 父が仁史に、菜苗の船の便を教えたのだろう。それだけなら許せる。ただ父は、金や肩書きで人を判断する。だから父は仁史に、失礼なことを言ったにちがいない。ただでさえ、心労が重なっている仁史に。
「父の無礼をおわびします。ですが父のことは、捨て置いてください。私は月面移住を決めました」
 就職先も住居も決めている。日本では、英語の勉強のために語学スクールにも通った。
「話は変わりますが、あなたにも、あなたのご家族にも親しくさせてもらいながら、あなたのお父様のご葬儀に参列できなかったことをおわび申し上げます」
 菜苗は深く頭を下げた。
「いえ、急なことでしたので。それに地球と月は遠いです。けれど、あなたからは心のこもったお花が届きました。ありがとうございました」
 仁史もおじぎをした。彼のおじぎは、初めて会ったときからきれいだ。育ちのよさがうかがえる。
「おいそがしい中、宇宙港まで出迎えてくださってありがとうございます。ですが今は疲れていますので、ホテルで休もうと思います。失礼いたします」
 菜苗はていねいにしゃべって、立ち去ろうとした。
「分かりました」
 仁史は、菜苗のスーツケースに手を伸ばす。菜苗は迷ったが、仁史の好きなようにさせた。彼はスーツケースの取っ手を持つ。
「ホテルまで送ります。どこのホテルですか?」
「宇宙港内のホテルを取りました」
 単なるピアノ講師の菜苗には、かなりの額だった。
「それなら分かります。案内しますので、ついてきてください」
 仁史はスーツケースを転がしながら、港内の通路を進む。菜苗は彼についていった。どうしよう、……やっぱり断ろう。
「ひとりで行けます。私は仁史さんに、ご迷惑をかけたくないのです」
 彼の背中に話しかけた。
「迷惑ではありません。……その」
 彼は黙った。しばらくしてから、
「あなたのお父様から、あなたは私に会いに来たとうかがいました」
 今度は菜苗が黙る番だった。本当に父は、余計なことをした。仁史に内緒で月に来た菜苗は、ストーカーのようだ。
「はい。おっしゃるとおりです」
 菜苗は素直に認めた。下手にごまかしても、事態は好転しない。仁史はまた黙る。それから、
「あなたは、復縁を望んでいるのですか?」
 小さな声でたずねた。菜苗は瞳を伏せる。考えて、考えたすえに答える。
「前の関係には戻りたくありません」
 仁史はしばし黙ってから、
「そうですか」
 と言って、菜苗の前を歩き続けた。
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